父、洗われる
「んっ……ふぅ……」
二人きりの浴室に響く、くぐもった女性の声。もし聞き耳を立てている者がいれば艶事と勘違いされること請け合いだが、その実情は単なる肉体労働の呻きであった。
「これは……結構力がいりますね」
「あー、あれだぞ? 疲れたなら無理をせず休んでも……」
「そうはまいりません。お客様のご要望にお応えしてこそメイドですので」
ニックの広い背中を擦るのは、ハニトラの細腕ではなかなかに重労働だった。ハァハァと軽く息を乱しながらも結構な力を込めて一心不乱に磨き上げていく。
「こうしていると、何だか田舎の父を思い出しますね」
「む? そうか?」
思わずといった感じにこぼれたハニトラの言葉に、ニックは振り返ること無く声だけで問う。
「はい。もっとも私の家は湯浴みができるような裕福な家庭ではありませんでしたので、沸かした湯を桶に溜めて布を浸し、それで擦っていたわけですが」
「わはは。それはお父上もさぞかし喜んだのではないか?」
「そう言われると、私が背中を擦ってあげた時の父は随分とご機嫌だったような気がしますね。子供の頃の話ですが」
「そうかそうか。親というのは、子供が自分の為に何かしてくれるというのがたまらなく愛おしいのだ。焦げた料理もほつれた服も、何もかもが最高に嬉しかった」
「フフッ……随分と娘さんを愛されているんですね」
「当たり前であろう? 確かに世の中には子を愛さぬ親もいる。だが儂にとって娘は全てだ。あの子を幸せにするためならば、儂はどんなことでもするであろうな」
「……………………」
強い言葉とは裏腹な優しい声の響きに、ハニトラはしばし言葉を失う。そのまま無言で作業を続け、ほどなくしてニックの広い背中は非の打ち所が無いほどに磨き上げられた。
「ふぅ。これにて洗体完了です。どうですか?」
「おお、スベスベしておるぞ! 凄いなお主!」
腕を回して背中を擦り、その感触に感嘆の声をあげるニックに対し、ハニトラは得意そうにその旨を反らせる。
「プロのメイドですから。貴族の奥様方をお世話することもありますので、こういった技術は必須なんです」
「なるほどそうか。大した物だな」
ハニトラは基本男性をもてなすためのメイドではあるが、だからといって男性を性的な意味でもてなすことしかできないようでは城のメイドは務まらない。メイドとしての基本技能の他に女性の肌を磨き上げたり、あるいは女性が好きな女性の相手もできるからこそ、ハニトラは大事なお客に派遣する筆頭メイドとしてこの城に勤務できていた。
「では、次は前の方も洗いますので、こちらに体を向けて下さい」
「む? 前は自分で洗えるから別にいいぞ?」
「そうはいきません。これも私の仕事ですから」
「ふーむ、いや、しかしなぁ……」
仕事と言われてしまうと、ニックとしては断りづらい。だが娘ならともかく、年若いメイドの女性に胸やら腹やらを洗ってもらうのは些か照れくさい。迷うニックに対し、ハニトラが必殺の威力を持つ言葉を放つ。
「僭越ながらニック様。娘さんがいらっしゃるということですが、最近『臭い』と言われたりしたことはありませんか?」
「ぐっ!? な、何故そう思うのだ!?」
あからさまに狼狽したニックに、ハニトラは内心ニヤリと笑う。だがそれをおくびにも出さず、平然とした表情で言葉を続ける。
「自分で自分の体を洗う場合、どうしても同じ所を同じ手順で擦ってばかりになります。そうなるとどうしても洗っていない場所、洗い残しなどが発生し、そしてそれに自分では気づけないのです。
わかりますか? それこそがニック様が娘さんに『臭い』と言われる原因なのですよ?」
「ぐぅぅ……そ、そうだったのか……」
ハニトラの言葉の刃が心に深々と突き刺さり、ニックは思わずうめき声をあげる。
冒険をしていれば体を洗えないことなど珍しくもなんともないし、動けば汗を掻き、戦えば魔物の返り血やら何やらを浴びることもある。なので臭いのはある意味当然なのだが、ニックはかつて娘に「でも、父さんだけ何か臭いのよね」と言われたことがあった。
言ったフレイとしてはその匂いが嫌だったわけではなく、むしろ父の存在を感じられて安心するという節すらあったのだが、言われたニックは愛する娘に「臭い」と言われたショックで結構な期間へこんでいた。
あまりのしょぼくれ具合に雑にはなった拳がクサイムを弾けさせてしまい、娘を含む当時のパーティメンバー全員から総スカンを食らったこともあって、ハニトラに伝えられた臭いの原因はニックにとって天啓にも等しい衝撃だった。
「わかった。では前も頼む。いや、いっそもう全身頼めるか?」
「畏まりました。それでは早速……?」
観念してクルリと体を回転したニックに対し、ハニトラは目に入ったそれに一瞬思考の自由を奪われる。
「あの、ニック様? それは……?」
ハニトラの目に飛び込んできたもの……それはニックの股間で燦然と輝く黄金の獅子頭であった。沈着冷静を常とする城勤めのメイドであっても、これを前に平静を保つのは生半な努力では足りない。
「ん? ああ、これは気にするな。流石にここを洗えとは言わんしな」
「そ、そうですか……」
気にするなと言われても、ハニトラの視線は獅子頭に釘付けだ。だが気にするなと言われてしまったからには、気にするわけにはいかない。どれだけ興味を引いたとしても、メイドである以上気にしてはいけないのだ。
ちなみに、何故今ニックの股間にオーゼンが収まっているかと言えば、僅かな時間とはいえオーゼンを扉の向こう側に残すことを危惧したニックが「王の尊厳」を発動したからに他ならない。
それ故にオーゼンの意気は下がりに下がりきっており、ニックとハニトラがやりとりする際もずっと無言であった。もしオーゼンに人の顔があったならば、きっと死んだ魚のような目をしていたことだろう。
『無情だ。世はなんと無情なものであろうか……』
時々ぽつりと悟ったような言葉を漏らすオーゼンに対し、ニックは何か言葉をかけたいと思うもハニトラがいてはそうもいかない。流石にこれほど至近距離で密着していては、ボソボソ呟いたとしても聞こえてしまうからだ。
(すまぬオーゼンよ。湯浴みを終えたらゆっくり話を聞いてやるからな……)
「あー、それでは洗体の方を再開させていただきます」
内心でオーゼンに謝罪するニック。そんな事はつゆ知らぬハニトラは一言声をかけてからニックの洗体を再開した。丸太のように太い腕や足を洗いながらもチラチラと視線が股間の獅子頭に飛んでいたが、ニックもハニトラもそれには触れない。
その間にニックは自分の尻を洗い……試しに股間の獅子頭を能力解除せずにはずそうとしてみたが、ピッタリとくっついていて外れなかった……仕方が無いので獅子頭をピカピカに磨き上げたところで、やっと全身の洗体が終了した。
「おお、実にスッキリした! 流石だなお主!」
「お褒めにあずかり恐縮です。では、私はこれで……っ!?」
体中の汚れがくまなく落ち、どことなく肌つやが増したどころか体が軽い気さえして殊更上機嫌になったニックが、一礼して浴室を出ていこうとしたハニトラの手を掴む。
「なんでしょう? やはりそっちのお世話も必要でしょうか?」
「そうではない。せっかく儂の体をここまで洗ってくれたのだから、今度はお主の番であろう? ほれ、洗ってやるからそこに座れ!」
「え!? いえ、私はそんな……」
「いいから! ほれ、座れ座れ! 流石に他人の娘の前は洗ってやれぬが、背中くらいは流してやろう!」
「は、はぁ……?」
もてなすべき客に要望されれば、それに応えるのがメイドの務め。椅子に座って背を向けるハニトラに、ニックがニヤリと笑って両手の指をワキワキとさせる。
「さあ、今度は儂がお主を天国に連れて行ってやろう!」
「お、お手柔らかにお願いします……」
父とメイド。もてなす者ともてなされる者。どうやらここで攻守交代となるようだ。





