吸血貴族、打ち合わせる
時は僅かに遡り、勇者が海底に、勇者の父が世界樹の中に籠もって世間から隔離されている頃。彼らの与り知らぬところで、世界には大きな変革期が訪れていた。
ギリギリス王国、国境付近。魔族領域たる森の側には、世界中から集められた一万人の兵が整然と列を成している。しかもその全員が、ザッコス帝国から提供された技術を元に作り上げられた魔導鎧を身につけている。
「いよいよか……」
「はい。もうすぐ人類の悲願が一つ達成されることになります」
砦にて眼下を見下ろすギリギリス王国国王ワリトの呟きに、一歩下がって隣に立つ将軍が答える。
ごく普通に陸続きだというのに人類が魔族領域に攻め込まない最大の理由は、魔族領域に漂う濃い魔力が人類にとっては有害なほどの濃度であり、魔力過多症のような症例を引き起こすからだ。
一流の冒険者や上級騎士などの一定以上の自力のある者であれば問題ないのだが、戦争となれば引き連れる大半は一般兵であり、彼らの大部分が耐えられないということであれば当然軍事行動など起こすことはできない。
だからこそ今日この日まで、魔族領域で活動できるのは選ばれた強者のみ……そしてその中でも最強である勇者とその一行にばかり魔王討伐の責を背負わせることになっていたのだ。
「陛下もご存じの通り、我ら人類は魔族領域へ入るのが非常に困難でした。何せあちらに踏み込むと我らは弱体化するのに対し、魔族側は場に満ちた魔力で強化されますからな。
逆に魔族領域から出てきた魔物の強さは元に戻りますから、そうなれば数に勝る我ら人類は有利になります。
どちらも自領域では圧倒的に優位になるからこそ、我らは長年をかけて少しずつ互いの領土を削り合う日々を送ってまいりました。ですが……」
「魔導鎧、か……」
王の眼下には、かつて援軍に訪れてくれた兵が着ていたものとは少々作りの変わった、だがやはりゴツゴツしている謎の鎧に身を包んだ兵が整然と立ち並んでいる。
「以前に聞いた報告では凄まじい力を発揮したというが、あれと同じものなのか?」
「正確にはそれを更に発展させたもののようです。あれを身につければ一兵卒が英雄のような力を得られるばかりか、魔族領域での活動すら問題なくなるとのことです」
「人類の悲願が、あのような魔法道具ひとつで叶うわけか……世は変わったのだな」
「はい。この作戦が上手くいけば……『英雄の時代』は終わりを告げると思われます」
「そう、か……」
将軍の言葉に、ワリトは複雑な思いでそう答える。誰もがそうであるように、ワリトもまた幼き日には英雄に憧れていた。たった一人で巨大なドラゴンすら圧倒し、その一言で世界全ての人々に勇気と希望を与える存在。
だが、自分が王となりその「英雄」に選ばれたのは、年端もいかない少女だった。誰もが英雄の力を持ち、結果として英雄のいない、必要無い世界。それを何とも言えず寂しいと感じる反面、そのような少女が無理に英雄を演じる必要の無い世界こそ理想であるというのも理解できる。
「すまぬ将軍。出撃までの間、少し部屋で休ませてもらう」
「畏まりました。この場はお任せ下さい」
そう言って一礼する将軍を背に、ワリトは砦内部の一室に戻っていく。入り口の兵に手を上げて挨拶をしてから入室すれば、そこは音も漏れず鼠一匹入れない堅牢な密室だ。
「ヤバスヤバス。ご苦労でヤバス」
と、そんな誰もいないはずの密室に、不意にワリトのものでは無い声が響く。ビクッと体を震わせてそちらを振り向いたワリトだったが、不審者と目が合った瞬間体の自由が奪われ……
「血は血に還り、血を以て知に目覚めよ。我が血族ワリードリッヒ・ウラギリスよ」
ヤバスチャンの目が怪しく光ると、人そのものだったワリトの目が赤く変わっていく。それと同時に起きたワリードリッヒは、ヤバスチャンの前に恭しく片膝を突いて頭を下げた。
「お久しぶりでございます、ヤバスチャン様」
「ヤバスヤバス。確かに直接顔を合わせるのは久しぶりでヤバス……それがどういう意味かはわかっているでヤバス?」
「勿論です」
普段のワリトは身も心も完全に基人族の男であり、善良なギリギリス王国の国王だ。だが満月の夜だけは吸血鬼としての意識が目覚め、その時にヤバスチャンに定時報告を送ったり、必要であればヤバスチャンからの指示を受けたりしていた。
そして今日は満月ではなく、ましてやここは基人族が大量にいる砦の中。そんな場所にヤバスチャンが自らやってきた理由となれば、心当たりなど先程までの光景以外にはあり得ない。
「あの魔導鎧とかいうのは、どの程度のものでヤバス?」
「単純な戦闘力はかなりのものです。十全に鎧の力を引き出されれば、下位の眷属では歯が立たないでしょう」
「それほどでヤバスか……それを着た兵士が一万人。これはちょっとヤバすぎる事態でヤバス」
人間達の間では、魔族領域は強大な魔物が跳梁跋扈する地獄のような地だと考えられている。だがそれは魔族側が人と魔族の領域を隔てる深い森を防衛線と定め、きっちりと守りを固めているからだ。
その奥に広がる本当の魔族領域は当然魔族が普通に暮らしている場所なので、町もあれば道もあり、その周辺に生息する魔物はきっちりと退治されたりしている。人間は勘違いしがちだが、魔物は普通に魔族を襲うのだ。
「今詰めている戦力だけでは、それほどの戦力はとても止めきれないでヤバス。一応援軍は集めているでヤバスが……まったく、ボルボーンは何処に行ったでヤバス」
魔族領域入り口の警備はヤバスチャンの担当だ。なので常に適切な人員を配置してはいるが、いくら何でも一万人の強兵を相手にできるような戦力を常備しているはずもない。各地に急いで連絡を飛ばしてはいるが、既にこの地に敵兵が集結していることを考えれば、間に合うとはとても思えなかった。
かといってマグマッチョの部隊に援軍など要請したら防壁である森を燃やされてしまう可能性が高いし、領域の反対側、海での活動を主としているギャルフリアの部隊をここまで引っ張ってくるのも非現実的。
唯一頼りになるのはボルボーンなのだが、かの骨はここ最近姿を見せていない。今一つ信用できない上に何処にいるかもわからない相手を探し出して援軍を頼むのが一番現実的な選択肢という状況に、ヤバスチャンの背筋をヤバいくらいに悪寒が這い上がってくる。
「ヤバスヤバス……これほどのヤバさは久しぶりでヤバス。この状況を打破するには……」
「……使いますか?」
ゾクゾクと体を震わせている主に、ワリードリッヒはそう切り出す。長い時間をかけて人の世界に国を打ち立てたのは、一つは人間達の情報収集のため。
そして一つは人間と魔族の戦争において、勝ちすぎず負けすぎずの状況を演出して人間側の世論を調節するためであり、最後の一つは……いざという時に人間側の背後から襲いかかる埋伏の毒、必殺の刃として。
ちなみにだが、国の名前が自分ではなくヤバスチャンの家名であるギリギリス王国となっているのは、この国そのものが自らが仕える偉大なる主に捧げるためのものだからである……閑話休題。
「……いや、世代交代なども演出して四〇〇年も育ててきた国をここで使い捨ててしまうのは、流石にヤバすぎるでヤバス。その札はもっと本気でヤバい時まで取っておくでヤバス」
「畏まりました。では、どうしましょう?」
「そうでヤバスな。時間稼ぎをするとして、体調不良……いや、ここでお前が襲われたことにするでヤバス。不信感を煽らせ限界まで粘ったところで、最後はシャドウウォーカー辺りが紛れ込んでいたことにすればいいでヤバス」
「人間達の裏切りを疑わせなくてもいいので?」
「存在しない犯人を生み出してしまうと、最終的にお前自身に疑いがかかる可能性がでてしまうでヤバス。それよりはこの砦の防備が完全ではなかったということにすれば、この国の評価がやや低下するのと引き換えに安全に時間が稼げるでヤバス」
「なるほど。ではご命令のままに」
「うむ。頼んだでヤバス」
そう言って大きく頷くと、ヤバスチャンの体が霧となって消え失せる。実際ただの石造りの砦など、ヤバスチャンほどの吸血鬼からすれば幾らでも抜け放題なのだ。
「では、私もやるべき事をやるか……我が血に誘われ影よりいずれ、血の従僕シャドウウォーカーよ」
主の気配が消えたのを確認してから、ワリトは自らの指先を軽く切って床に映る己の影に血を垂らす。すると徐に影が立ち上がり、ワリトの目の前でゆらゆらと漂う。
「私の意識が眠ったならば、私を傷つけ姿を隠せ」
その命令に影が頷くのを確認すると、ワリードリッヒの意識が深く沈み瞳の色が元に戻る。
腕に傷を負ったワリト王が叫びながら部屋から飛びだしたのは、それからまもなくのことである。