父、優勝を逃す
「待て待て待て。何故儂がお主を指導せねばならんのだ?」
「は? 何を言ってるんだ。優れた筋肉を持つ者がそうではない者を導くのは当然の義務だろう? 安心しろ。今回の勝負はともかく実績としては俺の方が上だが、俺はそんなことを拘ったりしない。筋肉の前には人は平等だからな!」
「いや、そういうことではなくてだな」
「遠慮なんてする必要はないぞ! ああ、大丈夫。今後俺が勝利を重ねた暁には、ちゃんとお前から教えを受けたことは説明してやる! そうすれば筋肉界隈におけるお前の知名度も一気にあがるぞ? よかったなニック!」
「そんなものは欲しくないのだが……」
『ああ、やはりこの男はこういう男なのだな』
ゴリオシがゴリオシであったことに達観の言葉を漏らすオーゼンだったが、当事者になってしまったニックとしてはそれどころではない。やはり今回も何をどう説明しても「俺の筋肉を鍛えさせてやる。光栄に思え!」というところに帰結するゴリオシの会話にほとほと困り果てていると、不意に横にいたヤバスティーナが会話の中に入ってきた。
「あの、ニックさん? こうなったらゴリオシさんを指導してみてはどうでしょうか?」
「むぅ?」
「おお、ヤバスティーナ! やはりお前も筋肉を愛する者だったか!」
思いがけない援護射撃に喜びの声をあげるゴリオシだったが、ヤバスティーナはそちらに視線を向けることなく戸惑っているニックに向かって言葉を続ける。
「ゴリオシさんは誰よりも筋肉を愛している人ですから、筋肉を鍛え上げるためなら少しくらい無茶な課題だってきっと喜んでこなしてくれると思うんです」
「……おお、そういうことか」
ヤバスティーナの発言の意図を悟り、ニックはニヤリと笑みを浮かべる。そのままゴリオシに向き直ると、そのムキムキの肩にポンと手を置いた。
「よし、いいだろう。ならばお主にとっておきの課題を出してやる。だがその前に、ちょっと体に触れるぞ?」
そう一言断ってから、ニックはゴリオシの体を丹念に触れ回り、その筋肉の付き方を確認していく。そうして全てを調べ終えると、ニックはゴリオシに併せた鍛錬方法をその場で手取り足取り丁寧に指導した。
「お、おお、おおお……!? こ、これはキツいぞ!? 俺の筋肉が今までとは違う刺激に喜びの声をあげている……っ!」
「ははは、であろう? 魅せる筋肉を意識するのはいいのだが、更に上を目指すならそれだけでは駄目なのだ。きちんと土台となる筋肉を鍛えていなければ、その上に乗る筋肉が大きく育たなくなってしまう。
今教えた鍛錬を続ければ、それを無理なく鍛える事ができるだろう。もっとも既に完成の域にあるお主の筋肉が壁を破って上の世界を目指すとなれば、他人に関わっているような時間は無くなってしまうだろうが……」
「望むところだ! ああ、何て素晴らしい……っと、そういうわけだ。すまんが俺がお前を指導する暇はなくなってしまったようだ。心の底からガッカリしているだろうが、真に最高の筋肉を人々に見せつける為に今は我慢してくれ」
「あ、はい。私の方は全然いいんで、何て言うか……頑張ってください」
謝罪の言葉を口にするゴリオシに、ヤバスティーナは愛想笑いを浮かべながらそう答える。するとゴリオシは「フフフ、すぐに家に帰って目一杯可愛がってやるからな……」などと口走りながら舞台袖から走り去ってしまった。
「ふぅ、何とかなったか」
「ですね……あ、でも、ニックさんが教えたあれって……」
「ん? ああ、心配せずともちゃんとした鍛錬法だ。儂の見立てでは向こう一〇年は存分に鍛える事ができるだろう」
「一〇年!? なら当分は安心ですね。フフッ」
そんなニックの言葉に、ヤバスティーナはホッと胸を撫で下ろしてから悪戯っぽく笑う。一番の懸念が消えたことで残すは結果発表のみとなったわけだが……
「ふぅ。やっと帰ってこられたか。あれはなかなかに疲れたな」
「私、もう一生分笑った気がします……」
夜。やっとヤバスティーナの家に帰宅したニック達は、二人揃ってぐったりと椅子の背もたれにその身を預けてそう呟く。それというのも、コンテストの結果がもたらした影響があまりにも大きかったからだ。
ナイスマッチョコンテストの優勝は、なんとゴリオシだった。だが当のゴリオシはニックから教えられた鍛錬のためにとっくに帰宅してしまっており、優勝者が不在という前代未聞の状況での表彰式に関係者は皆苦笑いを浮かべるしかなかった。
もっとも、それですんだのはニックが優勝者の更に上、永世筋肉王という謎の地位に祭りあげられたからだ。ニックの偉業は自身の宣言通りマチョピチュの町に新たな歴史を刻み、その姿は「人が到達できる筋肉の頂点」として以後讃えられることとなった。
それがあったからこそ表彰式やその後の宴会が優勝者抜きでも盛り下がることがなかったのだが、ゴリオシがいないことで周囲の注目はニックに集中し、結果としてニックにはかなりの精神的疲労が蓄積していた。
「単純に褒められるくらいならどうとでもなるのだが、崇められるのはなぁ……」
憧れや尊敬の視線ならば正面から受け止められるが、崇め奉られるのはどうやっても居心地が悪い。それはかつてドワーフの集落にて全裸集団から崇められた時を思い出させ、ニックは最後まで愛想笑いを浮かべながら味のわからない料理を口に運ぶことしかできなかった。
「私もです。いきなりあんな人数の殿方から言い寄られるなんて……」
そして、ヤバスティーナもまた急激な環境の変化に戸惑っていた。やはり所詮は付け焼き刃ということで順位的には四位だったのだが、明るく前向きになったヤバスティーナの魅力に気づいた男達がここぞとばかりに声をかけてきたのだ。
「ははは、モテモテだったな」
「うぅぅ……」
ニックの言葉に、ヤバスティーナはうめき声で答える。全く嬉しくなかったかといえば、勿論そんなことはない。今まで見向きもされなかった自分が女性として認められたことは、ヤバスティーナにしても喜びだった。実際最初の一人二人くらいまでなら「私って実は結構モテる?」と内心はしゃいでいたくらいだ。
だが、それが五人一〇人と続けば話は別だ。よく知りもしない相手から「君の事を思うと僕の筋肉が真っ赤に火照ってしまうんだ」とか「今夜一緒に夜の筋トレをしませんか?」などと声をかけられ続ければ、あっという間に喜ぶ気持ちなど消えてしまう。
正直最後の方はボーッと空を見上げて聞き流していたため、明日町ですれ違ってもその人だと気づかない自信があるくらいにはヤバスティーナも疲れ切っていた。
「……そういえば、ニックさんってご結婚なされてたんですね」
と、色恋話の事を考えたことで、ヤバスティーナはニックがコンテストの最中に言っていたことを思い出した。それはできれば聞きたくない、だが聞かなければいけないことだ。
「ニックさんの奥さんって、どんな人なんですか?」
「どんな、か……」
ヤバスティーナの質問に、ニックはスッと目を細める。
「妻……マインはいつも明るく元気で、言いたいことをはっきりと言うような性格だったな。男勝りで負けん気の強い性格は苦手な者もいたようだが、皆を引っ張って行く様はまさに日の出の太陽のようであった」
「あれ? その言い方だと、奥さんは……」
「妻は娘を産んですぐに、な」
「ご、ごめんなさい! 私そんな! そんなつもりは無くて……!」
寂しげに笑うニックに、ヤバスティーナは慌ててそう口にする。強い自責と後悔の念が湧き上がってくるが、それでも口にしてしまった言葉を消すことはできない。
「いいのだ。もう随分と昔の話だからな。確かに妻を亡くしたことは悲しいが、儂はちゃんとその悲しみと共に前に進んでおる。立ち止まったりしてはマインに怒られてしまうからな」
「ニックさん…………本当にごめんなさい。あの、私ちょっと疲れちゃったんで、今日はもう寝ますね」
「む、そうか。儂もすぐに寝るからこちらは気にせんでくれ。おやすみ、ヤバスティーナ」
「おやすみなさい、ニックさん」
いつも通りの笑みを浮かべるニックに挨拶をすると、ヤバスティーナは逃げるように自分の寝室へと戻り、頭までベッドに潜り込んだ。