父、付き添う
勇者フレイが行った『請願』の効果は、世界に様々な影響を巻き起こしていた。なかでももっとも早く大きな変化は、魔族領域へと攻め込んでいた侵攻軍の一時撤退だ。
流石にあの状況で戦場に残ろうとした者はごく少数であり、その少数もまた軍人である以上同僚や上司に説得され、魔族領域に攻め込んでいた人間軍は境界の森を確保する部隊を除き、その全てがフミトドーマルの砦まで引き返すこととなる。
またフレイの言葉を聞いた各国の首脳は勿論、一般人にまで「魔族との共存はあり得るのか」という話題が紛糾するようになったが……その原因となった勇者は、未だ目覚めることなくコモーノ王国の王都サイッショの宿屋にて静かに眠り続けていた。
「失礼致します、ニック殿」
「おお、よく来たな」
そう言いながら宿の扉を開けて入ってきたロンを、ベッドの横で椅子に座っているニックが笑顔で出迎える。その様子はいつもと変わらず……だからこそロンはいたたまれない気持ちになる。
「フレイ殿は、まだ目覚めませんか」
「うむ。もうそろそろ起きてもいいと思うのだがなぁ」
「……申し訳ありません。拙僧にもっと力があれば」
見てわかるほどに肩を落とすロンに、ニックは思わず苦笑して答える。
「ははは、そう落ち込むな。お主の見立てでは、フレイは健康なのであろう?」
「はい。倒れた直後はかなりの衰弱状態にありましたが、その時ですら身体的な異常は見られませんでした。今現在は……失礼、やはり特におかしなところは見つかりませんな」
極めて微弱な回復魔法を使うもそれに一切反応しなかったことから、ロンはそういって目を瞬かせる。少なくともロンの知識や技術ではフレイの体は健康そのものとしか思えず、だからこそ何故目覚めないのかが全くわからない。
「やはり一度聖女様にお願いしてみるのはどうでしょう? 彼女であれば拙僧などよりよほど――」
「それも考えはしたが、今は世界がこの状況だからな。聖女であるピースはそれこそ大忙しであろうし……」
そこで一旦言葉を切ると、ニックはフレイの方に体を向け、そっとその頭を撫でる。
「なんとなくなのだが、このまま放っておけばいずれ目覚める気がするのだ。フレイが目覚めないのは何らかの異常が発生しているからではなく、単に疲れて眠っているようなものなのだと思えてな。
であれば忙しいピースを煩わせることもあるまい。無論容態が急変すればその限りではないが」
もしフレイの寝顔にかつてのマインのような辛さ、苦しさを見いだしていたならば、ニックは如何なる手段を用いてもピースをここに連れてきただろうし、それ以外にも理論上可能なありとあらゆる手段を以てフレイを救おうとしただろう。
だがどういうわけか、意識の戻らないフレイを前にしてもニックの内には何の危機感も湧き上がってこない。その上で信頼する仲間であるロンが「健康だ」と言っているのであればこそ、ニックはここで一週間もフレイの目覚めを待っているのだ。
「ただいまぁ……」
と、そこに扉を開けて入ってきたのは、疲労困憊といった様子のムーナだ。いつもは悠然と重力に逆らっている大きな胸が若干垂れ下がっているように見える辺り、その疲労度は推して知るべし。
「お帰りムーナ。その様子では今日も大変だったようだな」
「本当よぉ。それもこれもこの子が起きないせいだわぁ」
そっとベッドの側まで歩み寄ってきたムーナが、そう言ってフレイのおでこをピンと弾く。ムーナが疲れているのは目覚めないフレイの名代を務めているからだ。
勇者フレイの発言は本当か否か? その確認を当然世界中の為政者が求めたが、当のフレイは未だに目を覚まさない。かといってここでだんまりを決め込んでしまえばせっかくフレイがここまでして作り上げた「真に平和な世界」への第一歩が踏み出す前から瓦解しかねない。
そのためムーナは連日『銀の鍵』を使って幾つもの国を渡り歩き、今までのフレイの活動を含めた様々な説明をして回っているのだ。その結果彼女が何らかの長距離転移技術、あるいは魔法道具を持っていることは権力者の間では周知の事実となってしまったが、ここで出し惜しみは悪手だとムーナは勿論ニック達も割り切っていた。
「それでムーナ殿、本日の成果はどうでしたか?」
「まあまあねぇ。どの国にも強固な反対派はいるけど、国家の方針となると概ねみんな同じよぉ」
『まあ当然だな。よほど愚かな為政者でもない限り、他の選択肢があるのに殲滅戦など選ぶはずもない』
ムーナの言葉に、ニックの腰の鞄からオーゼンが声をあげる。元々ムーナにはばれていたこともあり、今はロンにもオーゼンの存在は明かされている。なのでこの場において意思を持つ魔導具の存在を認めない者はいない。
「ま、そうよねぇ。皆殺しなんて国土を荒らして得られるはずの労働力や税収を投げ捨て、そのうえ『どうせ殺されるなら』って民間人まで死兵に変える最悪の選択だものぉ」
「カバール族の方はなかなかに話のわかる人達でしたからな。他にも彼らのような種族は沢山いるとのことでしたし、調査も無しに機会を投げ捨てるような王はいないでしょう」
魔族領域にてフレイが意識を失った直後、フレイと会話をしたノーミンやロンによって命を助けられた者の口添えもあって、ほんの一時間ほどであったが彼らはフレイにベッドを提供してくれた。そこでロンによる治療が施されている間、ムーナもまた彼らから色々な話を聞いていた。
それによると魔族領域の社会構造は獣人達のそれに近く、力ある者が力を誇示することはあっても、度を超えた無法を働くと普通に周囲の町や村から戦士が派遣され、処罰されるらしい。
つまるところ魔族領域は人間が想像していた地獄のような場所ではなく秩序ある統治がなされており、そこに住まう者達には外交交渉が可能であることが伺える。そうなれば各国の王達も無駄に憎悪を募らせ不利益ばかり増える殲滅戦などよりまずは調査、そして交渉を試みようとするのは自明の理であった。
「しかしその物言いだと、やはり……」
「ええ。現場の兵士達なんかは、やっぱり殲滅派が圧倒的みたいねぇ」
表情を沈ませるニックに、ムーナは小さく肩をすくめて答える。
為政者の立場からすれば、殲滅戦など愚の骨頂だ。だがそれが現場で戦う兵士達となれば話が違ってくる。
今までならば遠くに魔族の姿や集落を見つければ遠距離から先制攻撃をくわえ、敵が混乱している間に攻め立てて皆殺しにすればそれでよかった。だが最初に交渉をしなければならないとなれば、その一番安全で確実な手段がとれなくなってしまう。
それでも敵が敵として敵意を見せてくれるならばまだいい。自分達を騙そうと握手を求めながら後ろ手で刃物を握っていたり、歓待に見せかけて食事や酒に毒を盛るかも知れない。そういう「敵が敵である証拠」が得られるまで反撃することを許されないということは、即ち自分が死ぬ可能性が飛躍的に高まるということになる。
また、現場の兵士達は実際に魔族と交戦したことのある者も多く、実体験から「魔族は許されざる敵である」という確固たる信念を持つ者が多い。それだけの条件が揃えば、「実際に命を賭けて戦う者達」がフレイの言葉を容易に受け入れられないのもまた当然の反応であった。
「何処の国の王様も困ってたわよぉ。本来ならきちんと理を説けば納得するはずの軍部の反発が激しくて、魔族より先に下からの反乱が起きるんじゃないかって頭を抱えてる国もそこそこあったわねぇ」
「魔族との融和を図るために、人同士の不和を生み出してしまったと……難しいものですな」
「遠いのだな……平和というのは」
田舎の村で暮らしていた頃、当たり前にそこにあった平和な日々。それが如何に得がたく尊いものであったかを改めて実感し、ニックは仲間達と共に小さなため息を吐くのだった。