父、指導する
「さて、では特訓を始めるわけだが……最初はお主がいつもしている鍛錬を見せてくれるか? それがわからんと指導のしようがないからな」
「はい! 宜しくお願いします、ニックさん!」
ゴリオシとの一件の後、流石に町を観光する気分でもなくなった二人はヤバスティーナの出場手続きだけを手早く済ませると、早速家に帰って特訓を始めることにした。汗をかいてもいい服に着替えたヤバスティーナが、腕立てや腹筋などのごく基本的な筋トレをニックに見守られながらしばし黙々とこなしていく。
「ふぅ、はぁ……お、終わりました……ど、どうでしょう?」
そうして一時間ほどかけて一通りの鍛錬を終えると、ヤバスティーナが激しく肩で息をしながら問う。ちなみに今回はニックが見ていたということもあり、普段の三割増しくらいまで回数を増やしている。
「そうだな。それが普段の鍛錬だというのであれば、特に儂が言うことはないな。きちんと自分の限界までやっているようだし、そういう基礎的な鍛え方に関しては小手先の技術など存在せんからな」
「そ、そうですか。よかったです…………はぁ」
まさか普段は今よりずっと手を抜いてますとは言えず、ヤバスティーナはこっそりとため息をつく。そこにはこれからしばらくは今日と同じだけ筋トレをしなければならないのだという憂鬱も含まれていたが、大事に大事に部屋に飾った帽子のことを思い出せばそんな気分もすぐに吹き飛んでいく。
(そうだ。これは私が始めた勝負! そのためにニックさんも協力してくれてるんだから、頑張らなくちゃ!)
「それでニックさん、私はこれからどうすればいいんでしょうか? 今ならもう何だって頑張っちゃいますよ!」
「おお、随分とやる気だな! とはいえ、ゴリオシの言った通り二週間という短期間で筋肉そのものを作り上げるのは相当に難しい。なのでそれはそれとして、儂としてはもっと別の手段を考えているのだ」
「別の手段ですか? えっと、一体どんな?」
「ふふふ、まずは……こうだ!」
「ひゃっ!?」
不意にニックの手が、ヤバスティーナの背中とお腹に添えられる。肌こそ晒していないが運動用の薄手の服越しにニックの手の感触がしっかりと伝わってきて、ヤバスティーナの頭が激しく混乱する。
「に、ニックさん!? 何を!?」
「ふむ、ここはもっとこう。そしてこっちは……このくらいか?」
「んあっ!? あの、ニックさん!?」
「ほれ、お主ももっと意識せんか!」
「い、意識!? 意識って何を!?」
「それは勿論、姿勢だ!」
「…………姿勢?」
ニックの太い指の絶妙な力加減に身もだえていたヤバスティーナの思考が、そこでやっと正常なところに戻ってくる。言われてみればニックの手つきは自分の体を支えるような動きしかしていない。
「そうだ。おそらく普段の生活に不便だからであろうが、お主はどうも姿勢が悪いようだったからな。だが人前に出るのであれば姿勢のよさは必須だ。背筋を伸ばし胸を張るだけでも印象は随分と違うからな」
「そう、ですか……」
ヤバスティーナは自分の大きな体が好きではなかった。だからこそ無意識に小さくなろうと背を丸めがちだったのだが、今それをニックに指摘され、一時的にとはいえヤバスティーナの背がピンと伸びる。
「うわ、何だろう。ちょっと不思議な感じ……」
「うむ、いいぞ。そうやって頭から踵までを一直線に伸ばすのだ。こう……骨で体を支える感じか? 足の骨の上に腰骨が乗り、そこにまっすぐな背骨が乗って、更に首、頭といった具合に、ひとつひとつ重さのかかる感じを丁寧に覚えていくといい」
「わかりました。やってみます」
ニックの言葉を実戦するべく、ヤバスティーナは体をまっすぐに伸ばしていく。だが意識してしまうと体がぐらついてしまい、その度にニックが手で支えてくれる。
「な、何で!? ただまっすぐ立つだけなのに、何か難しい?」
「ははは、まあ初めのうちはそんなものだ。だが慣れてくればどんなに足場の悪い場所でも直立できるようになるし、更に進めば激しく揺れる地面の上を高速で走ることすらできるようになる。
流石に二週間でそこまでは無理だが、とりあえず立って歩くだけならば十分だろう。これからはできるだけ姿勢を意識して生活してみるのだ」
「はい!」
いつもよりほんの少し高くなった視線に、ヤバスティーナは笑顔で返事をする。胸を張って前を見るというただそれだけの事なのに、何だか吸い込む空気まで美味しくなったような気がした。
「うむ。では今日はこれだけだ」
「えっ!? もう終わりですか?」
「無理をするのはよくないからな。今回のように準備期間が短いと覚えきれないほどの知識を詰め込もうとしたり、あるいは過剰なほどに筋肉に負荷をかけようとしたりするものだが、あれは駄目だ。その場しのぎとしての有効性は否定せんがな」
「あの、ニックさん? 自分で言うのも何なんですけど、今回はまさにその『その場しのぎ』が必要なんじゃ……?」
不審というよりは不安な表情で問うヤバスティーナに、ニックは意味深に眉根を寄せてみせる。
「ふむ。確かにそれは正しい。単に二週間後のコンテストを乗り切るだけであれば、もっとギッチリと詰めた鍛錬を行うのがいいのだろう。
だが、儂はそれをしたくない。それではお主を歪めてしまうことになるからな」
「歪む? 私がですか?」
「そうだ。お主ゴリオシほどに筋肉を鍛えることに傾倒してはおらずとも、体を動かすことそのものは決して嫌いではないのだろう? でなければあれほど離れた場所に肉草などというものを一人で採りに行ったりはしないはずだ」
「ア、ハイ。ソウデスネ」
あの時あの場にヤバスティーナがいたのは、ヤバスチャンの指示でニックに出会うためだ。なのでその指摘は実は違うのだが、体を動かすことそのものは決して嫌いではないというのもまた間違いではないので、ヤバスティーナは素知らぬ顔で質問を流す。
「うむん? ……まあいいか。とにかく、体を動かす、体を鍛えるというのは本来楽しいことのはずなのだ。だが無理矢理にそれを行えば、単なる苦痛の思い出でしかなくなってしまう。
そして、人はどうしても楽しいことよりも辛いこと、苦しいことの方が思い出しやすいものだ。一度辛い思い出ができてしまうと、今まで楽しいと思っていたことすら嫌になってしまうこともある。儂はそれを避けたいのだ。
なあ、ヤバスティーナ。ひょっとしたらお主はその大きな体をあまり好いてはいないのかも知れんし、それは儂にはどうにもできん。だがその体で思いきり動く楽しさは捨てて欲しくないのだ。
好きも嫌いも見方一つだ。そして自分を好きだと言えることは、ただそれだけで幸せなことなのだからな」
「ニックさん……」
飾らないニックのまっすぐな言葉が、ヤバスティーナの胸にじんわりと染みこんでいく。
(そうだ。確かに私はこの大きな体が好きじゃなかった。でもこの体で外を走り回ったりするのは好きだった。好きだったはずなのに……)
「……何で忘れてたんだろう。馬鹿だなぁ、私」
子供の頃の思い出は、決して嫌なものばかりではなかった。大きく頑丈な体を頼りにされるのは女の子としては微妙だったが、それでも「スゲー!」と感心されたことだってあるし、誰よりも速く走って一番甘い木の実を手に入れることも、深いところに生えている芋を引き抜くことだってできた。
ニックの言う通り、悪い思い出に埋もれていただけで、自分にはちゃんと幸せな子供時代があったのだ。泣いてばかりなんかじゃない、むしろ笑っていることの方が多かった子供時代が。
「ありがとうございます、ニックさん。貴方に会えて本当によかったです!」
まだ勝負が始まってすらいない段階での、あまりにも早すぎる感謝。それでもその心のこもった言葉に、ニックは満面の笑みで応えるのだった。