父、切り飛ばす
残酷な表現がありますので、苦手な方はご注意ください。
「む…………」
開け放たれたままの扉の向こうに一歩踏み出すと、ニックが感じたのは妙に甘い香りだった。次いで汗などの体臭に混じりほのかに血の臭いも漂ってきたことで、ニックの顔が不快そうに歪む。
「これは……何と言ったらいいのか」
「一応致死の毒などではないとは思うが、何らかの薬品が使われている可能性は高い。儂は平気だが、シラベルト殿は?」
「今のところは特に異常は感じません。なのでこのまま先に進みましょう」
そう言ったシラベルトに、ニックは無言で頷いてから細い通路を進んでいく。壁に一定間隔で取り付けられた魔導具の明かりが照らす廊下はすぐに下り階段になり、一歩下に降りるごとにその臭いは強くなっていく。
そうして下まで辿り着き、角を曲がると……突然広くなった地下空間に、それは居た。
「フフフ、待っていたよジュバン卿。君ならすぐにここに気づいてやってくると思っていたよ」
一〇メートル四方はあろうかという広さの部屋には、魔石灯ではなく篝火が焚かれている。閉鎖された地下で火を焚くなど正気の沙汰ではないが、おそらくは空気を浄化する魔法道具を設置しているのだろう。
「だから、僕も急いで準備したんだ。これを着るのはなかなかに大変でね。焦りすぎていくつか失敗しちゃったけど、まあそれは仕方ないさ。愛が足りなかった悲しみは、甘んじて受け入れるよ」
冬だというのにじっとりと汗ばむほどに蒸した室内。赤い炎に照らされて部屋の左右には牢獄のようなものが見えるが、幸か不幸か中に人の気配はない。ただ何とも言えない生臭い臭いが漂っているのがひたすらに不快なだけだ。
「でも、これを身につけたからには僕の勝利は揺るがない。いくらジュバン卿が強くても、ね」
ニックよりは小さいとはいえ、目の前の男は一八〇センチほどの身長がある。体つきもガッシリとしており、四五歳という年齢を考えればかなり鍛えられた体だ。自堕落な体型をしている者が多い貴族の中でこれだけの肉体を維持しているのは、偏に彼が本気で『愛』を楽しんでいるからに他ならない。
「凄いよねぇ、魔導鎧! それなりに体力はあるつもりだったけど、これを着るだけで自分の力が何倍にもなった感じだよ! ジュバン卿のような鍛え上げた本物の戦士はみんなこんな力を持っているものなのかい? これなら二晩でも三晩でも子供達と『愛』を語れそうだよ! なにより――」
そこで言葉を切ると、男……マジラヴ・ロリペドールは己の腕に愛おしげに顔を近づける。彼の着込んだ魔導鎧、その表面には……全裸の幼児が縋り付くようにしてロリペドールの全身を覆い尽くしていた。
「『愛』をすぐ側で感じられる……最高だ!」
「それがお主の切り札か」
「そうだよぉ! 自分の命をなげうってこの僕を守ってくれる! ああ、何て素晴らしい! この献身こそまさに真実の愛! 今僕はこの子達の愛によって最強の戦士になったんだ!」
何の感情も籠もらないニックの言葉に、ロリペドールは満面の笑みを浮かべて叫ぶ。事ここに及んですら、その顔には一片の悪意すら感じられない。
「子供の命を盾に……この外道が!」
「おい羽虫、人聞きの悪い事を言うな。これは僕とこの子達の愛の結晶なんだぞ!? 僕の愛しい子供達の僕を守りたいという思いに応えるべく、僕の方でも最大限の工夫をしてるんだ!
恐怖に駆られて暴れたりしないように意識は奪ってあるし、素早く動いても剥がれ落ちたりしないように魔法で固定もしてある! 僕とこの子達の愛の形を、お前如きが愚弄するな!」
吐き捨てるようなシラベルトの言葉に、ロリペドールが激しく反応する。今までならば無視できた存在も、篝火の底に仕込まれた薬によって興奮状態にある今のロリペドールでは受け流せない。
「さあ、行くよジュバン卿! 君に憧れ、君と同じ肉の鎧を手に入れた僕の力が、果たして何処まで通じるか!? 尋常に勝負だ!」
その興奮のままに、ロリペドールが床を蹴る。全身に『装備』された幼子の重さを感じさせない速度で一気にニックに迫ると、そのまま拳を突き出しニックに向かって突っ込んでくる。
「キレ――」
「下らん」
瞬間、突き出されたロリペドールの右腕の肘から先が無くなった。つんのめりそうになりながらニックの横を通り過ぎたロリペドールを余所に、ニックは宙を舞っていた腕を……正確にはそこに装着されていた幼子を傷つけないようにそっと受け止める。
「あっ……え……?」
「ふむ、きちんと息はあるな。見たところ怪我をしている様子でもないし……なあシラベルト殿、この子供は助けられるか?」
「え!? ええと……何とも言えませんが、寝ているだけなら、多分……」
「そうか、ならばよかった。ではこれを頼む」
「え、ええ…………」
切り飛ばされ血が滴る腕に縋り付く幼子を手渡され、シラベルトは受け取ったはいいもかなりの困り顔になる。こんなものどうしていいかわからないし、かといって無碍に扱うこともできない。
そしてそんなシラベルトとは対照的に、腕を飛ばされたロリペドールは目を血走らせてニックに向かって怒鳴りつける。
「じゅ、ジュバン卿! 何を、一体どうやって!?」
「ん? どうと言われても、単に儂の手刀で腕を切っただけだぞ? そもそも戦う者でもないお主の動きなど丸わかりだし、そんな者が幼子とはいえこれだけの大きさのものを身につけていればまともな体裁きなどできるはずもない」
「そんな!? ジュバン卿ともあろう男が、子供に……愛し守るべき対象に何の躊躇もなく攻撃したっていうのか!?」
「いや、腕にしろ足にしろ、動かそうとするなら関節部分は空くであろう? きちんとその隙間を狙って切っておるぞ?」
「隙間!? あれだけの速さで動く僕の体の、こんな狭い隙間を狙って切っただって!?」
「……お主、儂のことを色々調べていたのであろう? なのにその程度のことができないと思っていたのか?」
興奮で痛みを忘れているロリペドールに、ニックは呆れた口調でそう言い放つ。力を手に入れただけでその使い方がわかっていない者の動きなど、ニックからすれば止まっているのと変わらない。その程度の相手であれば、たとえ狙う隙間が指一本分だろうが目を瞑っていたとしても外すことなどあり得ないのだ。
「そんな、そんな馬鹿な!? 僕の、僕達の愛がこんなに簡単に破れるはずがない!」
「そう言われてもなぁ……ほれ」
「ぐあっ!?」
なおも騒ぎ立てるロリペドールを前に、ニックが無造作に手刀を放つ。ただそれだけでロリペドールの無事だった左腕の肘から先が切り飛ばされ、更に二度重ねることで両腕が肩から無くなる。
「あああああぁぁぁぁっ!?!?!?」
「よっ、ほっ……っと。シラベルト殿、この子達も頼む」
「は、はい! えぇ、これどうすれば……」
またも腕付きの子供を渡され、シラベルトは困り果てながらもそっと床にそれらを並べていく。回復薬を使うべきか一瞬悩んだが、子供の方は別に怪我をしているわけでもないのでこれ以上はどうすることもできない。
「愛が! 愛が僕の体から離れて!? あああ、愛が! 子供達がぁ!」
「……この状況で腕ではなく子供のことを叫ぶのは流石と言うべきなのかも知れんが、とにかくこれで終わりだ」
「ぐぇっ!?」
ニックの手が、ロリペドールの首を掴んでその体を持ち上げる。そのまま両足すらも切り飛ばすと、胴体に抱きついている子供を傷つけないよう、ニックは随分と小さくなったロリペドールをそっと床の上に置いた。