反骨王子、秘密を知る
「いてててて……」
こんもりと茂る庭木に受け止められたとはいえ、顔から思いきり突っ込んでしまったハーンは鼻の頭をさすりつつ周囲を見回す。そこは城の裏手にある庭園であり、すぐ正面には城の内側と外側を隔てる城壁が見えた。
「あれ、まだ城の中なのか? っていうか、何だよ今の。どうなってんだ……?」
振り返って見てみれば、自分が出てきたと思われる場所には単なる石壁があるだけで何も無い。だが何より不思議なのは、その石壁の向こうはすぐに廊下がある……つまりどうやっても自分が通り抜けたような通路が存在するはずがないということだ。
「まさか姉上の魔法……じゃないよな。俺にも通れたし、そもそも姉上が魔法を使えるなんて聞いたことないし。
って、そうだよ! 姉上は何処に……!?」
当初の目的を思い出し、ハーンは即座に立ち上がって周囲を見回す。城壁の上には見張りの兵がいたが当然ながらその視線は城の外を向いており、幸いにして自分には気づいていない。
だがそれは同時に姉にも気づいていないことを意味する。ならばと更に注意深く観察していくと、遠方にゆらゆらと動く白い何かが見えた。
慌てず、それでいて急いで何かの方へとハーンは近づいていく。すると少年の目の前に現れたのは……必死に蠢く姉の尻であった。
「ふんっ! んーっ! き、きつい……」
(うわぁ、何やってるんだよ姉上……)
城壁から、姉の下半身が生えている。おそらくはそこに小さな穴があり、それを抜けようとしているのだろうと予想はつくが、自分ばかりが愛されている(と思い込んでいる)ずるい姉の間抜けな姿に、ハーンはその尻を思いきりひっぱたきたいという衝動を必死に押さえ込んだ。
「よっ! ほっ! あと少し……きゃっ!?」
スポッという音が聞こえそうな勢いで、不意に姉の下半身が城壁の向こう側へと消えていった。ほんの少しだけ待って人の気配が消えるのを確認すると、姉よりもずっと小柄なハーンは簡単に穴を抜けて遂に城の外へと出ることに成功する。
「なるほど、この草が生えてるから穴が見つからなかったのか……まあ古い城だしなぁ。っと、それどころじゃないや」
最初の訳のわからない抜け穴と違ってごく普通の穴だったことに安堵しつつ、ハーンは更にポーンの後をつけていく。幸いにして深緑色のフードという目立つ目印のおかげでハーンがポーンを見失うことはなく、また本来なら騒がれるであろうハーンの立派な服装もポーンを追いかけている様子から「ああ、関係者だな」と周囲に見られたことで通報されたりすることもなく姉と弟の尾行劇は続いていき……その終点は不意に訪れる。
『ニャによ。今日は随分遅かったじゃニャい』
「えへへー。午前中はちょっと忙しかったんです」
(話し声?)
そこは裏路地の更に奥、迷うことなく進む姉を追いかけていなければ絶対に辿り着けないだろう複雑怪奇な道の果て。気づけば途中から誰にもすれ違うことがなくなった先で聞こえた声に、ハーンはそっと物陰から顔を出して様子をうかがう。
『またアンタのことだから、ろくでもニャいことしてたんでしょ』
「そんなことないですー! 猫ちゃんが引っ越しちゃうって言うから、私一生懸命どうしたらいいか考えてたんですよ!」
『猫ちゃんは辞めてって言ってるでしょ? 私はもうそんな年じゃニャいんだから……それに引っ越しは仕方ないことだって言うのも、何回も言ったわよ?』
「それはそうですけど、でも『落ち着ける場所があればいい』っていうのも聞きました。だから私は猫ちゃんが落ち着ける場所を用意しようと思って――」
(姉上、誰と話してるんだ?)
ハーンの視線の先には、姉以外の人影はない。強いて言うなら木箱の上に座った猫が姉に向き合っているが、それだけだ。
(いや、猫ちゃんって言ってたし……え、まさかあの猫と話してるのか!?)
『落ち着ける場所って……アンタには無理だって言ったでしょ?』
「ふふーん! それが、いい方法を聞いたんです! なんと私のお小遣いでも猫ちゃんの家を用意できることが判明したのです!」
『したのですって……どういうこと?』
「だから、猫ちゃんの家を私が買ってあげようと思うんです! おじさまが言うには職人さんにお願いすれば、猫ちゃんの家くらいならお安く建ててもらえるらしいんです。そうして落ち着ける場所が出来れば、猫ちゃんもいなくならなくてすむでしょう?」
『アンタ、本当にアタシの話を聞いてニャいのねぇ……』
嬉しそうに話すポーンに対し、猫は呆れたような声をだす。猫にそんな声を出される姉も大概だが、ハーンの興味はそれよりも「喋る猫」に強く引きつけられている。
『家を作るって、一体何処に作るつもり? まさかここまで見ず知らずの他人を連れてくるつもりニャの? アタシはアンタに「ここには必ず一人で来ること」って言ったはずニャんだけどニャあ……』
「うっ!? そ、それは確かに……じゃ、じゃあ出来上がった家を私が運んでくれば……」
『幾らアタシが猫だからって、家というからにはそこまで小さくはニャいんじゃニャいの? そんなものアンタが運べるとは思えニャいわねぇ』
「うぅぅ……が、頑張ります!」
『はぁぁ、アンタは本当にお馬鹿さんニャんだから』
胸の前で拳を作って気合いを入れてみるポーンに、猫は大きなため息をつく。ポーンが色々と抜けているのは一〇年来の付き合いでよく理解していたが、それでも今回は度が過ぎていた。
『ねえポーンちゃん。アタシがあんまり人目に触れたくニャいこととか、アンタにはちゃんと説明したわよね? ニャのに今回はどうしたの?』
「だって……だって、猫ちゃんが余所に行っちゃうって言うから……私、どうしても猫ちゃんと離れたくなくて……」
『……ニャウ。そう言ってくれるのは嬉しいけど、これはアタシの種族というか体質的な問題だからどうしようもニャいのよ。いい加減困らせないで?』
「困らせるつもりなんて、私は……っ!?」
『わかってるわよ。アンタはいつだって馬鹿で阿呆で間抜けだけど、底抜けに明るくて優しい子だもの。だけど、世の中にはどうしようもニャいこともあるの。アンタももう成人した大人ニャんだから、そろそろそれを聞き分けニャきゃ駄目よ』
「そんなの、わかんないです……」
諭すような猫の言葉に、しかしポーンは俯いてしまう。友達と別れたくない、ただそれだけのことなのに、どうしていいのかもう全然わからない。
「私がもっと頭がよければ……」
『そういうことじゃニャいわ。アンタが悪いわけじゃニャくて、これは運命ニャのよ。
ほら、今日はもう日が暮れるから、そろそろお城に帰りニャさい。私もあと一週間くらいニャら何とかここに留まれると思うから』
「…………わかりました。また来ますね」
(あっ、ヤバッ!)
意気消沈した姉が、そう言って踵を返す。それに焦ったハーンは即座に頭を引っ込めると、そのまま来た道を走って戻り始めた。
「ハッ、ハッ、ハッ……何だ、何だあれ!? 喋る猫!? そんなの聞いたこともないぞ! あの抜け穴もそうだし、姉上はいつもこんな不思議なことを体験してたのか……ズルいズルいズルい! 俺だって城の勉強とかだけじゃなく、もっと――っ!?」
「おっとぉ?」
姉の秘密を知り、興奮したハーンは戻っているつもりで来た時とは別の道を走っていた。それは人通りのない不思議な道ではなくごく普通の裏通りであり、必死に走る体が不意にそこを歩いていた人にぶつかってしまう。
「痛ってぇ……今日二回目だよ……誰だ!?」
「おいおい、誰だとは酷ぇ言われようだな。ぶつかってきたのはそっちだろうが」
「あっ……」
ついいつもの調子で言ってしまったが、ここは城の外であり、悪いのは自分だ。それを頭では理解していても、まだ子供であるハーンはつい強がった口をきいてしまう。
「う、うるさい! 俺を誰だと思ってるんだ!」
「知らねぇなぁ。だがまあ、知りたくなりそうな格好はしてるじゃねぇか。なあオイ?」
「確かに。さっき逃げられた女と同じくらいいい服着てますね。こいつなら十分金になるんじゃ?」
「変なオッサンに邪魔されたときはどうなるかと思いましたけど、やっぱり俺達ツイてますよ兄貴」
「な、何だお前達!? やめろ、来るな!」
ニヤニヤと笑う小汚い服装の男達が、ハーンの方へと詰め寄ってくる。初めて向けられる本物の悪意にハーンの小さな足は竦み、その間にも男達はハーンを取り囲もうと移動して――
「まったく、姉弟揃って世話ばっかり焼かせるのねぇ」
その背後から聞こえたのは、まるで人の言葉のように頭に響く猫の鳴き声であった。