父、再会する
「むーん…………」
禁書庫の扉が開かれてから、二週間。その日もニックは難しい本に目を通しては唸り声をあげていた。本を読むこと自体は決して嫌いでは無いのだが、流石に禁書庫などという場所に保管されるような専門書は知識が追いつかないためだ。
『これは伝染病に関する書物か。発生源から治療法までかなり細かく研究されているようだが……確かにこれは表には出せず、かといって廃棄もできない類いの本だな。ほれ、次のページをめくるのだ』
今ニックが手にしている本には、かつて猛威を振るった伝染病の研究記録が書かれている。だが研究書であるが故にそこには病に関する全ての知識が網羅されており、悪用すれば自分の手で病を流行らせることすらできてしまう。
かといって治療法だけを抜き出して保存するのでは病の発生源を特定する情報などがなくなってしまい、大きな片手落ちになってしまう。なるほどこれは厳重に管理する必要があるだろうと、オーゼンは一人納得しつつニックにページをめくらせ続ける。
「随分としかめっ面をしているねぇ、ニック君? そんな顔で読んでは本が可哀想だよ?」
と、そんなニックに声を掛けてくる人物がいる。今やすっかり禁書庫の主となり、人がいない時間帯を見計らって下に降りたりもしていることから「英知の塔には読書好きの幽霊がいる」などとまことしやかに囁かれ始めた三賢者の一人、ヨンダルフだ。
「ヨンダルフ殿か。いやぁ、儂にはどうにも難しい内容なのだが、それでも知識を得ておくことに損はないかと思ってな」
実際にはオーゼンにねだられてのことだが、かといって嘘というわけでもない。必死に内容を理解しようとしているニックに、ヨンダルフは苦笑しながら言葉を続ける。
「何とも殊勝なことだけど、前提知識無しで専門知識を扱うのは怖いから、参考程度にしておくのがいいよ」
「うむ、肝に銘じよう」
ヨンダルフの助言に、ニックは頷いて答えてから読書を続ける。ちなみにだが、アトラガルドに関する書籍は当然既に読み終わっている。オーゼンという答えと共に本に書かれた考察などを読むのは楽しかったのだが、残念ながらニック達が知りたかった滅びの謎に関しては新たな情報は何も得られなかった。
『……ふぅ』
(ん? どうしたオーゼン?)
一定の速度でページをめくり続ける中、不意に聞こえたオーゼンのため息のような声にニックが気になってこっそり声をかける。するとオーゼンは僅かに沈んだ声でそれに答えた。
『いや、ここでこうして知見を深めていくのは楽しいのだが……だからこそ思ってしまったのだ。これほどの知識が集まる場所で駄目ならば、もう世界中の何処にもアトラガルドの情報など残っていないのではないかとな』
(何だ、そんなことか)
『そんな事とは何だ!? 我にとっては重要な――』
声を荒げるオーゼンに、ニックは微笑みながらそっと鞄に手を添える。
(わかっておる。だが考えてもみよ。儂がお主と出会ってから、一体どれだけの未知と出会ってきた? お主がおらねば入れぬという「百練の迷宮」を筆頭に、蟻達の暮らしていた遺跡や魔竜王のねぐらなど、かつての文明の名残が色濃く残る場所は幾つもあったではないか。
ならば何故それがこれで終わりだなどと思う? なに、期限があるわけでもないのだ。これからものんびりと世界を巡れば、まだまだアトラガルドの息吹の残る場所に巡り会うとも)
『貴様よ……』
ニヤリと笑うニックの顔に、オーゼンの中に生まれていた漠然とした不安が消えていく。
『そうだな。初めて自分以外からアトラガルドの名を聞けた場所に新たな情報が無かったことで、僅かに気落ちしていたようだ。我としたことが……』
(ははは、長い人生、そんなこともあるであろう……うむ?)
いい話になりそうなところで、不意にニックの腹がぐーっと空腹を訴えてくる。いざとなれば飲まず食わずでもそれなりの期間活動できるニックだが、別に腹が減らないわけではない。
『全く貴様という奴は……ほれ、本はもういいから、飯を食いに行くのだ』
「そうさせてもらおう……ヨンダルフ殿。儂はちょいと飯を食いに行ってくる」
「そうかい。いってらっしゃい」
雑な挨拶を返すヨンダルフをそのままに、ニックは禁書庫を出て通路を進む。流石に二週間も通えば職員とも顔なじみとなり、軽く挨拶を交わしながら『英知の塔』の外まで出ると、数時間ぶりに浴びる夏の日差しを目一杯取り込むべく大きく背を伸ばす。
「うーん! さて、今日は何処で何を食べるかなぁ」
呟きながら、ブラブラと大通りを歩くニック。するとその視界の端に、なんとなく見覚えのある老人の姿が映った。それは向こうも同じだったらしく、老人がニックの方へと歩み寄ってくる。
「おお、オヌシは!」
「ご老人は確か……」
「ああ、そう言えば名乗ってもいなかったの。『試練の塔』の前で会ったジジイじゃ! どうやら無事に塔から返ってこられたようじゃのぅ」
「おお、そうであった! ははは、無論だ。天辺まで登ってきましたぞ!」
「ほっほっほ、そりゃ面白い冗談じゃ。オヌシ、今から飯か? ならここで会ったのも何かの縁じゃ。ワシが美味い店を教えてやるぞ?」
「それはありがたい! 是非お願いできますかな?」
ニックの言葉を冗談と聞き流した老人の誘いに乗り、ニックは老人に連れられて町を歩いて行く。そこは大通りから一本入った裏道であり、やや雑然とした通りにはいい匂いが漂っている。
「ほれ、ここの串焼きが美味いんじゃ!」
「ほほぅ、こんなところにも店があったのか。では、案内していただいたお礼に串焼きは儂がご馳走しましょう」
「なんと! 見た目だけじゃなく懐も大きな御仁じゃのぅ。では遠慮無くいただくとするか」
店の前にある小さな椅子に腰を落とし、ニックと老人は並んで串焼きにかぶりつく。オックス系だと思われる肉は大ぶりながらも柔らかく、辛めのタレが夏の暑さとは違う汗を流させてくれる。
「ふぅふぅ。やっぱり暑い日は辛いものを食べんとのぅ。これであとは冷えたエールでもあれば最高なんじゃが」
「おっ、ご老人もいける口ですかな?」
「勿論じゃ! ふーむ、串焼きを馳走になってしもうたし、もしオヌシがよければワシの家に来るか? 安酒でよければあるぞ?」
「いいのですかな? 儂のような流れ者を家に招いても?」
「構わん構わん! 一〇〇年連れ添う夫婦だろうと、最初は赤の他人なんじゃ! ならばせっかくの縁、ここで手放してしまうのは惜しいじゃろう?」
悪戯っぽく笑う老人に、ニックも思わず笑みがこぼれる。不用心と言ってしまえばそれまでだが、ここでそれを口にして老人をたしなめるのはあまりに無粋だ。
「わかりました。ではご相伴にあずからせてもらいます」
「おぅ、来い来い! なーに、すぐそこじゃよ!」
そう言って席を立つ老人に連れられ、再びニックは町を歩く。旅人ならばまず来ないような住宅街に入り込み、縄に掛けられた洗濯物などをくぐり抜けつつ進んだ先にあるのは、頑丈な石造りの割と大きな一軒家。
「さ、ここじゃよ。どうぞどうぞ、入っとくれ!」
「では、失礼して」
分厚い木の扉を開けた老人に手招きされ、ニックが建物の中に入る。するとそこには――
「おおお! これは!」
『これはまた……』
「ほっほっほ。驚いたかのぅ?」
広めの部屋の中に、足の踏み場も無いほどに転がる謎の物品。おそらくは魔法道具だろうと思われるが、その正体はニックにはわからない。
「偉大なる魔術の徒、ツクリマ・クールの工房へようこそ、じゃ!」
驚くニックの顔を前に、ツクリマは両手を広げて会心の笑みを浮かべた。