娘、言付ける
最初に感じたのは、甘い花の香りだった。次いで体が優しい温もりに包まれていることに気づき、ウガルガはゆっくりと目を開ける。するとそこには自分が倒れた時と何ら変わらぬ森が広がっていた。
「……ウガ?」
「あら、目が覚めましたのね」
不意に横から聞こえたのは、ついさっきまで誰よりも会いたくて、今は誰よりも会いたくなかった人物の声。
「タリア!? ソンナ、ナンデオマエ、ココニイル!? マサカオマエマデシンダノカ!?」
「馬鹿を言ってはいけませんわ。悪いですけど私、まだ当分死ぬつもりはありませんわよ?」
「ジャ、ジャアナンデ……」
「うっそ、もう目が覚めてる!?」
と、そこにまた別人の声が響く。ウガルガが視線だけを声のする方に向ければ、そこには薪を手に驚きの表情を浮かべるフレイの姿があった。
「オマエ、ユウシャノムスメ!」
「勇者じゃなくて、元勇者ね。それより体の調子はどう?」
「カラダ……?」
手にした薪を地面に置いたフレイにそう問われて、ウガルガはやたらと重く感じる腕を動かして己の腹に手を当てる。するとそこにぽっかりと空いているはずの大穴がどういうわけか存在していない。
「アナ、アイテナイ!? ナンデ!?」
「こちらのお嬢さんが、貴重な回復薬を使ってくださったんです。それで貴方は一命を取り留めたということですね」
「カイフクヤク!? ナンデ!?」
妻の言葉にウガルガは驚愕を重ね、強引に首を動かしてフレイの方を見る。そこに浮かんでいるのは強い戸惑いと僅かな怒りだ。
「オレ、センシノホコリカケテタタカッタ! ナノニオマエ、ソレヲ――」
「あら、それは死んでしまった方がよかったってことかしら?」
ウガルガが声を荒げる途中で、その横からヤバスタリアが静かにそう口にする。森の中には似つかわしくない、まるで夜会にでも出向くような紫のドレスに身を包んだヤバスタリアの微笑みは大抵の男を虜にしてしまいそうなほどに蠱惑的だったが……それを向けられたウガルガの背筋には冷たいものが走る。
「へぇ、そうなの。この私に二度と会えなくなることより、戦士の誇りとかいうどうでもいいものの方が重要なのね?」
「イ、イヤ、ソウジャナイ。デモセンシノホコリダッテ……」
「ならどっちが大事なの? 貴方は戦士の誇りのために、私や娘を捨てるような男なの?」
「……チガウ。オレ、オマエタチガイチバンダイジ」
「なら素直に喜びなさい。貴方は戦いに敗れて、でも助かった……それだけが事実よ」
寝たまま動けないウガルガの顔に、ヤバスタリアが唇が触れそうな程に自分の顔を近づける。そこまで近くなって初めて、ウガルガはヤバスタリアの赤い瞳に薄く涙が溜まっていることに気がついた。
「貴方は頑丈なだけが取り柄なのだから……私達を残して先に逝くなんて、絶対に許しませんからね」
「スマナイ」
ウガルガの太い腕が、ヤバスタリアの細い腰に回される。そうしてしばし抱き合うと、ウガルガは妻の体を離してから改めてフレイの方に視線を向けた。
「オマエニモカンシャスル。ユウシャノムスメヨ」
「だから勇者じゃないって言ってるじゃない! フレイよフレイ! てか突然流ちょうに喋った時はちゃんとアタシの名前呼んでたでしょ!?」
「ム、ソウダッタナ。デハフレイ……ッ!?」
フレイの名を口にした瞬間、ウガルガの背にまたも冷たいものが走った。恐る恐るその気配の元に視線を戻せば、そこには静かな微笑みを湛える妻の顔がある。
「タ、タリア?」
「あら、どうかなさいましたか?」
ヤバスタリアは笑っている。ただしそれは顔だけで、内心は酷く怒っていることをウガルガは長い夫婦生活で察することができた。
そう、ヤバスタリアは怒っていた。正確には拗ねていた。「え? 私と娘以外の女の名前を呼び捨てにするんですか? しかも私の前で?」と、無言の笑顔で責め立てていた。
「アー……カンシャスル、ニンゲンノムスメヨ」
「何その半端な感じ……まあいいけど」
その辺の機微は、フレイにはよくわからなかった。それでもなんとなく雰囲気を察してフレイは首を傾げつつもその場を流す。
「デハ、アラタメテキキタイ。ナゼオレヲタスケタ? ヒョットシテタリアニタノマレタカ?」
「違うわよ? その人が来たのはアタシが回復薬を使った後だし」
ヤバスタリアがこの場にやってきたのは、勝負がついてから二〇分ほどした後だ。昼間だというのに巨大なコウモリが高速で飛来したかと思えば、それが敵意と殺意をむき出しにした美女に変じた時はフレイ達の間にかなりの緊張が走ったが、意識こそ戻らないものの呼吸の安定したウガルガをひと目見た瞬間その美女が泣き崩れてウガルガの大きな体を抱きしめたところで、互いの意識から戦うという選択肢は消えていなくなっていた。
「ナラナンデダ? オレ、オマエタチコロスツモリデタタカッタ。ナノニドウシテ?」
「本気で戦ったのはお互い様でしょ? アンタ……ウガルガさん、強かったし。だからまあ、アタシがそうしたかったからってだけよ。単なるアタシの我が儘ね」
「ソウ……シタカッタ?」
まったく理解できない答えに、ウガルガが呆気にとられる。そしてそんなウガルガに対し、フレイは軽く笑いながら言葉を続ける。
「そ。誰かを助けるのに大層な理由なんていらないのよ。アタシはウガルガさんがいい人だなって、助けたいって思った。戦いの中で命を奪ってしまったならそれを受け入れて背負うつもりだったけど、助けられるのを見捨てるのは違うって思った。
たったそれだけ。ただそれだけ。てか、最後にあんなこと言う人の命なんて背負いたくないわよ! だって絶対恨まれるじゃない!」
「フフ、そうね。もし貴方がこの人の命を奪っていたら……きっと私か貴方か、どちらかの首がここに転がっていたでしょうね」
フレイの言葉に、ヤバスタリアが凄絶な笑みを浮かべる。その死を感じさせる美しい笑みにフレイは苦笑しながらウガルガの方に顔を向け、肩をすくめて言う。
「ね? 助けてよかったでしょ?」
「ウガ……ハッハッハ! タシカニソウダ! タリアハオコルトスゴクコワイカラナ! ハッハッハ……ハウッ!?」
ニコニコしているのに笑っていない妻の視線に射貫かれて、ウガルガは三度その体を硬直させた。それと同時に生きている実感が鈍い痛みとなってウガルガの全身を駆け抜けていく。
「ウググ……」
「ほら、もう少し大人しくしていなさいな。いくら鬼人族の体と貴重な回復薬の力があったって、そう簡単に治ったりしないのよ?」
「ウガ、ワカッタ。ジャアオレ、スコシオトナシクスル」
そっとヤバスタリアに頭を撫でられ、ウガルガはそのまま目を閉じた。その何とも無防備な寝顔を晒す夫にヤバスタリアは慈愛の籠もった手で優しく数度頭を撫でると、スッと表情を引き締めてフレイの方に向き直る。
「改めまして。私はウガルガ・カタコットンの妻にして、風の四天王ヤバスチャン様の血を頂く一族の者、ヤバスタリアと申します。夫を助けていただいたご恩は、私の権能能う限りお返ししたく思います」
「えっ!? いや、そんなに改まられると困っちゃうけど……」
貴人の礼を以てそう告げられ、フレイが思わず取り乱す。慌てて少し離れたところで周囲を警戒しているムーナを呼ぼうかと思ったが……そこでフレイの頭にピンと閃くものがあった。
「あ、そうだ! 四天王の人の一族ってことは、ヤバスタリアさんってそれなりに偉い人と繋がりがあるのよね?」
「え? ええ、全く無いとは申しませんが……しかし幾らご恩を受けたとはいえ、偉大なる宗主であるヤバスチャン様に仇成すような願いはお断りさせていただきますよ?」
「大丈夫大丈夫! 別に魔王軍を裏切れとか、秘密を教えろとかそういうのじゃないから。ちょっとアタシの言葉を伝えて欲しい人がいるのよ。そのくらいなら平気でしょ?」
「そう、ですね。貴方の言葉をお伝えするだけであれば……」
フレイのその言葉に、ヤバスタリアはほんの僅かに逡巡してからそう答える。
自分達の持つ情報を与えるのではなく、相手からの言葉をただ伝えるだけであれば、少なくとも利敵行為と取られるようなことはない。
一応の可能性として偽情報を拡散させることによる混乱の誘発や、内部に裏切り者がいると思わせることによって不和を招く揺さぶり、あるいはそれすら逆手にとって本当に存在する間諜に対する暗号文などなど思いつくことは幾つもあるが、そのどれであっても「勇者の言葉である」という前提を忘れなければどうとでも対処できることだ。
「わかりました。では私はどなたに貴方の言葉をお伝えすれば宜しいのでしょうか?」
「魔王よ! 魔王本人に『元勇者のフレイが話をしたがってる』って伝えてくれる? 場所も日時もそっちの指定する場所でいいからって」
「……………………はぁ?」
まるで旧知の友人に伝えるように気楽に言われたフレイの言葉に、ヤバスタリアはパチパチと瞬きを繰り返し、貴婦人にあるまじき声をあげてしまうのだった。