父、満喫する
遂に500話まで辿り着きました! これも読者様の応援のおかげです。本当にありがとうございます。
記念なのでサービスシーンをおいておきますね
「む、朝か……」
筋肉親父の朝は早い。窓から差し込む太陽の光……実際には塔の外の景色を写した幻影だが……をその身に感じると、ニックはむくりとベッドから巨体を起き上がらせた。
真の戦士は寝ぼけたりしない。起き抜けだろうとその頭は冴え渡っているが、体は別だ。睡眠中にこそ筋肉は回復、成長するため、寝る前の自分と今の自分の違いを確かめるためにも全身を軽く動かしてその調子を確かめる。
「うむ、今日もいい調子だな」
一〇分ほどかけて入念に体をほぐし終えると、今度は少し本格的に運動を始める。オーゼンの調査によって発見された作業員用の部屋は決して狭くは無いが、それでもニックが本気で動き回れるような広さではない。
「フッ……フッ……フッ……」
なので、ニックはひたすら腕立て、腹筋、膝の屈伸運動を繰り返す。じっくりと筋肉に負担をかけるように運動を行えば噴き出す汗がじっとりと部屋の空気を湿らせていき、代わりに刺激を受けた筋肉が火照り、喜びにピクピクと震えていく。
「フッ……フッ……フッ……ふぅ、今朝はこのくらいだな」
そんな地味だがきつい鍛錬を終えると、ニックは徐に服を脱ぎ、つるつるとした質感の小さな部屋に入って壁にある出っ張りを捻る。すると頭上からちょうどいい温度のお湯が雨のように噴き出してきて、ニックの全身を優しく洗い流していった。
「フンフンフーン……フンフフーン……」
全身を湿らせたところで一旦湯を止めると、今度はご機嫌に鼻歌を歌いながら部屋に据え付けてあった小瓶からトロリとした白い液体をその手に取り、全身にまんべんなくすり込んでいく。するとヌルヌルはすぐにフワフワの泡へと変わり、汗でべたつく体が真白き泡衣に包まれていく。
ついでにそのまま歯も磨き、最後に再び湯を降らせて全身を洗い流すと、毎朝用意されている洗い立てのフワフワした布で水気を拭き取り、さっぱりとした気分でニックは部屋の中へと戻った。
「何度体験してもこれは素晴らしいな。ふふふ……」
その場でクンクンと鼻を鳴らせば、全身からはほのかに花の匂いが立ち上っているのが感じられる。年頃の娘がここぞという時のおしゃれに香油を垂らした湯で髪を洗うというものがあるが、確かにこんな香りを体から漂わせていれば随分と魅力的に見えることだろう。
「服も……大丈夫だな。では次は食事か」
服や下着などは、オーゼンに教えられた四角い箱のような魔導具に入れておくと勝手に綺麗になっている。アトラガルドの偉大さを噛みしめながら清潔になったそれに着替え、ニックは今度はコンロなどの据え置かれている調理場へと足を運んだ。
「さてさて、様子はどうだ……?」
まるで冬のような寒さで中身を冷やしてくれる箱から、ニックは昨夜仕込んでおいた材料を取り出す。食事は要求すれば出てくるのだが、毎回例の完全栄養食ではあまりに味気ないため、最近は自炊に凝っているのだ。
「……いい具合だな」
そこから取り出した金属製の箱の中身の様子に、ニックは思わずニンマリと笑う。中に入っているのは薄黄色の液体に浸かった厚切りの白パンだ。
かつてチェーンに馳走した不死鳥ほどではないにしろ、十分に高級食材であるレッドワイバーンの卵とアングリーオックスの乳、それにこれまた高価なきめの細かい白糖を混ぜた液体を一晩かけてタップリと吸い込んだ白パンは蕩けるような柔らかさで、ニックはそれが崩れないようにそっと平底鍋の上に載せる。
「後はじっくり弱火で焼いて……と。ついでだ、ブラッドオックスの燻製も焼いておくか」
白パンの隣で厚切りにした燻製肉を焼きつつ、棚から取り出した皿の上に同じく冷蔵魔導具のなかで冷やしておいたベリーを盛り付けたり、魔法の鞄から取り出した葉物野菜で簡単なサラダを作ったりと、ニックの料理は進んでいく。
最後は焼き上がった白パンにバターを載せると、完成した料理を盛り付けた皿を食卓へと運び、徐にナイフを白パンに通す。弾力のある表面が一瞬だけ抵抗するもナイフはプツリと白パンの内へと入り、同時に表面で蕩けたバターが断面へと流れ込んできて……
「ああ、これはたまらんな。では、早速…………んふふふふ……」
口の中に広がる、優しい甘さと塩気。元がパンとは思えないぷるんとした弾力と味に、ニックの顔から思わず笑みがこぼれる。
「これは美味いな……大成功だ」
二口三口と、ニックのフォークは止まらない。若干甘さに口が慣れたところで隣に添えてあるベリーを口にすれば、その酸味が味の余韻を洗い流して何度でも新たな気持ちで漬け焼き白パンの味を楽しみ直すことができる。
別皿に用意した葉物野菜のサラダも魔法の鞄のおかげで新鮮そのものであり、シャキシャキの歯ごたえと瑞々しさがひと噛みするごとに口の中で弾け、「美味い」だけではなく「楽しい」という料理の一面を存分に味わわせてくれる。
「旅暮らしや宿ではこんな手の込んだものは作れんからな。いやぁ、実に美味い……フレイ達に食べさせたならば、どんな顔をするだろうなぁ」
黒コショウをタップリきかせた厚切り燻製肉のステーキの方も頬張りつつ、ニックはふと別れた仲間達のことに思いを馳せる。ムーナには幾度かあったが、フレイとロンにはあの日以来一度も会っていない。
寂しくないと言えば、正直嘘になる。だが娘が独り立ちをして頑張っているというのなら、応援するのが親の務め……そう頭では理解していても、これを食べた娘の笑顔を思い浮かべればニックの胸に僅かばかりの疼痛が走る。
「もう一年半か。子供の成長は早いものだ。きっと今頃はお前にそっくりに育っているんだろうなぁ」
ナイフを動かす手が止まり、ニックの目が遠くを映す。若かりし頃の妻の笑顔は、どれほど時が経とうともこれっぽっちも色褪せることはない。
「今の儂なら、お前を……いや、それは違うな」
今のニックにできることは、あの頃とは比べものにならない。世界最高の治癒術士を専属で雇う財力もあれば、稀少な素材を取ってくる武力もある。今日この日にマインが倒れたというのであれば、その全ての力を使って妻を助けようとしただろう。
だが、そういうことではない。あの頃の自分もまた、その時できる全力を尽くしたのだ。やれるだけのことはやったと、誰に対しても胸を張れる。それでも届かなかったのだと、誰よりも悲しんだ。
「なあ、マイン。儂は今日も元気に生きておるぞ。勿論、フレイもな。なのですまんが、この料理の味を伝えに行くのはまだまだ当分先になりそうだ」
白パンを刺したフォークを天に掲げ、ニックは一人そう呟く。その向こうに見える妻の顔は、呆れたように苦笑して見えた。
『……えるか? おい、貴様よ。聞こえるか?』
「むっ!?」
と、そこで不意にオーゼンの声が聞こえてきた。反射的に声の方に顔を向けたが、オーゼンがいるのはこの部屋ではないので、そこにあるのは当然壁だけだ。
「どうしたオーゼン。何か問題か?」
『いや、ようやく必要な情報を集め終わったから、その報告だ』
「おお、遂にか! わかった、ならばすぐにそちらに行こう」
『うむ。待っているぞ』
オーゼンからの朗報に、ニックは急いで食事を食べ終えると片付けもそこそこに部屋を出て自動昇降機の上に立つ。すると僅かな振動と共に床が下がっていき、ほどなくして最初に辿り着いたあの部屋で停止した。
『来たか……何と言うか、久しぶりな気がするな』
「上の部屋で会話は何度かしたが、こうして直接会うのは一月ぶりだからな。お主の言う通り『邪魔にならないよう大人しくしている』のも大変だったぞ?」
『そうか? 我には優雅に暮らしているように見えたが?』
「むっ!? まさか、見ておったのか!? 何と嫌らしい!」
『誰が嫌らしいか! 我だって見たくて見ていたわけではないわ!』
胸と股間を隠すような姿勢を取ったニックに、オーゼンが苛立ちを露わにして声を荒げる。そのまましばし二人の睨み合い(?)が続き……
「……フッ。相変わらずだな、オーゼン」
『貴様もな』
小さく笑ったニックに、オーゼンもまた笑って答える。そうしてニックがオーゼンの側に歩み寄ると、そのメダリオンの体にそっと自分の手を乗せた。
「よく頑張ったなオーゼン」
『貴様もよく付き合ってくれた。感謝しよう、ニックよ。そして今から語るのが、我の努力と貴様の忍耐が探し当てた情報だ』
そう言って、オーゼンは一月以上かけて調べ上げた内容をゆっくりと語り始めた。