不知男爵、限界を超える
尾籠な表現が含まれますので、苦手な方はご注意ください。
(せっかく眠れそうだったというのに……)
もぞもぞと体を動かし、ミノホドはベッドから出ようとした……が、そこでふと『嘘つき伯爵と金色の霊』の詩の内容が頭をよぎる。
(そう言えば、あの話の結末は貴族が厠に落ちるというものであったか)
嘘を重ねて領民から税を搾り取り、その金で贅沢三昧の日々を送る悪徳伯爵。だがそこに金の臭いに誘われて金色の霊がやってきて、得意の嘘で何とか霊を追い返そうとする伯爵とどうにかして伯爵の金を奪い取ろうとする霊との攻防が始まる。
最終的には伯爵が負けて霊に取り殺されそうになり、追いつめられて逃げ込んだ先の厠に落ちて糞尿まみれになることで「金の臭い」が嗅ぎ取れなくなった霊が去って行くも、それに気づかず穴の中で今までの悪事を必死に悔いて命乞いをする伯爵の言葉が民衆に聞かれてしまい、嘘と糞にまみれた伯爵が全てを失う……というのが『嘘つき伯爵と金色の霊』の内容だ。
(実に下らん。粗野で下品、貴族を粗雑に表現するような輩が作る話などこの程度が限界なのだろうが)
言ってしまえば、不快の一言。ただそれだけであるが、今気になるのはそんなことではない。
(そもそも、厠になど落ちるわけがないではないか。一体何処の田舎の話なのだ?)
辺境の田舎村であれば、穴を掘った上に二本の板きれを渡し、その上に跨がって用を足すという場所も無くは無い。が、今時ならば民家だろうとしっかりと作られた木製の便座の下にそれ用の壺を置いて致すのが普通だ。
つまりは落ちるべき穴そのものがないのだから心配するだけ無駄なのだが、それを理解できていてもなおミノホドの頭には『嘘つき伯爵と金色の霊』の話と、既に二度見た光る男の姿がこびりついて離れない。
(いっそこのまま無理矢理に寝る……というわけにもいかんか)
意識すればするほど下半身からの欲求は強くなり、これを無視すれば齢四〇にて寝小便をするはめになるかも知れない。その恥は恐怖に勝り、ミノホドはのっそりと体を起こすとベッドから立ち上がった。
「男爵様? どうされましたか?」
「用を足しに行く。五……いや、二人着いてこい」
「ハッ!」
刃物を持った賊が襲撃してきたというのであれば前後に二人ずつ、自分の隣に一人の五人は大げさではないが、正体不明の怪異を相手にそれでは怯えていると勘違いされてしまう。
まあ実際は完全に怯えており、そもそも寝室に一〇人も護衛を詰め込んだ時点で手遅れではあるのだが、ミノホドにとってはその辺が矜持の許す限界であった。
「では、そこで待て」
「ハッ!」
幸いにして、廊下を歩く間に光る男が姿を現すことはなかった。その事に安堵したミノホドは厠へと入り、後ろ手に扉を閉めようとして……そこで動きが止まる。
「…………」
当たり前の話だが、扉を閉めれば厠は密室となる。だがもしまた密室であの光る男が現れたら? こんな逃げ場の無い狭い空間で自分が襲われることになれば……そんな想像がミノホドの手を止め、しばしの逡巡の後答えを言葉に変える。
「……扉は開けたままにする。お前達はそこで後ろを向いて立っていろ」
「えぇぇ……」
「返事はどうした!?」
「は、はいっ! こちらで警備させていただきます!」
まさかの提案に思いきり嫌な顔をした警備の男達だったが、ミノホドに怒鳴られ即座に厠に背を向けて開け放たれた扉の前に立つ。だがその内心はこれ以上無いほどに苦り切っている。
(うわぁぁぁ……)
緊張が腹に来ていたのか、背後からは水音以外にも破裂音が聞こえるばかりか、嗅ぎたくもない臭いがぷぅんと漂ってくる。
(勘弁してくれ……)
ほんの一瞬隣の男と目配せをして頷き合うと、二人の護衛はただ無心で今夜の特別手当を何に使うかだけを必死に考え込むのであった。
(うぅ、何故私がこんな目に……)
そんな二人の背後では、ミノホドが今日何度目かもわからないそんな思いと共に腹をさする。下民など虫と変わらないと思ってはいても、これで恥を感じないほど図太くはない。
(腹が痛い……ここから出たら薬も用意させるべきか……)
ォォォォォォォォーン……………………
「っ!?」
うつむき踏ん張るミノホドの耳に、今一番聞きたくない声が聞こえる。
ォォォォォォォォーン……………………
「――改めよ」
(い、嫌だ。顔をあげたくない……)
声はすぐ側から聞こえてくる。頭をあげれば、きっとその姿が見える。
ォォォォォォォォーン……………………
「――改めよ」
だが、顔をあげねば何もできない。このまま朝まで尻丸出しで耐えるのはいくら何でも許容できない。
ォォォォォォォォーン……………………
「――改めよ」
故に、ミノホドは顔をあげる。するとその眼前、鼻が触れるほどの距離に、もの悲しげな表情を浮かべる金色の獅子の頭があった。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!?!?!?」
『オォォォォォォォーン……』
「悔い改めよ……」
ミノホドがその場でのけぞったことで、男の全貌が見えるようになる。そこには両手両足を伸ばして蜘蛛のように壁に張り付いた光る筋肉親父がおり、眼前にあった獅子頭は男の股間に張り付いているようだった。
「悔い改めよ……」
「や、やめっ!? 近づくなぁぁ!!!」
光る親父がクイッと股間を動かせば、獅子頭がミノホドの顔に近づいてくる。そのあまりの不気味さにミノホドは恥も外聞も無く叫ぶ。
「お、おいお前等! こいつだ! こいつを捕まえろ! いや、殺せ!」
すぐに光る男の背後に立つ護衛に向かってミノホドが命令を下す。だがどういうわけか護衛の男達は一切の反応を示さず、ただ後ろを向いて立っているのみ。
「おい、どうした!? 返事をしろ! 早く、早くこいつを――」
「悔い改めよ……」
「ひぃぃぃぃ!? ち、近づけるな!」
『オォォォォォォォーン……』
光る男の腰が更に動き、わずかに空いた獅子頭の口にミノホドの鼻先がカプッと噛みつかれるようにはまり込んだ。その迫力と恐怖にミノホドは必死に叫ぶ。
「な、何が!? 何が望みだ!? 一体私が何をしたというのだ!?」
いくら貴族の家とは言え、厠の中まで広いということはない。光る男の巨体がそのほとんどを占めており、ミノホドに許された多少の身じろぎではその手を避けることなどできない。
「悔い改めよ……」
(ど、どうする!? どうすれば……あの話で、貴族はどうやって助かった?)
「か、金か? 金ならやる! 幾らでもやるぞ!? ああ、くそっ、何故私は金貨を持ち歩いておらんのだ!?」
「悔い改めよ……」
焦って体中をまさぐるミノホドだったが、当然ながら寝るときに金貨など持ち歩いているはずもない。ならば次はどうするか……その答えに行き当たった時、ミノホドの口から気の抜けるような笑い声が漏れる。
「ふ、ふへ、ふへへへへ……」
迫り来る発光筋肉に気が狂いそうになっていたミノホドは、意を決して尻を上げその下にある壺……その中身を手に取り自らの体に塗りたくった。
「ど、どうだ! やったぞ! これでもう私の臭いはわからないだろう! ほら、さっさと――」
「悔い改めよ……」
「何故消えぬ!?」
自分が出したばかりの糞を体中に塗りたくったというのに、光る男が消えない。その事に愕然となるミノホドの顔に、両足だけで壁に張り付いている光る男の腕が伸びてくる。
「悔い改めよ……」
「ヒッ……ヒッ…………」
優しくゆっくりと自分の顔を挟み込んだ光る男の手に、少しずつ力が入っていくのを感じる。そこにあるのはこれまでの得体の知れない恐怖からは一線を画す、直接的な死の気配。
(し、し、死ぬ……死んでしまう……あとは、あとは何を……何を……!?)
「悔い――」
「こ、告白ひまひゅ! わ、わた、私はモウ殿に献金するため、幾つもの裏取引をひまひた! ほ、他にも勇者……勇者様に暗殺者を差し向けまひた! 後は――」
震える口を必死に動かし、ミノホドが己の罪を告白していく。だが喋れば喋るほど光る男の顔が自分の顔に近づいて来て、同時にミノホドの顔を挟む手に込められた力も増していく。
「も、もう! もうこれいひょうは……なにも……なにもありまひぇん……っ!」
「……………………」
鼻と鼻が接する程の距離まで近づいた光る男の顔が、その瞬間ニヤリと笑った。眩しすぎてよく見えなかった男の凄絶な笑みを目の当たりにし、ミノホドの意識が遂に限界を迎える。
「ハッ……ヒッ…………」
「――次は無いぞ」
その言葉を残し、フッと光る男の姿が消える。やっと開放されたことに気が抜けたミノホドはその場で意識を失い、全身糞まみれで泡を吹いて倒れているミノホドの姿に護衛の男達が気づいたのは、それから五分後のことであった。