父、仕込みを終える
「ふっふっふ、そろそろいい頃合いだな」
マブダッチの町の夜。通りを歩けばそこかしこから『嘘つき伯爵と金色の霊』の詩が聞こえるようになったことで、ニックはニヤリと悪い笑みを浮かべる。
『まったく、随分と迂遠な手を使ったものだ』
そんなニックに、オーゼンは少しだけ呆れたような声で言う。
タチギキがニックに話しかけてきた翌日から、ニックはこっそりと冒険者達に「幸運」を届けていた。
それは適当に倒した魔物から牙などの「落ちていても不自然ではない」部位を引き抜いて人が通りそうな場所の近くにそっと置いておいたり、オーゼンの力を借りてちょっとだけ稀少な薬草の生えている場所を特定し、そこに至るまでの道筋をよく見れば気づけるように下草を踏みつけておいたりと、ごく些細なものだ。
だが、だからこそ幸運に恵まれた冒険者達はそれが単なる偶然であることを疑わなかったし、その程度であれば大騒ぎするような者もいないため、何故か毎日幸運な者がいることに気づく者も、またそれを不自然だと調べるような者も現れなかった。
そのうえでニックは近くの冒険者達の力量を見極め、大怪我や死を覚悟するような魔物が側にいる場合のみこっそりと仕留める……つまりは「不幸」の部分を徹底的に削ったことで、見事「『嘘つき伯爵と金色の霊』の詩を聞くとちょっとした幸運がやってくる」というとりとめのない噂を流行として定着させることに成功したのだ。
「仕方あるまい。お主が超常現象に見せかけて貴族の家を崩壊させるのが駄目だと言うからこんな手を使うしかなかったのだからな」
『駄目に決まっているであろうが! というか「突如発生した地割れに屋敷ごと飲み込まれる」や「不思議なことに部屋という部屋にクサイムがギュウギュウに大量発生している」などというのを我が認めると本気で思ったのか!?』
「地割れはともかく、クサイムは割といいかと思ったのだがなぁ」
『いいわけあるか!』
生きている状態のクサイムは、特別な臭いを発しているわけではない。だが少しでも傷つければ気付け薬の原料となる体液をまき散らすため、事情がない限り見かけたら全力で距離を取るべき魔物だ。
そんなものがあらゆる部屋にギュウギュウに押し込まれて傷つけない限り部屋から出られないというのは相当な嫌がらせであり、かつ怪我人が出るわけでもないため当初は優れた作戦だとオーゼンも思ったのだが、ニックが試しに出した気付け薬を分析した結果その意見は完全に反転してしまった。
『あんなものを体中に浴びたら悶絶するどころではすまぬぞ? 普通に意識障害が残るどころか、呼吸器に異常が出れば死ぬ可能性も決して低くはない。
貴様の娘にしでかしたことを鑑みれば別にその貴族の生死をどうこういうつもりはないが、貴様としてはそこまでは望まぬのだろう?』
「まあなぁ」
ニックとしては勇者を殺そうとする輩が不慮の事故で死んだとしても何も思わない反面、事実上の被害がまったくなかったこともあり、どうしても苦しめて殺してやりたいなどという強烈な復讐心があるわけでもない。単純に相応の罰を与えて己の罪を自覚させたいというだけだ。
『そういうことを思えば、貴様の考えたこの作戦は妥当なところだと思うぞ。それにそろそろ追い込みに入るのだろう?』
「うむ。ここまで広まれば如何に貴族、そして自分にとって不快な詩とはいえ耳に入らぬということはないだろうからな」
何気なく町を歩きながらも、ニックの視線がツイと動く。幾つもの建物に隔てられその姿を直接見ることは適わないが、その先にあるのはフレイに暗殺者を送った世界で一番愚かな貴族、ミノホド・シーラズ男爵の邸宅。
『……そう言えば最後の詰めをどうするのか聞いていなかったが、どうするのだ?』
「ふふふ、それはな――」
「全く以て忌々しい……何故こんなことになったのだ」
自宅の寝室にて、ワイングラスを片手にミノホドがそう愚痴をこぼす。本来ならば鮮やかな赤を湛えるべきそのワインは、何処かくすんだ色をしている。
「くっ、不味い……この私がこんな安物を飲まされるとはな」
庶民が水代わりに飲むものとは比べるべくもない高級品とはいえ、貴族が嗜むにしては安物の……間違っても来客には出せないようなワインの味に、ミノホドは露骨に顔をしかめる。ここまで落ち目になったのは、偏にナッカ・イーワ侯爵に反旗を翻し、その弟であるモウの派閥に属したのが発端だ。
「何故この私だけがこれほどに冷遇されることになるのだ!? 誰よりも率先してあの恥知らずの勇者を誅しようとしたこの私が!?」
ダンと乱暴にワイングラスをテーブルに置けば、その中身がこぼれてミノホドの袖に赤い染みをつくる。己の行動が「汚れ」になって返ってくるという事実そのものが気に入らなくてミノホドは更に顔をしかめるが、手にしたグラスを放り投げることだけはかろうじて自制した。
「くそっ、くそっ、くそっ! 何もかもが気に入らない! そもそも何故あのような甘い男に皆賛同するのだ!? 貴族であれば特権を活用して己の利益を最大限に高めようとするのは当然ではないか!」
苛立ちと共に思い出されるのは、国内最大派閥の長となったナッカ・イーワ侯爵のこと。彼の政策は貴族のみならず民にまで平等・公平を謳うものであり、それは今まで自分が築き上げてきた権力の多くをそぎ落とすものだった。
「尊き血を持つ者はそれに相応しい生活を送るべきであり、その為に必要な財貨を民が捧げるのは当然ではないか! 無知蒙昧な民を導いてやるのだから、その分の対価を得ることの何が悪い!? 金の使い方を知らぬ馬鹿者共に金を持たせたところで意味などないではないか!」
苛立ちは更に募り、ミノホドの胸の内には怒りが湧き上がってくる。酒を飲んだことも手伝って、その顔は既に手にしたワインよりも赤い。
「あの小娘にしてもそうだ! 倒すべき敵と和平を結ぶ!? 馬鹿にも程がある! 魔族などという下賤の存在と言葉を交わして手を取り合うなど、遙か昔から魔族と戦い続けてきた我らの先祖に対する裏切りではないか!」
グラスの中身を飲み干すと、もう一度大きくその手をテーブルに打ち付ける。酔いが回っているせいで今は何も感じないが、明日になればその手が鈍く痛むであろうことは想像に難くない。
「許せぬ! 許せぬ! 許せぬ! 我が家の利権を脅かすナッカ侯爵も、戯れ言を世界に宣言したどころか無責任にも勇者を辞めるなどと抜かし、法と秩序を投げ捨てた上で助けると言った魔族を虐殺して人気を得るあの小娘も、何もかもが気に入らん!」
遂に押さえが聞かなくなって、ミノホドが手にしたグラスを投げてしまった。途端にガシャンという高い音が部屋に響き渡り、使用人の一人が慌てて部屋に飛び込んでくる。
「旦那様!? 大きな音がしましたが、何が?」
「……何でもない。ちょっと手が滑っただけだ」
「ああ、これはまた……」
粉々に割れたグラスを見て、使用人の男がため息をつく。まだ羽振りがよかった頃に購入したそれはなかなかの高級品であり、今の男爵家の財政ではおいそれと買い直すことはできないのだ。
「とりあえず、すぐに片付けますので、しばしそちらをお動きにならないようお願い致します。それと少し窓を開けますが、宜しいですか?」
「好きにしろ」
「畏まりました」
ミノホドの承諾を得て、使用人の男が部屋の窓を開けてからグラスの破片を掃除する。窓を開けたのは掃除に必要だったからではなく、少しでも冷たい夜風に吹かれてミノホドの頭が冷えてくれればいいという思いからだが、勿論そんなことを直接言えるはずもない。
「……不快な詩が聞こえるな」
そんな使用人の男の期待とは裏腹に、窓を開けたことでミノホドの耳に聞きたくもないものが聞こえてしまう。所詮は男爵家ということでその邸宅は町の通りからそう離れてはおらず、またちょうど部屋に吹き込む風が大通りの方から吹いてきているという偶然もある。
「貴族が失態を犯す詩が人気とは、平民とはつくづくどうしようもないな」
「申し訳ありません。ですがあの程度の内容では差し止めるわけにもいかず……」
「わかっている」
使用人の男の言葉に、ミノホドは渋い顔でそう答える。単に貴族が酷い目に遭う話であれば不敬罪を用いることもできるが、あくまでも「悪徳貴族」が酷い目に遭うというのであれば、それを差し止めさせるのはまるで自分が悪徳貴族であると言うようでどうにも体裁が悪い。
「イーワ侯爵殿も、平民に甘いだけではなくああいう無作法な輩をしっかりと取り締まってくれればいいのだがな」
心底不愉快そうにミノホドがそう呟けば、掃除を終えた使用人の男によって窓が閉められ、不快な音が聞こえなくなる。それを機にミノホドがベッドへと潜り込むと、使用人の男が部屋の明かりを落としてから寝室を後にした。
「何もかも気に入らん。こんな日はもう寝るしかあるまい」
小さな魔石灯のみが光る室内で、ミノホドはもぞもぞとベッドの中で転げ回る。だが腹の虫は収まらず、どうにもなかなか寝付けない。
「下民や元勇者の小娘は私の安眠までも奪うのか? いい加減に……?」
ォォォォォォォォーン……………………
不意に、ミノホドの耳に犬の遠吠えのような声が聞こえた。それはこの世の全ての悲哀を背負っているかのような悲しげな響きで、ミノホドは寝転んだまま首を動かし周囲を見回す。
「野犬か? それにしては随分声が近いような……」
ォォォォォォォォーン……………………
「……何処からだ? まさか……部屋の中、か?」
ォォォォォォォォーン……………………
「――――改めよ」
その鳴き声と呼応するように、どこからともなく人の声のようなものまで聞こえてくる。驚いたミノホドが身を起こししきりに部屋中を見回すが、そこには当然のように何もない。
「だ、誰だ!? 何処にいる!? この私がシーラズ男爵家当主、ミノホド・シーラズだと知っての狼藉……か?」
右を見ても左を見ても、あるのは見慣れた室内だけ。だがミノホドが上を見たとき……そこにソレはいた。
「あ…………あっ…………!?」
『オォォォォォォォーン……』
「悔い改めよ……」
ミノホドの視線の先には、眩いばかりに全身を光り輝かせるほぼ全裸の筋肉親父の姿があった。