魔女、気づく
「へぇ、そうなのねぇ」
遙か深き海の底。日の光すら届かない場所の煌々たる照明の灯る部屋にて、今日もムーナは本を片手に感心したような声を漏らしていた。
「随分と楽しそうですが、本日はどのような本を読んでおられるのですか?」
と、そこにお茶を手にしたロンがやってくる。最初の頃こそムーナを手伝って様々な資料を集めたりしていたが、今の仕事はもっぱら部屋の片付けやお茶の用意だ。
もっとも、それは絶対に必要なことでもある。ムーナにさせるがままにしておくと貴重な資料がドンドンと床に積み上がってしまうし、研究にのめり込んだムーナは飲食すら忘れてしまうこともある。仲間の体調を管理しよりよい環境を整えることを、「癒やし手」であるロンは自分の仕事だと考えていた。
「ありがとうロン。今読んでるのは、料理の本ねぇ」
「料理、ですか? ここに集められているのは貴重な資料ばかりだと思っておりましたが、まさか料理本があるとは……」
意外そうな声を出すロンに、しかしムーナはフフンと笑って答える。
「わかってないわねぇロン? 料理には文化が詰まってるのよぉ? 食べている肉や穀物、飲んでいるお酒からその国がどんな植物が育つ環境で、周囲にはどんな動物がいるのかがわかるわぁ。
他にも塩辛いものが多く食べられていれば肉体労働階級の人が大量にいることが推測できるとか、とれる地域の違う香辛料の使われ方で輸送手段の発達具合がわかるとか、料理一つとってもわかることは沢山あるのよぉ」
「なんと! いやはや、流石の見識ですな。仮に拙僧が同じ本を読めたとしても、精々今夜の献立の参考にするくらいでしょう。ハッハッハ」
ムーナの講義に、ロンがペロリと舌を出して笑いながらその場を去って行く。そんなロンの背を見送ってから、ムーナはテーブルに置かれたお茶を一口飲んでから再び本に視線を落とす。
(それにしても、こんなに簡単に読めるようになるとはねぇ)
目の前に並んでいるのは、ほんの二月前には全く読むことの出来なかった文字。だが今はそれをすらすらと……とまでは言わずとも、おおよそ七割から八割くらいは読むことができている。その最大の要因は、古代文字……アトラガルドの文字が、現代の言葉と同じ文法で書かれていたことにある。
ムーナは歴史学の専門というわけではないが、古代文明崩壊から現代までのおおよそ一万年の間には、それ以外にも幾つもの文明が興っては滅びたことくらいは知っている。そしてそれらの文明……とりわけ一定以上に発展した文明では、その多くが独自の言語を有していた。
なので、当然古代文明も自分達とは違う言語を使っていると思っていたし、実際その文字を読むことは誰にもできなかった。
だが大量の資料を手に入れ、類推される単語などから当たりをつけて解読をしていった結果、古代文明アトラガルドに使われていた言語が現代に使われている言葉とほぼ同一であるということをムーナは発見する。
そしてそれに気づいてしまえば、解読はあっという間だった。所々に理解出来ない単語は存在するが、それを除けばアトラガルドと現代とで違うのは使っている文字だけであり、同じ言葉を喋っていたとしか思えないほどにその文法は似通っている。
(今まで何一つ疑問に思っていなかったけど、よく考えるとおかしいのよねぇ。何で私達は世界中の人々と話ができるのかしらぁ?)
基人族が統一言語を持っているのは、まあわかる。同じ種族が寄り集まって生活しているのだから、意思疎通の利便性を考えても言語が統一されるのはむしろ当然だ。
そして、それは他の種族でも同様だ。獣人族や精人族がそれぞれの言語を持つことは不思議でもなんでもない。不思議なのは、その全てが……それこそ戦闘以外の交流がないはずの魔族ですらも、この世界に存在するほぼ全ての知的存在が同じ言葉を使っていること。
(言葉が同じなんて、当たり前すぎて気づけなかった。でも気づいてしまえば違和感しかないわぁ。そしてその大本の言葉が、一万年前に繋がってる……これってどういうことかしらぁ?)
目線こそ本に落ちているが、ムーナの思考は既に本の上にはない。頭の中によぎるのは、世界を巡る大きな謎。
(私達とエルフや獣人、魔族は全然違う存在のはず。百歩譲ってどれかの種族の言葉に統一したとしても……その場合はエルフでしょうけど……元になった言葉が何処にも存在していないのはおかしすぎるわぁ。
それに魔族……何で文化的な接点のないはずの相手が、こっちと同じ言葉を使ってるわけぇ? 世界の三分の一を支配する独立種族が、敵対する相手と同じ言葉を使う理由なんて思いつかないわぁ)
考えれば考えるほど、思考は深みにはまっていく。だからこそムーナはパンと音を立てて本を閉じると、全てを仕切り直すかのように冷めたお茶をごくごくと飲み干した。
「ふぅぅ……その答えも、ここに眠ってるのかしらねぇ?」
言って周囲を見渡せば、そこにあるのは数え切れない本の山。金属製の棚に整然と並ぶそれはそれこそ数え切れない程であり、ムーナはまだその一割すら読破できてはいない。
「まあ読めるようになったんだし、後はゆっくり時間をかけるしかないわよねぇ」
「やっほー! ムーナ、元気ー?」
嬉しさと面倒くささが九対一くらいで混じった微笑みを浮かべたムーナの耳に、不意に暢気な声が届く。声のした方に顔を向ければ、扉を開けて入ってきたのは当然ながらフレイだ。
「あら、フレイぃ。こんなところにどうしたのぉ?」
「どうしたもこうしたもないわよ! ムーナが全然部屋から出てこないから、心配になって見に来たのよ!」
「ふぅん? 本当は退屈で仕方が無いから、遊びに来たとかじゃないのぉ?」
「うぐっ!? ソ、ソンナコトナイワヨー」
ジト目を向けるムーナに、フレイがそっと顔を逸らす。少し前に一九歳になったばかりのお年頃の勇者様だが、こういうところは相変わらず子供っぽい。
「まったくぅ、そういう所は本当にニックにそっくりよねぇ」
「えー、そう? うへへ、何か照れちゃうな」
「褒めてはいないわよぉ!?」
「じゃあ、けなしてるの?」
「そうじゃないけどぉ……」
「ならいいじゃない! ということで、今日はアタシも何か本でも読んじゃおうかなー?」
まるで歌うように呟きながら、フレイが軽い足取りで書架の森に踊る。その姿にすっかり深刻な空気を吹き飛ばされて、ムーナは温かい気持ちを胸に抱きながらそんなフレイの後ろ姿を見つめた。
「本当に、フレイって勇者よねぇ、ふふっ」
「えー? 何ー?」
「何でもないわぁ。それより、本を出したならちゃんと元の場所にしまいなさいよぉ? じゃないと何処に何があるかわからなくなっちゃうわぁ」
「ぶー、わかってるわよそのくらい」
自分の事をすっかり棚に上げたムーナの言葉に、フレイが思わず唇を尖らせる。なお、ちょっとした興味からムーナに教えを請うたことで、今はフレイも少しならば古代文字を読むことができるようになっている。
そんなことが可能だったのはやはり「文字の形が違うだけ」という今と古代文明の謎の繋がりがあったからだが、単純にムーナから文字の読み方を教えて貰っただけのフレイがそんな疑問を抱くことはなく、選び出した本を胸に抱えてるんるん気分でムーナの所へと戻っていく。
「ねえ、これとかどう? 多分『歌劇』って書いてあると思うんだけど」
「んー? あー……それはやめておきなさぁい」
フレイが持ってきた本の表題は、正確には『これ一冊でバッチリモテる! 若い女性に大人気の歌劇一〇〇選』だった。それはそれで当時の文化水準や思想がわかりそうだが、フレイと二人でそれを読むのは何とも言えず不毛な気がしてムーナはさりげなく顔をしかめる。
「むぅ、面白そうなのに……それじゃ、ムーナは今は何を読んでるの?」
「これぇ? これは料理の本よぉ」
言ってムーナがテーブルに置いた本を手に取りページを開くと、フレイがムーナの頬にピッタリと自分の頬をくっつけながら、その手元の本を覗き込んでくる。
「ちょっ、近いわよぉ!?」
「いいじゃない。こうしないと読みづらいし……えっと、トマトに、コショウ……? ねえムーナ、これは何て読むの?」
「それは…………っ!?」
フレイが本の中にあった『開放』という文字に触れた瞬間、ページ全体に青白い光が走り、幾つもの単語の上に光る文字で別の単語が重なって表示される。
「えっ、えっ!? アタシまた何かやっちゃった!?」
「勇者にしか反応しない隠し文字!? しかもこれは……っ」
戸惑うフレイを余所に、ムーナは食い入るように新たな文章を読んでいく。だがそこに書かれているのはムーナですら理解しきれない、複雑で高等な魔法道具の作成手順の一部と思われるもの。
「そう、ここまで徹底してるのねぇ……ふふ、ふふふ……」
「ど、どうしたのムーナ? 何か怖いんだけど……?」
「大丈夫よぉ。ちょっと自分の未熟さに腹が立ってるだけだものぉ」
飴を貰って目を逸らされるなど、幼子のようなものだ。自分がその程度だと馬鹿にされたようで、ムーナの瞳に情熱の炎が宿る。
「あー……何か忙しいみたいだし、アタシはこれで……っ!?」
「逃がさないわよぉ、フレイぃ!」
「ふへっ」
物語に出てくる悪い魔女のような笑みを浮かべたムーナが、ガッシリとフレイの腕を掴んで離さない。そのあまりの迫力は、勇者であるフレイですら変な声が漏れてしまうほどだ。
「さぁ、一緒に頑張りましょう? 今こそ貴方の力が必要なのよぉ?」
「う、うん。まあ、アタシで役にたつなら……」
消極的ながら頷いたフレイに、言質はとったとムーナがほくそ笑む。その後フレイが泣いて頼み込むまで、ムーナはフレイの指をひたすらに本にこすりつける作業に没頭することになるのだった。