父、逃がす
『これは酷い……』
目の前で起きた惨状に、オーゼンが思わずそんな呟きを漏らす。高級な部屋のなかには血の臭いが色濃く漂い、床の上には哀れな犠牲者が転がっている。
「ニック殿、気持ちはわかりますが、これは流石にやり過ぎなのでは……?」
足下に転がる侵入者の姿に、ロンが軽く口を開きながら言う。当然ながら一瞬にして無力化された侵入者は、ニックの手により全裸に剥かれたうえ全ての歯を砕かれ、更に両手足の爪も余すことなく剥がされている。
それはいくら敵、しかも意識の無い勇者を狙う卑劣な暗殺者だとしても同情を禁じ得ない姿であった。
「別に腹いせにこんなことをしたわけではないぞ? この手の輩は何処に毒を仕込んでいるかわからんからな。フレイやお主達に攻撃を許すつもりはないが、このくらい徹底しなければ自殺を防ぐのは難しいのだ」
「ああ、そういうことですか」
そのニックの物言いに、ロンは大いに納得する。勇者パーティの一員として権力者に関わることも多かったロンは必然暗殺者という存在に対峙する機会も幾度かあったのだが、一流の暗殺者はそれこそ体中の穴という穴、隙間という隙間に毒を仕込んでいるものだ。
そしてその毒は攻撃対象だけでなく自分を殺すためにも使われる。暗殺者としての鍛錬など積んだことのないニックからすれば、ここまでしても完全に武装解除できたとは断言できないほどに「本物」は凄いのだ。
「それにしても馬鹿よねぇ。ニックがいるのにフレイに手を出そうとするなんてぇ。というか、何で寝静まってる夜中とかじゃなくて食事中を狙ったのかしらぁ?」
「考えられる可能性としては、儂が夜もずっとここに着いているからではないか? 食事、排泄、睡眠は人である以上避けられぬことだが、睡眠はある程度以上の戦士なら敵の気配で目覚めるなど基本であるし、排泄は全員が一度にということはなかろう?
なので食事時である今を狙ったのではないかと思う。ナイフやフォークを手にしていれば武器を抜くための一手が遅れるし、何かを飲んだり食べたりしていれば一瞬とはいえ対応が遅れる。そのうえ食事ならば今のように全員が一度に食べるのも珍しくないからな」
「ほぅ、そう言われると確かに盲点ですな。自分が生きて帰ることを前提とせず、とにかく対象に一撃入れるだけでいいというのであれば、食事時は狙い時ということですか」
「そういうことだ。まあ儂がここにいる以上隙などありはしないのだが」
「ニックだものねぇ……」
ニヤリと笑って言うニックに、ムーナが若干の呆れを込めた声で答える。たとえニックが熟睡していようが厠に籠もっていようが、これほど側にニックがいる状態でフレイをどうにかするなど、魔法封印、素手のみでドラゴン討伐に挑む方がまだ成功の可能性がありそうなくらいだ。
「ということで、悪いがロン、この者に軽く回復魔法をかけて意識を戻してくれるか?」
「えっ!? それは構いませんが、宜しいのですか?」
「そうよぉ。このまま国の諜報機関にでも引き渡した方がいいんじゃないのぉ?」
ニックは勿論、ムーナやロンも強者ではあるが、こういう相手から情報を引き出すような技術は持ち合わせていない。だからこそそう問うた二人だったが、それに対してニックは落ち着いた様子で頷く。
「いいのだ、頼む」
「わかりました。では……」
それを受けて、ロンがごく簡素な詠唱を経て回復魔法を発動させる。すると止血などの本当に最低限の効果と共に、倒れていた暗殺者の男が小さなうめき声をあげた。
「うっ…………」
「目が覚めたか?」
「っ!?」
ニックに声をかけられ、男の視線が素早く周囲に視線を走らせる。それと同時に全身を襲う激痛を無視して自分の状態を確認し……死ぬことすらできないと悟った時点でその瞳がスッと半開きになった。心を殺し、拷問などに抵抗するための一種の自己暗示だ。
「ふむ、説明するまでもなく自分の置かれた状況がわかったようだな。ならば今からお主を開放するから、そのまま帰るのだ」
「!?」
「雇い主とかを聞くんじゃないのぉ!?」
そのニックの言葉に、暗殺者の男のみならずムーナまで驚きを露わにする。わざわざ自殺すら防いで拘束したというのにそのまま開放するのでは、それこそ何のためにこんなことをしたのか意味がわからない。
そんなムーナの戸惑いをよそに、ニックは軽く笑いながら平然と言う。
「ははは、迷わず自殺するような者に聞いたところで答えるはずもないし、答えたところでそれが本当かどうかもわからん。それに本当の事を聞いたところで、それこそ儂等にはどうすることもできんだろう? 指示を出した者を殴るだけなら簡単だが、それで解決するような話でもないだろうしな」
「じゃあ何で捕まえたのぉ?」
「それは勿論、儂の言葉を雇い主に伝えてもらうためだ。この者が直接雇い主と繋がっているかは知らんが、何らかの手段で結果は報告するだろう? であれば儂の言葉を伝えること自体には何の問題もないはずだ」
「……………………」
その言葉に、暗殺者の男は何も言わない。無論歯を全て砕かれた上に猿ぐつわを噛まされているので喋ろうとしても喋れないのだが、うめき声すら上げないのは「結果を報告する」という当然のことを否定しても意味がないからだ。
「この手のやりとりはきちんと片付けようとすると、どうしても政治的な力関係でのやりとりになってしまうからな。そういうのは儂には向かんし、時間もかかる。
だからこそ儂はこう言うのだ。どんな手段を用いても、どれほどの軍を率いても、儂の目が黒いうちは……いや、たとえ儂が死んだ後だとて勇者に手を出すことなど絶対にさせぬ、とな」
「……………………」
一瞬、ニックの瞳に本気の意思が宿る。その気迫は心身共に鍛え上げ己の命すら道具として使い捨てられるまでになった暗殺者の男ですら魂を揺さぶられるものであり、己の唇が小刻みに震え出すのを抑えることすらできない。
「お主の雇い主に伝えよ。言いたいことがあるのならば公式、非公式問わずどんな場所にでも出向いて、その言い分を聞く用意がある。身分も建前も捨て去って本音で話し合えば現実的な妥協点を見つけられるかも知れんし、そうでなかったとしてもその場での出来事を理由に儂……というか勇者側からお主を糾弾することは無いと約束する。
ということで、用があるなら日時と場所を指定してくれ。そうすればこの儂……勇者の父、ニック・ジュバンが一人で話をしにいく、とな」
凄みのある顔でそう言うと、ニックは徐に暗殺者の男に近づいてその拘束をはずしていく。するとゆっくりとした動作で立ち上がった男が手足を動かして自分の体の状態を確かめてから、ジッとニックの方を見る。
「……服は」
「返すわけなかろう! 儂はそこまでお人好しではないぞ?」
「……………………」
真顔でニックにそう返され、男は僅かな逡巡の後音も無く割れた窓からその身を外に躍らせた。周囲には既に夜の帳が降りており、暗闇の中に揺れる暗殺者の男の尻はすぐに見えなくなってしまう。
「ふぅ、これでいいな」
「で、これはどんな意味のある茶番だったわけぇ?」
それを確認してから再び近くの椅子に腰を下ろすニックに、ムーナが周囲に張っていた遮音結界を解除しながら言う。大きな胸をゆさりと揺らしながら不満げに口を尖らせるムーナに、ニックは小さく笑いながら冷め切った料理をひょいとひとつまみしてから言う。
「ははは、そんな顔をするな。あの男に対して言ったことは、概ねその通りだぞ」
「では、裸で返したのは単なる意趣返しであったと?」
「それは違うな。あの手の商売は面子を大事にするから、より屈辱的な負け方をさせた方が次に依頼を受ける者が減る。あの者が個人では無く組織に所属していればそこからだけは報復の刺客が来るかも知れんが、それなら数が知れておるからな」
暗殺者などというのがちまたにゴロゴロしているはずもなく、ましてや勇者を殺してみせるなどと言えるような腕前の者などほんの一握りでしかない。それをあれだけ手ひどく追い返してやれば、少なくともニック達の戦闘力を調べることなく同じ仕事を受ける者などいないだろうし、調べたならばなおさら誰も受けるはずがない。
「なるほど、根本から襲撃の目を潰したかったと……」
「でも、呼び出しに応じるっていうのは何なのぉ? まさか本気で話し合うつもりぃ?」
「ふふふ、無論だ。そうすれば裏で色々やっている者に爪の先くらいは引っかかるかも知れんからな」
ムーナの問いかけに、ニックはニヤリと悪そうな笑みを浮かべて答えた。