娘、膜を破る
「……んー? ねえロン、何で船の進路を変えたのぉ?」
暗黒の深海を進むこと、おおよそ三〇分。不意にムーナが口にしたその言葉に、しかしロンは首を傾げる。
「はて? 拙僧はそんなことしておりませんが?」
「そうなのぉ? でも、うーん……やっぱりちょっと進路が曲がってるわよぉ」
「ほえー。こんな真っ暗ななかでよくそんなことわかるわね」
「そりゃ、それを調べてるんだから当然でしょぉ? 集中の邪魔だから、あっちに行ってなさぁい」
「はーい」
シッシッとフレイを手で追い払いつつ、ムーナが目を閉じたまま顔をしかめて意識を集中させる。すると程なくして船の進路は再び直進となり、代わりに「何か」のある場所がゆっくりと遠ざかっていく。
「ロン、止まってぇ!」
「わかりました」
鋭いムーナの言葉に、ロンが船を止める。その後は細かく進路を変更しつつ検証を重ねることで、遂に「何か」があるらしい場所を突き止めることに成功した。
「ここよぉ! この正面に『何か』があるわぁ!」
「『あるわぁ!』って言われても……」
自信満々にムーナが言うが、魔導潜の中から見えるのは相変わらずの暗黒だけだ。外部照明で照らし出してもそこには何も映らない。
「ムーナが言うんだから何かあるのはそうなんだろうけど、結局ここには何があるわけ?」
「あくまで感覚的なものだけど、そうねぇ……柔らかくて薄い膜がまぁるく張られてるって感じかしらか?」
「膜?」
その手の結界と言えば、侵入を拒むガチガチの壁という印象が強いフレイが眉根を寄せて考える。その様子を見てムーナは鞄から小さな魔石を取り出すと、そっと指で摘まんでフレイに見せつけた。
「いーい? この魔石が魔導潜だとすると、膜はこんな感じよぉ」
言いながら、ムーナが自分の大きな胸に魔石を当てる。すると魔石が僅かに沈み込み、同時にフレイの額にピクリと血管が浮かぶ。
「この膜は柔らかいから、こうして船がぶつかっても衝撃を吸収してしまってぶつかったことに気づけないわぁ。しかも強引に進もうとしても、こうして弾力があるからぁ……」
船に見立てた魔石が、ムーナの胸をむにょんと歪ませながら外側へと逸れていく。同時にフレイの口元がいい具合に引きつるが、ムーナはそれを気にしない。
「ねぇ? こうやって方向を逸らされてしまうから、ぶつかったことにすら気づけないのよぉ。周囲に変化のある景色があれば別だけど、この暗闇じゃあ『何かある』って前提じゃなかったら、絶対気づけなかったわねぇ」
「……ヘー、ソウデスカ。スゴクワカリヤスカッタワ」
「それはよかったわぁ」
フフンと余裕の笑みを浮かべるムーナに恨みがましい視線を向けるフレイだったが、すぐに表情を引き締めて改めて船の先端の方に視線を向ける。
「で、どうするの? っていうか、どうすればいいの? 今の話だと、まっすぐ突っ込んで強引に突破っていうのも無理なのよね?」
「それが問題なのよねぇ」
フレイの言葉に、ムーナもまた真面目な顔になって悩む。柔らかくたわむ膜のような結界は、ともすれば強固な壁のような結界よりも遙かに突破が難しい。よほど狭い一点に集中した力で一気に貫かねば効果が見込めないからだ。
「膜の結界に対してほんの少しでも軸がずれると、あっという間に進む方向を逸らされてしまいます。ですが拙僧の腕ではそこまで繊細な操舵は難しく……」
「かといって、いくら私でも船の中から外に攻撃魔法なんて発動できないわぁ」
「うーん……………………」
二人の言葉に、フレイは必死に頭を捻る。それは勿論他の二人も同じで、三者三様にウンウンとうなり続け……
「ねえロン。魔導潜の進路が逸らされるのは、引っかかる場所が無いからよね?」
「そうですな。先端が椎の実のような形になっておりますので、滑りやすいのかも知れません」
「ムーナ。外に出るのは無理だけど、船の外と中で魔力っていうか、何かそういう感じのを繋ぐこと自体はできるの?」
「魔力回路を繋げるってことなら、できるわよぉ? あくまでも繋ぐだけならだけどぉ」
「よし! ならこういうのはどう?」
ニヤリと笑ったフレイの顔は、父親にそっくりであった。
その後一旦海面まで浮上すると、フレイ達は魔導潜に必要な改造を施し、再び海の底へと潜っていった。そうして件の膜の前まで辿り着くと、一旦船を止めて準備に入る。
「フレイ殿! 大丈夫ですか!」
『いつでもいーわよ!』
「まったく、本当に無茶苦茶なこと考えるわよねぇ」
かつて甲板だった場所、船首の辺りにいるフレイから魔法の伝声管による声が届き、その無茶苦茶加減にムーナは思わず苦笑する。
「まさか船の先端に聖剣を取り付けるとは……いやはや、やはり勇者殿のすることは豪快ですな」
「物は言い様ねぇ」
現在、魔導潜の先端には、フレイの持っていた聖剣が突貫工事で取り付けられている。当たり前だが内側から聖剣を突き刺したわけではなく、外側に船体修理用の資材や接着剤などでガチガチに固めている形だ。
そして壁を隔てた内側では、聖剣の柄の部分に向けてフレイが壁に手を添えている。壁の間にはムーナが施した即席の魔力回路が通してあり、これによって短時間ならば「フレイが聖剣を手に持っている」状況を再現することに成功していた。
『ふっふっふ、待ってなさいよ! えーっと……何か不思議な膜! 魔導潜、発進!』
「了解。推力上昇。前進を開始」
気合いが入るのか抜けるのか微妙なフレイのかけ声と共に、魔導潜が前進を始める。するとすぐに柔らかな膜に聖剣が突き立つのがムーナには視えた。だが……
「……駄目ねぇ。いい具合に刺さってるけど、破れないわぁ」
『なら、もっと強く刺せばいいのよ! ロン、魔力炉全開!』
「了解。出力を最大に!」
無音の暗闇に、炉心から漏れるフォォォンという微小な振動が響く。それはまるで魔導潜そのものが膜に抗い力を振り絞っているかのように聞こえる。
「っ……これでも駄目なの!?」
だが、膜は破れない。ムーナと違って視ることはできないが、聖剣を通した手応えがフレイにはしっかりと感じられている。柔らかな膜はこれでもかというほどに引き延ばされているが、それでも破るにはまだ力が足りない。
「ねえ、お願いよ……アタシは知りたいの。この世界のこと、もっともっと知りたい! 世界のことも、魔族の事も、これからどう進めばいいのかも!
知らないことばっかりで、知りたいことも山盛りで、進めば進むほど自分がどれだけ無知で無力なのかを思い知らされるけど……でも、だからアタシは進みたい!」
壁に添える手に、グッと力が入っていく。同時にフレイの体から魔力とも違う何かが流れ出て、それが聖剣へと注がれていく。
「お願い、教えて! 貴方の秘密、世界の秘密! 大丈夫! 今ならアタシ達だけだから、恥ずかしい日記とかあっても見なかったことにしてあげるから!」
フレイの左手に、勇者の紋章が蒼く輝く。かつて無いほどに眩い光を放つそこから、フレイの全身に蒼い閃光が走っていく。
「だからお願い、アタシ達を通して!」
だが、足りない。膜ははち切れる寸前だというのに、後一歩が届かない。
「むぅぅぅぅ……通せって、言ってんでしょうがぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
壁から手を離したフレイが、拳を握って思いきり船の壁を殴る。その力は聖剣の柄からしっかりと先端まで通り……そして次の瞬間。
「うっわぁ…………」
『これは……っ!?』
『へぇ…………』
膜が破れ、世界が変わる。暗闇だった世界に淡い光が宿り、魔導潜の照明に照らされるまでもなくぼんやりと浮かび上がるのは、静かにたゆたう巨大な建造物。
「遂に見つけたわよ…………あー、名前はわかんないけど、あのあれ!」
満面の笑みを浮かべるフレイの眼前では、海底基地シズンドルが静かに来訪者の訪れを待っていた。