猫、奮闘する
「……猫? 何だよクソッ、驚かせやがって! またあのオッサンが来たかと思ったじゃねーか!
シッ! シッ! あっち行きやがれ!」
誘拐犯の一人がハーンに伸ばしていた手を振り、やってきた猫を追い払おうとする。だが猫はそれに怯えて逃げるどころか悠然とした足取りで誘拐犯とハーンの間にやってくると、艶やかな飴色をした尻尾をピンと立てて更なる声をあげる。
「ニャァァァン!」
「何だコイツ? あっち行けって言ってるだろうが!」
その挑発するような態度に苛立ち、男が猫に蹴りを放つ。だが猫は大きく跳び上がってその蹴りを回避すると、すかさず男の顔に飛びかかって思いきり爪を立てて引っ掻いた。
「ギャァァァァ!? こ……っの糞猫がぁ! ぶっ殺してやる!」
顔から血を流した男が、怒りにまかせて腰からナイフを引き抜き斬りかかる。だが小さく素早い猫の動きは男の腕では捕らえられず、ブンブンと振り回される腕はただ虚しく空を切るのみ。
「クソッ、クソッ! 何だってんだ糞がぁ!」
「ニャァァァン!」
顔を真っ赤にして刃物を振り回す男と、何故か逃げることもせずそれをひたすらかわし続ける猫。残った二人の男達はその光景を呆然と眺めていたが……その場で唯一、恐怖のあまり尻餅をついてしまったハーンだけは違う。
『アタシの結界を破るニャんて何者かと思ったけど、まさかあの子の弟とはねぇ。魂の形が似てるから術が不完全にしか働かニャかったのね』
『ほら、どうしたの? アタシがコイツを引きつけてるから、今のうちにさっさと逃げニャさいよ』
「あ、あ、あ……」
ハーンの耳にはニャーンという猫の鳴き声しか聞こえない。だがハーンの頭には猫の言葉が流れ込んでくる。
喋る猫がいたと思ったら変な男達に襲われそうになり、今度はさっきの猫が喋ってないのに言葉を伝えてくる。そんな異常な状況が続きすぎて、ハーンの幼い精神では状況を処理しきれない。逃げなければならないとわかっていても体は動かず、ただ目を見開いて猫と男のダンスを見守るのみ。
『ハァ、これは駄目そうねぇ。調子悪いからあんまりやりたくニャいんだけど……』
そんなハーンの様子に小さくため息をついた猫は、少年の前にヒラリと着地すると全身を震わせ唸り声を上げ始める。
「フゥゥゥゥゥゥゥゥ!!!」
「な、何だ!?」
「兄貴、その猫なんか変ですよ! もう気にしないでガキを連れてっちゃった方が……」
「うるせぇ! この俺がこんな糞猫にまで馬鹿にされて黙ってられるかよ!」
子分の男の言葉に、兄貴と呼ばれた男は激高した怒鳴り声で返す。その間にも猫の体は震え続け……不意にピンと立てた尻尾の中央に光の筋が入った。
「し、尻尾が、割れた……?」
「こいつ、魔物だったのか!?」
「ニャァァァァァァァン!」
二股の尾になった猫の鳴き声が、裏路地に一際高く響く。それと同時にピンと立てられた二本の尾の間から風の刃が撃ち出され、手下の男のすねを強かに打ち付けた。
「イッ!? がぁぁ、痛ぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
「ま、魔法を使いやがった! やっぱりコイツ魔物ですよ兄貴!」
「いや、でもこの辺にこんな魔物いねーだろ!? チックショーがぁ!」
すねを押さえてのたうち回る手下の男に別の手下の男が動揺し、そんな手下達を前に頭目の男は腰からもう一本のナイフを抜く。獲物を捕らえるためではなく、敵を殺すための本気の構えだ。
「フッ! ハッ! 死ねやぁ!」
「ニャァァァァァァァン!」
二刀になった男の動きは、先程までよりもずっと鋭い。それに対して猫は攻撃魔法も交えて回避と反撃を繰り返し、攻防は一進一退。しかしそんな緊迫の光景を目の当たりにし、ハーンの脳内に浮かぶのは全く別の考え。
(魔物、なのか? でも……)
王族として、当然ながら領地に生息する魔物の事は勉強している。だがその知識の中にあんな魔物の存在はない。
いや、そもそもこれが魔物であってはいけないのだ。何故なら魔物は人類の敵であり……
(なら、どうして俺を守ってくれるんだ!?)
猫の動きは、一貫してハーンを守るものだった。今もわざわざ少し離れた所で戦っているし、その攻撃にハーンを巻き込まないように明らかに気を遣っている。
というか、さっきからずっと逃げろと話しかけてきているのだ。自分の頭がおかしくなったのでなければ、この猫が味方なのは間違いない。
『ちょっと、いつまでそうやって座ってるつもりニャのよ! アタシだっていつまでもは戦えニャいわよ!』
「あっ!?」
少し苦しそうな猫の声に、ハーンはハッとなって辺りを見回す。自分を囲んでいた男達は三人。でも一人は猫との戦いに夢中で、一人はすねを押さえて未だに蹲っており、最後の一人は猫と男の戦いを食い入るように見つめていて……
(そ、そうだ。逃げなきゃ! とにかくここから……)
「ん? おい! ガキを逃がすな!」
「おっと、そうはいかねぇぜ?」
「あっ!? は、離せ! 離せよ!」
もぞもぞと動き出したハーンに気づいて、頭目の男が手下に声をかける。すると未だ体に怯えの残るハーンはすぐに捕らえられてしまい、ガッシリと両腕を捕まれて宙に持ち上げられてしまえばもはや何もできない。
『ちょっと!? ニャにやってるのよこのお馬鹿王子!』
「もらった!」
「ギニャア!?」
一瞬それに気を取られてしまった猫の隙を見逃さず、頭目の男のナイフが猫の体を切りつける。肩から右前足に渡って引かれた筋は飴色の毛並みを赤く染め上げていき、着地した衝撃を受け止めきれずにドサリと猫の体が倒れた。
「へっへっへ。散々手こずらせやがって……」
「フーーーーーーーーーッ!」
悪辣な笑みを浮かべる男に、猫は上半身を起こして唸り声をあげる。それに合わせて尻尾の間から攻撃魔法が飛んだが、男はそれを両手を盾にすることでなんなく受け止める。
「へっ。その魔法、撃つときに尻尾が震えるから丸わかりだぜ。くるってわかってりゃ大した威力でもねーしな」
『あぁ、だから嫌だったのよ。あと二週間……いえ、一週間先だったらこんニャ奴に負けニャいのに……っ』
「何だ何だ? 女々しくニャーニャー鳴きやがって。命乞いか? ん?」
「兄貴? 猫の鳴き声なんて最初からずっとニャーニャーだけだと思うんですけど……」
「うるせぇな! 気分だよ気分!」
ハーンを羽交い締めにする男に乱暴にそう答えてから、頭目の男はゆっくりと猫に近づいていく。勝利を確信しつつも男に油断する気配はなく、猫が苦し紛れで放つ魔法も全て受け止められてしまう。
「悪ぃな。俺は自分が大したことねーって自覚してるんだよ。だから幾らお前が怪我してようが見た目が猫だろうが、油断なんかしてやらねーぜ?」
「離せ! 離せよ! おい、やめろ! その猫をいじめるな!」
「ちょっ、おい! 大人しくしろ!」
一歩一歩男が猫へと近づいていき、その距離がそのまま猫の余命となる。ハーンはそれを何とかしたくて必死に手足を振り回すが、所詮一二歳の子供の力では本気の大人の拘束を逃れることなどできるはずもない。
「じゃあな糞猫」
薄く笑う男の手が、ナイフを振り上げる。その下にある猫の顔は牙を剥きだして凄んでいるが、だからといって現実は変わらない。
「やめろ! やめ……助けて! 誰か助けてぇ!」
自分には何もできない。それを認めるのが嫌でずっと言わなかった言葉を、ハーンは思いきり叫ぶ。
だが、その声に誰も応えない。こんな裏路地の奥で、刃物を振り回す男達に近づくような間抜けはいない――たった一人の例外を除いて。
「猫ちゃん!」
「なっ!?」
飛び込んできたのは、深緑色のフードを被ったドレス姿の女性。猫を庇うように身を投げ出したポーンに男の刃が振り下ろされ、白いローブに真っ赤な花が咲いた。