百合貴族、逃亡する
「ハァ……ハァ……ハァ……」
「ユリアナ様、もう少しだけ頑張ってください」
「ええ、わかってますわ」
レーズベルト家、非常用地下通路。自分を心配する護衛の雌に対し、ユリアナは少しだけ強がってそう答える。特に体力が無いわけでもないユリアナが息を切らせているのは、偏に先に回った三カ所の脱出口全てが帝国軍の兵士に押さえられていたせいだ。
「まさかこんなに手際よく屋敷の周囲を押さえられているとは……今回の案愚帝の飼い主は、想像以上に優秀なようですわね」
カゲカラの頃は、礼節さえ忘れなければ比較的自由に活動することができた。本心がどうであるかはともかく、金の卵を産む鶏を「気に入らないから」という理由で絞め殺さない程度には理性があったのだろう。
そんなカゲカラが死に、今帝国で実権を握っていると言われているのは三人。大国ノットルデムから派遣されてきた政治顧問のヤリテー・リーマンという男に、ツツモタセ連合国から監査員の名目で来ているネコカブリナという女、そして最後の一人はカゲカラの息子であり、現帝国宰相であるウラカラ・アヤツール。
今の帝国で自分の屋敷を囲める程の兵……しかも全員に魔導鎧を着せている……を動かすことができるのは、どう考えてもこの三人しかいない。
が、ヤリテーに関してはロリペドールを通じて話が通っており、ネコカブリナの方は「有能な男を籠絡して意のままに操る」という活動方針から対立しかけたところで「自分は一切男に興味は無い」と正直に告げたことで互いに不干渉でいることを約束している。
そうなるとこの仕込みはウラカラという若い宰相のものということになるのだが、自分より七つも下の二五歳という若さでこれほど上手く人を使える手腕はユリアナからしても感心するしかなかった。
「ユリアナ様、やはり私が単独で包囲網を抜け出し、ナサケナスの町へ援軍の要請に行った方がよいのでは……?」
「それは駄目だと言ったでしょう? そんなことをしたらこの場を乗り切れたとしても、後が続かないわ」
護衛の一人の言葉に、ユリアナは軽く顔をしかめながら言う。
抜け穴の出口からそっと外をうかがった結果を踏まえて考えるならば、おそらく屋敷を囲んだ敵の兵力はおおよそ一〇〇人前後と思われる。それらを力尽くで押さえ込むとなると最低でも三〇〇、できれば五〇〇人ほどの兵士が必要となるが、流石にその人数を動かせばどうやっても目立ってしまう。
それに何より、近隣の町に駐在しているのはあくまでも「たまたま休憩している他国の兵」であり、ユリアナを助けるという名目以外でそれをこの町に呼び込む理由が何一つ思いつかない。ここで下手を打って駐留兵を叩く理由を作り出してしまえば、革命どころかレーズベルト家の存続すら怪しくなってしまう。
「私のような浅慮な者でも、ユリアナ様の懸念されることはわかります。ですがそもそもこの場を乗り切れなければ後などないではありませんか!
大丈夫です。この鎧の力を使えば、あの程度の敵など……」
「その鎧は敵も身につけていると貴方だって知っているでしょう? それに前にも言った通り、魔導鎧の力は余り使わせたくないのよ」
食い下がる護衛の女の言葉に、ユリアナは少しだけ強い口調で言う。
初めて魔導鎧を手に入れた時、ユリアナは興味本位で自分も身につけてみたことがある。すると確かに特に鍛えているわけでもない貴族の女としてはあり得ない身体能力を発揮することができたが、同時に言葉にはできない違和感のようなものを覚えてすぐに鎧を脱いでいる。
「私のように純粋な愛に満たされた者でなければ、きっと感じることもできないほどの微弱な力。でも間違いなくその鎧には人の心を動かす能力があります。今は非常事態ですから身につけさせていますが、本当はそんなものを貴方達に使って欲しくないのですよ」
「ユリアナ様……ご心配には及びません。私達のユリアナ様への愛が、こんな魔法道具如きに汚されるはずがありません!」
「そう信じてはいるけれど、ね。どんな上質なワインだって、泥が一滴混じってしまえばそれは泥になる。貴方達の私への愛が濁ってしまうのではないかと怯える私の弱さを、どうか受け入れて頂戴」
「ユリアナ様……」
伸ばされたユリアナの指が、護衛の女の頬にそっと触れる。その滑らかな感触に護衛の女がうっとりした表情でユリアナを見つめ……
「おぅおぅ、盛ってるところ悪いけど、そこまでにしといてくれるか?」
「っ!? 何奴!?」
突然聞こえた知らぬ声に、護衛の女達が素早く剣を抜き放ちユリアナを囲む。そうして四人に守られたユリアナが目にしたのは、目にも鮮やかな翡翠色の魔導鎧を身に纏う背の低い騎士。
「その鎧……確か魔族領域での戦闘で有名になった帝国の騎士がいたって言うけど、貴方がそうね」
「お、こりゃ驚いた。男嫌いのアンタがまさか俺に直接話しかけてくれるとはね」
おどけた口調で答えるのは、間違いなく男の声。だがユリアナは顔の見えない翡翠の騎士に対し、スッと目を細めて言葉を続ける。
「フンッ。本当なら話したくはないけれど、今は仕方ないでしょう? それに貴方……雄ではあっても男ではないですわね?」
「…………マジか。そんなことまでわかるもんなのかよ」
ユリアナの指摘に、翡翠の騎士……ゲコックは驚きの声をあげる。今までもうっかり口を滑らせて正体がばれそうになったことは何度かあったが、初見で自分が人ではないと見抜かれたのはこれが初めてのことだった。
「心底嫌っているからこそ、その種類もわかるのです。貴方、おそらく獣人なのではなくて? それも同族の雌にしか欲情しない種族の」
「ま、当たらずとも遠からずってところだな」
ユリアナの指摘を、ゲコックは曖昧にはぐらかしつつ剣を抜く。軽い口調とは裏腹に修羅場をくぐり抜けてきた本物の戦士が放つ威圧感はかなりのものであり、護衛の女達が小さなうめき声を漏らしつつジリジリと後退していく。
「……なら、一つ聞かせて頂戴。貴方は掃除夫? それとも番犬かしら?」
「……? どういう意味だ? とりあえず犬じゃねぇけど」
ユリアナの言う暗喩が理解できず、ゲコックが首を傾げる。その腰では鎧の下で相棒がうねうねと動いていたが、魔導鎧を着ている以上その声は聞こえない。
「ハァ……貴方は私を殺しに来たのかしら? それとも捕らえに来たの?」
「ああ、そういうことか! ったく、貴族ってのはどうしてこうもったいぶった言い方ばっかりするのかねぇ。面倒臭くってたまらないぜ」
「で、どちらなのかしら? どなたの指示を受けて来たのかまで教えていただければ、こちらとしてもよい条件で取引ができると思うのですが……」
「……取引? クッ、ハッハッハ!」
「何が可笑しいのです!?」
突然声を上げて笑い出したゲコックを、ユリアナは思いきり睨み付ける。三〇を超えたことで美しさや愛らしさに加え艶やかさにも磨きがかかってきたユリアナの眼差しは、怒っていてすら見つめられた男を本能的に興奮させる力があったが、生憎とゲコックには通じない。
「いや、悪い悪い。まさかこの状況でまだ取引ができると思ってるとは思わなくてな」
「……確かに貴方は強いのでしょうが、こちらの護衛は四人で、全員貴方と同じ魔導鎧を装備しています。如何に実力者とはいえ、たった一人で――」
「甘ぇ」
ユリアナの言葉が終わるより前に、ゲコックが強く床を蹴る。すると瞬く間にユリアナの正面に居た護衛の頭がゲコックの剣に貫かれ、血と脳症のこびりついた剣の切っ先がユリアナの鼻先をかすめる。
「ひっ!?」
「そして遅ぇ」
敵の頭に刺さった剣を手放し、ゲコックの両手の手甲から魔力刃が伸びる。青白い刃が薄暗い地下通路に閃けば、左右の護衛の女の首が飛ぶ。
「このっ!」
「フンッ」
やっと意識が追いついた最後の護衛が、ユリアナの背後から飛びだしゲコックに向かって剣を振るう。だがゲコックはそれを左手の手甲で受け流すと、右手の指をまっすぐ伸ばし、抜き手を敵の喉に放った。
「がはっ!?」
「終わりだ」
喉を突かれ体を丸めた護衛の首を、ゲコックの振るう魔力刃が切り落とす。
戦闘開始から、僅か数秒。たったそれだけの時間でユリアナを守る者は一人もいなくなってしまった。
「ああっ、あああっ!? 何て、何てこと……私の可愛い雌達が……」
「じゃ、アンタには一緒に来てもらうぜ。皇帝陛下がお待ちかねだからな」
「……皇帝? 宰相のウラカラ様ではなくて?」
「……なるほど。俺の正体を見抜ける女にすら本性を隠しきれるたぁ、やっぱり陛下はモノが違うぜ」
「…………?」
たった一日で全てを失い絶望に瞳を曇らせるユリアナを前に、ゲコックはマルデの凄さを改めて思い知って兜の下で苦笑してみせるのだった。