父、光る
ニックの拳が、ダマーリンの分解魔法によってほどけていく。その様子を見ていたのは、実はニックだけではなかった。
(馬鹿な!? あの男の拳が打ち負けるだと!?)
ニックと心の奥底で深く繋がっているが故か、この加速された空間にオーゼンの精神もまた引きずり込まれていた。だがそれを疑問に思うより先に、オーゼンは目の前の光景に思わず魂で叫んでしまう。
(何か、何か我にできることは無いのか!?)
他の全てを置き去りにして、オーゼンはただそれだけを考える。幾千幾万もの案が瞬時にオーゼンの中をよぎり、だがその全てが他ならぬオーゼン自身によって却下されていく。
(……駄目だ。どうにもできん)
もし何らかの魔法を自力で発動できるなら、自分に内包された全ての魔力をぶつけただろう。もし自分の体が自由に動くならば、躊躇うこと無くニックの拳の前に己の身を晒すだろう。
ほんの少しでいい。何かきっかけさえ作れば、きっとこの男は……自分を相棒と呼ぶ筋肉親父ならば、絶望的な状況ですら軽くひっくり返すことができる。わずか一年と少しの付き合いであっても、この男であればその程度の理不尽は当たり前だとオーゼンは確信できる。
だが、その「ほんの少し」がない。人に使われる魔導具として創造されたオーゼンには、自分の意思で発現できる力などこれっぽっちもない。たとえ意識が、魂が宿ったとしても、その本質が変わることはないのだ。
(どうする? どうする!? どうする! どうにか、どうにかしなければ、この男が……ニックが……っ!)
瞬きを永遠と感じるほどの場所であっても、時間が進んでいないわけではない。オーゼンの目の前で、ニックの拳は刻一刻と光に変わって削られていく。
焦燥、不安、無力感。様々な思いがオーゼンの中を駆け巡り、混乱する思考がドンドンと白く染まっていく。
(わからぬ。わからぬ! 我はこれほどまでに役立たずの無能であったか!? 我は、貴様を……っ!?)
助けるはずのオーゼンが、助けを求めるようにニックの顔を見る。そこでオーゼンが目にしたのは……
(……笑っている?)
ニックの顔は、笑っていた。己の拳を削り、ひいては命すら消し飛ばさんとする脅威を前に、その顔は不敵な笑みを浮かべている。
(……ああ、そうか。我は何をしていたのであろうか)
その表情に、ニックと言う男の在り方に、オーゼンは思わず苦笑してしまう。自分のやっていたことが風邪で寝ている親を前に「このままじゃ死んじゃう!」と大げさに騒ぐ子供のように思えて、何とも気恥ずかしくすら思えてくる。
(我はただ、我であればよかったのだ。できもしないことに悩み、求められてもいない助けを考える必要などこれっぽっちもないのだ。
なあニックよ。貴様が助けを求めるならば、我は全力で応えよう。だがそうでないというのなら……)
――我は貴様を信じよう。さあ、ここからどんな逆転劇を見せてくれるのか? 楽しみにしているぞ、我が相棒よ――
(むっ……?)
今だ意識が通常の世界に戻らぬなか、どうにか勝利への道筋を探るニックの拳が、不意に柔らかな光に包まれた。それはほんの数日前にニックが初めて発動に成功した、ただ光を灯すだけの『明かり』の魔法。
勿論、そんな魔法に攻撃力や防御力などというものがあるはずもない。薄皮一枚程度の厚さしかないその光の膜は、ほんの一瞬で比較にもならないほど強力なダマーリンの分解魔法によって消し飛ばされる運命だ。
だが、今。たとえ刹那の間とはいえ、ニックの拳は光の魔法に覆われている。それはつまり、ニックの拳が無属性の魔力に覆われているということ。
物理で魔法は殴れない。だが魔法と魔法であればぶつけ合うことができる。このほのかな光が消え去るまでは、ニックの拳は魔法を殴り飛ばせる。
「オオオオォォォォォ!!!」
世界に時の流れが戻り、ニックの拳が振り切られる。そこから撃ち出された衝撃波は輝く拳の形を成し、黒き虚無の世界を真っ正面から撃ち貫くと、その向こうにいたダマーリンの杖を粉々に吹き飛ばした。
「……………………」
その事実に、ダマーリンは言葉を失う。もし彼がこの世で一番饒舌な存在であったとしても、今この瞬間だけはどんな言葉を紡ぐこともできなかっただろう。
「嘘、でしょ……!?」
「おぉう…………」
そしてそれは、他の二人の賢者にしても同じだった。魔術師として極めて高い位置にいるだけに、ダマーリンの放った魔法がどれほどのものかはよくわかっている。もし自分に向かってあの魔法が放たれたならば、一瞬たりとも抵抗できずに消し飛ばされるだろうと思えるほどの威力。
だが、それをニックはあろうことか殴って消し飛ばした。そのあり得ざる事実に、三賢者達は言葉を……現実を見失う。
「ふぅぅぅぅぅぅぅぅ……」
そんな無音の世界に、ニックの息を吐く音が響く。右の拳の指の背が魔法によって消し飛ばされ、筋肉がむき出しになった場所からはタラタラと血を流しているが、それもニックがギュッと拳を握ればすぐに止まってしまう。
『まったく。相変わらず貴様は非常識の固まりだな。光る拳が飛んでいくなど、一体どういう理屈なのだ?』
腰の鞄から聞こえた声に、ニックは答えることなくそっと手を添える。その質問に答えようがなかったというのもあるが、何よりいつも通りの調子で話しかけてきたオーゼンの言葉が、何故だかとても嬉しかったからだ。
「さあ、お主達の最強の一撃は殴り飛ばしたぞ! この上はどうするのだ? 偉大なる賢者達よ!」
「どうするって……ねえ?」
「だねぇ。これは流石に……」
ニヤリと笑いながら拳を構え直して言うニックに、ハリーとヨンダルフは互いに顔を見合わせる。その視線が中央にいるダマーリンの方に向かったが、彼は未だに茫然自失の様子で立ち尽くしていた。
「ねえ、ダマーリン? 驚いてるのはわかるけど、そろそろ正気に戻ってくれない?」
「……………………夢?」
「ふへへっ! まあそう言いたい気持ちはわかるけど。流石の私もこんなのを見せられたら変な笑い声しか出ないよ。ここまで荒唐無稽な話なんて本ですら読んだことないし」
「あれ、そうなの? 神話とかだと割と滅茶苦茶なこと書いてない?」
「キッター君、神話を現実と同等に語るのはどうなんだい? というか、神の所業とされるものを人の業と比べるのが烏滸がましいというか……まあ、うん。彼のやったことはそのくらい滅茶苦茶だったわけだけれど」
「貴様、人間か?」
「……不本意ながらその質問はたまにされるが、無論歴とした人間だ! これでも一児の父なのだぞ!」
ダマーリンの問いに口を尖らせてニックが答える。その言葉にヨンダルフが小さく笑いながらもその視線を外の方へと向けた。
「フフッ、子供がいるって、この強さを引き継いでいる奴がいるのか……あれから何年経ってるのかわからないけど、今の世界に凄く興味が湧いてきたよ。ああ、外に出て新しい本を読みたいなぁ」
「ははは、無茶言わないでよヨンダルフ。そもそももう……」
「時間切れだ」
軽口を叩き当たっていた三賢者の体から、淡い光の粒子がこぼれ始める。それと同時に三人の体が透けていき、確かにあったはずの存在感が急速に薄れていった。
「む? お主達、それは――」
「ああ、気にしないで。本来想定されてる以上の魔力を消費したから、もうこの体が維持できないってだけだから」
「安心したまえ。本気以上の私達相手にこれだけやったんだ。試練は無事に合格だよ。後はまた別の私達が続きを話してくれるはずさ」
「見事」
微笑みを、祝福を、賞賛を。それらを込めた言葉を残し、三賢者達が消えていく。
「うーん。これ、この状態ならちょっとくらい塔から出られないかな? 新しい本を一冊だけでも追加登録できたら……」
「無理だからやめなって! っていうか、それならあのおじさんに頼めばよかったのに」
「ああっ!? そうか! ちょっ、君! 塔を引き継いだら、本を……あーっ!」
「……無様」
『まったく、最後まで賑やかな者達だな』
「ははは、実に気持ちのいい者達であった」
必死に手を伸ばしているヨンダルフと、それを呆れた顔で見つめるダマーリンに、肩をすくめて微笑んでいるハリー。最後の最後まで楽しげにしながら消えた三賢者を、ニックもまた笑顔で見送るのだった。