父、讃えられる
ニックが舞台へとあがると、それを出迎えたのは観客達の歓声……ではなく、奇妙な沈黙であった。その原因は当然ながら、ニックの股間に装着されている黄金の獅子頭である。
「あの、ニックさん? 股間のそれは一体? このコンテストでは余計な装飾品などを身につけるのは原則禁止なんですが……」
「ぬ? ああ、これはその……あれだ。このくらいのものでないと、色々とはみ出してしまうのだ。一応係の者に話して許可はとったのだが」
「……あー、それは仕方ないですね」
ニックの言葉に、司会の男が曖昧な笑みをかみ殺すようななんとも言えない表情で答える。会場の反応も概ね同じであり、少なくともそれを批判する声は何処からもあがらない。この町の人々が好きなのはあくまでも筋肉であって、中年親父の股間を見たがるような物好きは……少なくともそれをこんな場所で声高に叫ぶような奴は……いないからである。
「っと、すみません。あまりにもそれの印象が強すぎて聞かずにはいられませんでした。では改めまして、冒険者のニックさんです! どうぞ!」
「うむ!」
司会の男に頷いて答えると、ニックは改めて会場の方に顔を向ける。多数から注目されるのは慣れない者にとってはそれだけで重圧であるが、元々勇者パーティとして人の目に触れることに慣れているニックからすれば、この程度はどうということもない。
「と言うことでご紹介にあずかったニックという旅の者なのだが……正直儂の方から話すようなことは何も無いな。逆に何か儂に聞きたいことでもあれば、可能であれば答えるぞ?」
「はーい!」
そんなニックの呼びかけに、会場から元気のいい声と共に手が上がった。そんなノリのいい観客をニックは楽しげに指名する。
「おお、元気がいいな。ではお主、何だ?」
「凄い筋肉ですけど、どのくらい鍛えてるんですか?」
「どのくらい……期間で言うなら、二〇年ほどだろうか? 元々木こりをやっていた関係でそれなりに筋肉はあったのだが、守りたいもののために強くなる必要があったのだ。鍛え方としては、基本的には実戦の中で、だな。訓練もしなかったわけではないが、やはり筋肉は使って鍛えるのが儂流だ」
そう言ってからムンッと腕を曲げて力こぶを作ってみせると、会場には追加で手が上がり始め、ニックはそれに次々と答えていく。
「冒険者ってことは、二週間後の武闘大会にも出るんですか?」
「そっちは検討中だな。興が乗れば出るかも知れん、くらいに言っておこう」
「恋人はいるんですか?」
「ははは、妻と娘がいるぞ……ん?」
「どのくらいの重さが持てますか?」
「どのくらい……? すまぬ、持てない物が思い当たらん……っと、このくらいか」
途中恋人のくだりで舞台袖から大きな音が聞こえた気がしたが、とりあえずは気にすること無くニックはそこで質問を打ち切った。
「では、そろそろ儂の筋肉を見てもらうとしよう……」
ニックの両手が天を向き、その全身に力が籠もる。それは磨き上げた彫像のような美しさではあったが、会場の反応は今一つ。が、それはニックにしても想定済みだ。
「ふぅぅぅぅぅぅぅぅ……………………」
全身に漲らせていた力を、ニックはゆっくりと緩めていく。そうすることでニックの肉体を無敵たらしめている極限まで締め上げられた筋肉が少しずつほぐれていき……
「えっ!? 何だそりゃ!?」
「こんなことが!? これは本当に現実か!?」
「筋肉が……蠢いている……!?」
目に見える速度でニックの筋肉がピクピクと痙攣し、まるでカラッポの革袋に水が満ちるように丸々と膨らんでいく。その人体にはあり得ない光景に全員が言葉を失ってなお、ニックの筋肉の膨張は止まらない。
「すぅぅ……こぉぉぉぉぉぉぉぉ…………」
格闘家として極限の域にあるニックの筋肉は、常人を遙かに超える密度で常に締め上げられている。その硬く強靱な筋肉こそがニックを無敵たらしめる原因であるが、それではこの勝負には勝てない。硬いだけの筋肉ではどうしても「美しさ」という点では競えないことを、この町に来た時に見た者達やゴリオシの反応などでニックはきっちりと理解していた。
ならばどうするか? その答えがこの「力を抜いて筋肉を緩める」というものだ。力を抜けば、当然筋肉は元の弾力を取り戻し膨らむ。といっても普通の人間であれば、それが皮膚を盛り上げるほどの力で膨張する事などあり得ない。実際普段のニックであれば、精々カチカチがプニプニになる程度だ。
だが、今は違う。極限まで弛緩させた筋肉は元の緩さを取り戻し、その体積は倍ほどに膨らむ。そしてニックの筋肉密度は常人の比ではないため、その膨張率もまた圧倒的だ。
ただ、全ての筋肉を緩めればいいというわけではない。絞めるところを絞め膨らます所を膨らませる。全身の筋肉に込める力を繊細に制御し、いつもの引き締まった肉体からムキムキに、更にそれを乗り越えムッキムッキへとニックの筋肉が進化していき……そして遂に、その筋肉は伝説に至る。
バチーン!
脅威的な伸縮率を誇るラバーフロッグの皮が、ニックの筋肉の膨張に耐えきれず激しい音を立てて千切れ飛んだ。白日の下に晒された究極の肉体は日の光を浴びてビクンビクンと喜びに震え、唯一その身に宿した黄金の獅子頭は新たな時代の到来を祝福するかのように静謐な雰囲気を醸し出している。
「筋肉だ…………」
まるで神に祈るように、ふと誰かがそう呟いた。するとそれを皮切りにニックの筋肉に圧倒されていた観客達が口々に声をあげはじめる。
「人が筋肉を纏っているんじゃない。あれは筋肉が人の形をしているんだ!」
「何というでかさ! バリキレでムッキムッキ、あれぞまさに筋肉の化身!」
「王だ! この人こそ筋肉の王、キング・ニックだ!」
「「「キング・ニック! キング・ニック! キンッ! ニック! 筋肉!」」」
体が動かしづらいほどにムッキムッキとなったニックに、会場中から声援が送られる。それに応えるようにゆっくりといくつかのポーズを決めると、ニックは再び全身に力を入れて元のスリムなマッスルボディへと戻った。
「ふぅ。では、これにて儂の演目は終了だ」
「素晴らしい筋肉をありがとうございました! 皆様、偉大なる筋肉の使徒であるキング・ニック様にもう一度感謝と敬意を捧げましょう!」
「最高だキングー!」
「いい筋肉をありがとうー!」
「抱きしめて! キング・ニック!」
「はっはっは。ではな!」
狂信的とすら言える歓声を背に受けながら、ニックは舞台を後にしていく。そうして舞台袖に戻ったニックに駆け寄ってきたのは、一部始終を見ていたヤバスティーナだ。
「ニックさん!」
「おお、ヤバスティーナ。どうだ? 儂の筋肉は?」
「ええ、凄かったです、色々と……あれが秘密の特訓の成果だったんですね」
「ああ、そうだ。どうやら上手くいったようだな」
頬を染めチラチラとニックを見ながら言うヤバスティーナに、ニックは満足げにそう言って頷く。
毎日ヤバスティーナとの鍛錬が終わると、ニックはずっと全身の筋肉を繊細に操る鍛錬に明け暮れていた。いつもやっているような力加減とは全く違うこの技能の習得にはニックであってもかなりの苦労が伴ったが、毎日必死に鍛錬を頑張っているヤバスティーナの姿を見れば、ニックのやる気が爆発するのも当然だった。
「それにしても、一体どうやったらあんなことができるんですか? 筋肉がこう……ボンッ! って感じで膨らんでましたけど」
「ふふふ、あれにはコツがあるのだ。まあ誰にでもできることではないのは確かだが――」
「ニック!」
そんな二人の会話に割り込んでくる声がある。ニックがそちらに顔を向ければ、そこには何故か満面の笑みを讃えたゴリオシの姿があった。
「おお、ゴリオシか。儂の筋肉はどうであった?」
「ガッハッハ。やられたやられた。確かに俺の完敗だ。お前の筋肉は本当に見事だったよ」
「ほぅ、そうか」
てっきりもっと悔しがられたり、可能性としては低いが難癖をつけてくることすら想定していただけに、ゴリオシのあまりに素直な物言いにニックは勿論ヤバスティーナすら驚きの表情を浮かべる。だがそんなことは一切気にせずゴリオシは上機嫌で言葉を続けていく。
「約束通りヤバスティーナはお前に任せよう。そして……喜べ! 何とこの俺もお前の指導を受けてやるぞ!」
「……なぬ?」
完全に予想外の提案に、ニックは思わず間抜けな声をあげてしまった。