皇帝、報告を受ける
ザッコス帝国、皇帝の執務室。そこでは無言で羽ペンを走らせる皇帝マルデ・ザッコスの姿と、そのすぐ横に立つ宰相ウラカラ・アヤツールの姿があった。
「……………………」
「陛下、そろそろ休憩をなさっては如何ですか?」
「……ん? もうそんな時間か?」
ウラカラに声を掛けられ、マルデは書類から顔をあげる。その顔には色濃い疲労が滲んでおり、目の下に浮かぶ隈はあえて化粧で隠したりせずそのままになっている。この程度の書類仕事でそれだけ疲れていると思わせるのは、暗愚の演技には役立つからだ。
「そうだな。お前がそう言うのなら一休みしよう」
「ではすぐにお茶を用意致します」
マルデの言葉に一礼すると、ウラカラが執務室に据え置かれた道具を用いてお茶を入れていく。本来ならばそんなことは使用人の仕事なのだが、この場には色々と機密が多いため、頻繁に使用人の身辺調査を行うくらいならばこちらの方がよほど手間がかからないとウラカラが自ら覚えたのだ。
「どうぞ陛下」
「ああ、ありがとう……はぁ、落ち着くな」
特別美味くも不味くもない、いわばごく普通の味の紅茶を一口飲んで、マルデがホッと一息つく。本来ならば単なる傀儡皇帝のマルデに回ってくる書類仕事など高が知れているのだが、今はそれとは別の……本来のマルデが欲した情報がここには大量に集積されている。
「まったく、こんなに余が忙しいのはあのお騒がせ勇者のせいだ。いや、もう元勇者か? まさかあれほど簡単に勇者の立場を捨て去るとはな……」
「ですね。あれは流石に予想外でした」
己の真の目的とついでにゲコックとの約束もあり、マルデは勇者の行動を縛り権威を貶めるために幾つもの手を講じていた。特に今回は勇者自身の発言を利用した会心の作であり、これが成されればもはや勇者は障害にはならなくなる……それがマルデとウラカラの共通する予想であったが、勇者フレイはそれを嘲笑うかのように軽々と障害を飛び越えて……いや、ぶち壊していった。
「確かに表向き立場や地位を投げ捨てて、自由を得た後に裏で暗躍するというのは賢いやり方だ。余も似たようなことをやっているしな。
そして、そうやって表に出ないように活躍してくれるのであれば余としても別によかったのだ。問題なのは『勇者』が活躍することであって、無名の小娘が活躍することではないからな。だが……」
そこで言葉を切ると、マルデは忌々しげに顔を歪める。
元勇者フレイの活動がマルデにとって不都合なただ一つの理由……それは勇者を辞めたとしても『ぼうけんのしょ』の更新が止まらなかったことだ。
「『ぼうけんのしょ』ですか。勇者を辞めたというのに未だにその活動が記録され続けているのは一体どういう理由なのでしょうか?」
「さあな。元々勇者の特権は諸国の王が勝手に与えているものだが、勇者としての力はあの娘が生まれ持ったものだ。つまりはそういうことだろう」
「生きている限りは、ですか」
「だろうな。勇者が死ぬとどうなるのかはわからんが」
過去三度の戦いにおいて、勇者は全て魔王に勝っている。その後勇者の力が子供に受け継がれたという史実はないため基本一代限りの力だと言われてはいるが、魔王が存命の状態で勇者が死ぬとどうなるのかは未だわかっていないし、検証することなどできるはずもない。
(地下の『信仰の書』を調べても、その辺のことはよくわからなかった。まあわかっていることの方が少ないのだから仕方ないが……これは痛いな)
マルデの真の目的のためには、勇者の活躍に皆が傾倒することは極めて都合が悪い。だからこそ様々な手段を用いて勇者の評判を落としたり、今回のように行動を制限しようとしたりしたのだが、こうなると打てる手が思いつかない。
(勇者の危惧した「魔族との不幸な衝突」を避けるためという理由で、一般の冒険者の魔族領域への立ち入りを制限するか? できなくはないだろうが……駄目だな、おそらく何処かの王族が特別許可を出すはずだ)
直接会った印象や一連の騒動を鑑みれば、勇者フレイの行動力はかなりのものだ。許可がいるとなればその許可を得るために積極的に動くだろうし、それに応えそうな王族は幾人もいる。
それに何より、そもそもの問題の発案者であるフレイを正当な理由で「魔族領域へ入らせない」とするのは如何にマルデであっても無理だ。反勇者の派閥に直接介入すれば論議にくらいはできるだろうが、暗愚の仮面を暴かれる危険を冒してまで成功率の低い賭けにでるほどマルデは愚かではない。
(となると、他に要求できそうなのは魔導船や聖剣の返却要請か? だがなぁ……)
今現在フレイ達は魔導船を使っておらず、魔族領域での活動にも必要としていない。ならばそんなものを奪い返したところで帝国内に邪魔な置物が増えるだけだ。
聖剣の方は効果があるかも知れないが、今まで集めた情報からすると聖剣というのは武器としては特別に強いものではないようだった。手入れ不要の劣化しない極めて頑丈な武器というのは確かに便利ではあろうが、相応の金を積めば似たような魔剣、名剣の類いは手に入らないこともない。
そしてそうなれば、ここぞとばかりに各国が剣を援助する未来が透けて見える。自国の王が手渡した剣で元とはいえ勇者の活躍する姿が世界中に喧伝されるのだから、それこそ国宝を貸し出したって安いものだろう。
「どうしたものだろうな……」
「あ、それと陛下。追加でご報告があります」
悩みながらもギシリと椅子の背もたれを揺らすマルデに、紅茶のカップを降ろしたウラカラがそう声をかける。ただしその顔には若干の困惑が浮かんでおり、だからこそマルデは弛緩しかけた意識を引き締めて言葉の続きを待つ。
「ジュバン卿……いえ、もうただのニックでしたね。ニックに情報を渡した貴族に動きがありました」
「聞こう」
「イーワ国内にて、貴族家の当主が襲われるという事件が三件ありました。うち一件はこちらがニックに情報を渡したシーラズ男爵で、残りの二件に関しても勇者に対して何らかの害意を持っていた者です」
「ふむ……追加の二件、それに関する情報をニックに渡さなかった理由はなんだ? まさか知らなかったなどとは言わんだろう?」
今の報告を聞いて追加の二件がニックと無関係だなどと思うほどマルデは間抜けではない。当然のその問いかけに対し、ウラカラはよどむこと無く答える。
「ハッ。その二人に関しては依頼そのものを断られたということで、実際には『何もできなかった』からです。なので通常ならば辿れる情報ではないはずなのですが……」
「それをニックは辿って、きちんと処罰したということか……どうやったのかはわからんが、やはりあの男は危険だな。
念のため聞くが、こちらの工作がばれているということはないな?」
「はい。陛下の名演を見破った者は一人もいないかと」
小さく微笑んで賞賛の言葉を口にするウラカラに、マルデも小さく笑って答える。だがその表情からは依然として真剣さは失われていない。
「フッ……だが油断はするな。万が一露見した場合も想定して正当性の主張ができる手段のみで勇者の活動を妨害してきたが、状況が切迫してきた現状ではもう安全策ばかりは取れない。次はきっと……」
(そう、次の策だ。魔族との和平を持ち出され、勇者の支持も盛り返してしまった今、もう無傷の軽い手では盤面をひっくり返すことはできない。そうなれば……)
「……痛みを伴う手を使う必要があるかも知れんな」
そう小さく呟くマルデの目には、ウラカラに語った『覚悟』の光が強く昏く宿っていた。