父、揉む
「どうだ? ここか? ここがいいのか?
「らめぇ! そこは、そこはらめなのぉ!」
浴室に響き渡る楽しげな男の声と、切なく震える若い娘の嬌声。もし聞きとがめる者がいれば……というか、微妙に部屋の外まで聞こえそうなその声を耳にすれば、誰であっても同じ妄想をするであろうが、その実情は単なるマッサージであった。
「ほほぅ。こっちだな? 確かに柔らかさのなかに芯が残っておる。だがこうして優しく力を入れてやれば……」
ニックの太い指が、ハニトラの背中を滑るように撫で回す。そうして筋肉の固まった部分を見つけると、グイッと力を入れて親指を押し込んでいく。
「はうぅ!? いや、そんな!? お、お許しください! これ以上は!?」
「何を言うか? まだ始まったばかりだぞ? ほーれ、こっちも揉んでやろう」
「あっ、あっ!? 駄目、そんな! そんな太いの……壊れちゃうぅぅぅぅ!!!」
全身くまなくもみほぐし、最後とばかりにニックが指でひと突きすると、ハニトラはグッタリと浴室の床に倒れ込む。切なく途切れる吐息に上気した顔、潤んだ瞳はこれ以上無いほどに女の艶を感じさせるが、それを向けられるはずのニックは一人満足げにその横で頷いている。
「うむ! 久しぶりにやったが、まだまだ腕は鈍っておらぬようだな」
「はぁ……はぁ……お見苦しい姿を晒してしまいました……」
笑顔で腕組みをしているニックに、ようやく息の整ってきたハニトラがその身を起こす。マッサージの邪魔だからと湯衣を脱がされ一糸まとわぬ姿であったが、互いにそれを恥じらう様子は無い。
ハニトラからすれば抱かれるつもりだったのだから今更であるし、ニックにしても女の裸で取り乱すほど初心ではない。別れのあの日、宿で脱ぎだしたムーナに慌てたのは犯罪者にされそうだったからで、何をするつもりでもない相手の裸などどうということもなかった。
「ではほれ、ちょっと……あー、浴室で飛び跳ねるのは危ないな。軽く腕を回すなりしてみるがよい。揉んだ感じからして、結構な違いがあるはずだ」
「わかりました。それでは……っ!?」
言われて軽く肩を回したハニトラが、その動きの違いに思わず息をのむ。
「軽い!? 嘘、腕も足もこんなに……? ひょっとして体重が――」
「体重は変わっておらんぞ? こんな短期間で痩せたりするわけがなかろう」
「…………そうですか」
一瞬で喜びと悲しみの表情を行き来したハニトラだったが、一通り体の調子を確かめてから改めてニックに向き直る。
「恐ろしいほど調子がいいです。ニック様、これは一体……?」
「ハッハッハ。これは儂が娘のために会得した整体術のひとつだ。人の体というのは本人が知らぬところで疲労を蓄積させ、動きが硬くなっているものなのだ。故に十分に揉みほぐされた今の体こそが、お主本来の万全の状態ということだな」
「凄い……え、凄いですけど、これ娘さんにもやってらっしゃるんですか?」
「ん? そうだぞ?」
「あの……娘さんはお幾つなんでしょうか?」
「娘か? 今年一七だな」
「そんな年頃の娘さんに、これをやっているんですか……凄いですね、色々と」
自分があげてしまった嬌声を思い出し、それを施すニックと受け入れる娘にハニトラはある種の戦慄を覚える。少なくとも自分の父がこれをやってくれると言ったら、ハニトラは絶対に断るだろう。
「体を万全の状態に保つのは戦いの基本だからな。年頃の娘として相応の恥じらいを持つことは重要だが、そのために命を危険にさらすなど愚の骨頂だ」
「はぁ。そういうものですか」
したり顔で言うニックに、ハニトラは生返事を返す。本物の死地を幾度となくくぐり抜けてきたニックの価値観は、ハニトラには理解しがたいものであった。
「さあ、それではいよいよ湯に浸かろうではないか。ほれ、お主も来い」
「あ、はい。わかりました」
もはや抵抗は無意味と学習し、ハニトラは言われるままにニックに手を引かれて浴槽へと近づく。まずはニックの巨体が浴槽に横たわり、ハニトラは僅かに空いた隙間に膝を曲げてちょこんと座り込む。
「ほれ、そんなに縮こまってどうする? もっとこっちに体を預けて、ゆったりと浸かるが良い」
「そうですか? では失礼して……」
今更照れも何も無く、ハニトラはニックの胸に己の背中を預けた。すると硬すぎず柔らかすぎずの適度な弾力が背中を支えてくれ、湯のぬくもりと心地よさがじんわりと体に染み入ってくる。
「はふぅ……」
「はっは。気持ちいいか?」
「っ!? は、はい。気持ちいいです……」
肌を晒すことも嬌声を聞かれることも何でもないのに、気の抜けた声を聞かれたことが恥ずかしくてハニトラは思わずうつむく。その様子が可愛らしくて、ニックもまた機嫌良く浴槽に背を預け体の力を抜く。
「はぁぁぁぁ……やはり湯浴みはいいな。それにこうしていると、何だか娘と一緒に入っているようだ」
「私も……ちょっとだけ父と入っているような気がします」
ニックの言葉に、ハニトラも同意する。もっともハニトラは湯浴みそのものが城勤めを始めるまではしたことがなかったので、あくまで想像でしかなかったが。
それでも気を遣うことも技を使うこともなく、純粋に湯に浸かってのんびりするというのは想像よりもずっと心地よかった。
「あの、ニック様? 本当に私のお世話は必要ありませんか? 大分良くしていただきましたし、私にできることなら……」
だが、ハニトラは仕事を忘れたわけではない。どれほど変わった要望を出す客であったとしても、男は男。得がたい体験をし、ちょっと楽しい思い出ができたこともあって、求められるならば少しだけ心も込めてお世話をしようと思うハニトラだったが――
「いや、今のままで十分だ。儂は妻を愛しておるから、女はそれで十分なのだ。むしろ今は娘分が足りんから、こうして気安く接してくれる方が有り難いぞ?」
「そうですか。ニック様がそう望まれるのであれば、そうさせていただきます」
ニックの言葉にそれ以上食い下がることもなく、ハニトラはあっさりとそう答えた。こうして直に肌を触れさせてなお自分に一切性的な意識を向けてこないニックに、ハニトラもまた男性よりも父性の方を強く感じ始めていた。
「何というか……不思議ですね。文字通り男性に抱かれているというのに、こんなに心が安らぐとは」
「そうか? まあたまには良いであろう。仕事の合間の骨休めとでも思っておけばいいさ」
「はい。そういうことにしておきます……ふぁ……」
答えてハニトラは今度こそ全身から力を抜いた。まるで高級な椅子のような座り心地に気が抜けたのか、小さなあくびを口から漏れる。
「何だ、眠いのか? 確かにあのマッサージは慣れるまでは受ける方も体力を使うからな。とは言えこんなところで寝ては風邪を引いてしまうであろうし、湯からあがってベッドで横になるか?」
「それは流石に……怒られてしまいますので」
ベッドの上でお世話するならともかく、自分だけが客の部屋で寝ていたとなればどんなに軽くても解雇処分は免れない。
「ですので、少しだけこうしていても宜しいでしょうか?」
なので、ハニトラは顔を横に向けニックの胸に頭を預けると、そのままゆっくりと目を閉じた。優しく揺らめく湯の感触と耳に伝わる力強い心音が、日々の勤めで疲れたハニトラの心に抗いがたい癒やしと眠気をもたらしてくる。
「うむ。ゆっくり休め」
己の胸で安らかな吐息を漏らし始めたハニトラにニックはそっとその頭を撫でると、そもまましばし人と湯のぬくもりに心と体を浸し続けるのだった。





