父、連呼される
「…………ということで、えっちなことは結婚した男女の間でしかしてはいけないんです! わかりましたか?」
「わかった。痛い程わかったから、もう勘弁してくれ……」
辺り一面に響き渡る……とまでは言わずとも割と大きな声で「えっちなことはいけません」という話を蕩々と語る女性に、ニックはすっかりしょぼくれた顔でそう答える。
若い女性にひたすら「えっちなことはいけません」と説教されるのは、ニックの鋼の精神をもってしても無傷でやり過ごすことはできなかったのだ。
「わかっていただけたならよかったです。それでは私はこれで……あれ? 私はこんなところで何をしていたんでしょう?」
「いや、だから怪しげな輩に騙されそうになっていたのだろう?」
「あ、そうでした! その節は助けていただいて、本当にありがとうございました」
ニックの言葉にポンと胸の前で手を叩くと、女性が優雅に一礼をする。柔らかな白金の髪が揺れ、微笑む様は正しく天使か妖精のようだ。
「予想外のところで疲れたが……まあとにかく、お主が無事なようでよかった」
「はい! おかげでえっちな目に遭わずにすみました。このご恩はいつか必ずお返し致します。では私はこれで……」
「いや、待て」
立ち去ろうとする女性を、ニックは慌てて呼び止める。
「はい? 何でしょう?」
「こんな裏路地をお主のようなお嬢さんが一人で歩くものではない。人通りのあるところまで儂が送ろう」
表通りまでは角を曲がって数十歩。目と鼻の先と言っていい距離ではあるが、だからこそ油断をしてはいけないことをニックは知っている。人を攫うなら三歩の距離があれば十分なのだ。
もっとも、そんな「裏の常識」など知る由も無い女性はニックの提案に疑いに眼差しを向けてくる。
「……えっちなお礼はしませんよ?」
「いらんわ! あー、まあ儂とて赤の他人には違いがないのだから、嫌だと言うなら無理にとはいわんが」
意識を向けてさえいれば小さな町の中くらいの範囲であればニックには気配を追えるし、仮にもう一度不埒な者が絡んできたとしても、その気になればどうとでも排除できる。
たった今見知らぬ男達に騙されそうになったのだから、自分を警戒するのはむしろ当然であり、ならばこそそう口にしたニックだったが、その提案に女性は満面の笑みを浮かべて答えた。
「いえ、そういうことならエスコートを宜しくお願いします、おじさま……っと、そうでした!」
ニックに向かって手を出そうとした女性が、不意に首の後ろに手を回し、おろしていたフードを被るとニッコリと笑う。
「これで完璧です! さ、では参りましょうか」
「うむ、それはいいのだが……何故フードを被ったのだ?」
「これですか? ふふふ、これは変装です! さっきは顔をよく見せてくれって言われたのではずしましたけど、普段はこれを被っていると誰も私を私だと気づかないんですよ!」
「ほぅ、そうなのか」
得意げに語る女性に、ニックは曖昧な笑みを浮かべて答える。フードは耳やおでこを隠すくらいのものであり、顔は全く隠れていない。それどころか白いドレス風の服に深緑色のフードはむしろ何も被っていないより目立つ気がしたが、自信満々の顔をしている女性にそれを指摘するのはなんとなく気が引ける。
「それでは改めて、いざ出陣です!」
「ははは、勇ましいな」
元気な声をかけあって、二人連れ立ち裏路地を出て行く。といっても距離が距離のためあっという間に路地を出ると、ニックは改めて女性に声をかけた。
「ここまでくれば問題なかろう。では儂は……お嬢さん?」
「…………美味しそう」
話しかけるニックに対し、女性は完全にそっぽを向いてニックの言葉を聞いていない。その視線は近くの屋台に釘付けであり、口の端からはたらりと涎が垂れそうになっている。
「何だ、それが食いたいのか?」
「はっ!? どうしてわかったんですか!? まさかおじさま、人の心を読めるとか!?」
「ふっふっ、そうだな。お主の心なら容易く読めそうだが……店主殿、そちらの芋串を二本もらえるか?」
「はいよ。タレはどうするんだい?」
「タレか……どうする?」
「私ですか? うーん、チーズとバターはどっちも手堅いですけど、今のお腹の具合だと甘ダレが素敵に見えます」
「そうか。ならチーズと甘ダレにしてくれ」
「はいよ!」
ニックの注文を受け、店主の婦人がふかした芋に溶けたチーズや独特のとろみのある焦げ茶色のタレをタップリとまぶして手渡してくる。それを受け取り金を払うと、ニックは甘ダレのかかっている方を女性へと差し出した。
「ほれ、これは儂の奢りだ」
「いいのですか!? ありがとうございます!」
礼を言って受け取ると、女性が嬉しそうに芋串にかぶりついた。口の周りにタレをつけながら幸せそうに芋を頬張る様は、ただ見ているだけで幸せな気分になる。
「はふはふ! おいひーれふ!」
「そうかそうか。熱いから火傷をしないようにな」
「ふぁい……はふはふ……はひっ!」
「ほれ、気をつけんか。まったく……あーあー、口の周りもベタベタだぞ?」
見た目よりもずっと幼い言動をする女性に対し、ニックは小さな子供にするように鞄から取り出したハンカチで口の周りを拭っていく。
「ほれ、これでいいだろ」
「ぷはっ! ありがとうございますおじさま。それにしても、何でおじさまはさっきから私に優しくしてくれるんですか? はっ!? ひょっとして――」
「待て。その先をここで口にするのは、本当にやめてくれ。そんなつもりはないからな」
さっきは裏通りだったから問題なかったが、こんなに人通りのある場所で「えっちなことを……」などと口にされたら本気で取り返しがつかない。わりと必死かつ真剣なニックの眼差しに女性は大きく頷き……
「そうですよね。おじさまは私にえっちなことなんて――」
「えっちなことですとぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
まったくわかっていなかった女性が発した言葉を聞きつけて、通りの向こうからそんな絶叫と共に一人の老人が駆けてくる。その背後には衛兵と思われる武装した男達を引き連れており、通りの人々を押しのけて瞬く間にニック達の方へと走り寄ってきた。
「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ……」
「大丈夫ですか、爺や?」
「おお、何とお優しい! 流石は我らがポーン姫様でございます」
「え!? ち、違いますよ!? 私は謎の女の子で、この国のお姫様なんかじゃありませんよ?」
姫と呼ばれた女性が焦った声でそう告げると、爺やと呼ばれた老人もまた露骨に顔をしかめて答える。
「はっ!? そ、そうでしたな。ジイとしたことが、とんだ失言でした……して姫様、この者は?」
「おじさまですか? おじさまは裏路地で私とえっちなお話をした後、芋串をご馳走してくれた方です」
「待て待て待て! その言い方では――」
「うら、うら、裏路地でえっちなことですとぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
ニックが抗議の声をあげるより先に、謎の老人が驚愕の表情と共に大声で叫ぶ。その声は今度こそ辺り一面に響き渡っており、周囲の人々……特に女性からゴミムシを見るような視線がニックに突き刺さっていく。
「何たる恥知らずな! ちょっと頭のお弱い姫様を騙くらかして、芋串を報酬に裏路地でえっちな会話に興じるなど! 貴様のような不届き者、このモーロックが成敗してくれるわぁ! おい、剣を貸せ!」
「あっ、ちょっ、モーロック様!?」
憤怒の形相となった老人が、近くにいた衛兵の腰から強引に剣を引き抜きニックに向かって斬りかかってくる。よたよたと走る老人の斬撃などニックの肌どころか新品の鎧にすらかすり傷さえつけられないのは明白だが、然りとて黙って食らうわけにもいかない。
「お待ちくだされご老人! まずは儂の話を――」
「問答無用! ちぇぁぁぁぁぁぁぁぁ……あっ!?」
「おっと、危ない!」
抜き身の剣を振りかぶり、走っていた老人が躓いて転ぶ。すかさずニックが走り寄ってその体を受け止めたが、そうなってなお老人は剣を離さず滅茶苦茶に振り回し始めた。
「ええい、離せ! この狼藉者がぁ! 姫の貞操はこのモーロックが守るんじゃあ!」
「大丈夫です爺や! 確かにえっちなお話はしましたけど、えっちなことはされてないですから!」
「全然大丈夫じゃないですじゃあ! ああ、姫が! ジイが目を離した隙に、姫様の清いお心がこんな男に……コッツ王家に仕えて五〇と余年。こうなってはもはやこの首を差し出して陛下にお詫びするしか……」
「死んではいけませんわ爺や! 爺やは私の花嫁姿を見るんでしょう?」
「はっ!? そうでしたな。姫の晴れ姿をみるまでは、このモーロック石にかじりついてでも長生きしてみせましょうぞ!」
「流石爺や! その調子でずっと長生きしてくださいね!」
「あああ、何とお優しい……姫様ぁぁぁぁぁ!」
「爺や!」
バッとニックの腕をはねのけ、剣を手放しヨロヨロと歩くモーロックをポーンが優しく抱きしめる。一見すると感動的な場面だが、これを見慣れている面々はいつも通りの呆れ顔だ。
そして一人完全な部外者であるニックは……
「一体何が起きているというのだ……」
『今回も実に貴様らしい事態の転がりようだな。フッフッフ……やめっ、やめるのだ! 何故また握る!?』
とりあえず鞄の中に手を突っ込んでオーゼンをニギニギしつつ、呆然とその様子を眺め続けた。