吸血娘、悩む
そして、その日の夜。張り切って買い物と料理をした結果、数時間前にガッツリ食べたばかりにもかかわらず大量に作ってしまった料理を事もなさげにニックがペロリと平らげてくれ、またも「美味しかった」と笑顔で言われたヤバスティーナは夜のベッドで一人悶々と過ごしていた。
「うぅぅ、眠れない……」
もう何度目かもわからない寝返りをうちつつ、ヤバスティーナは小さく呟く。ヤバスチャンの眷属のうち、完全な日光耐性を持つ者は人の世界に紛れ込んで情報収集を行うため、昼に起きて夜に寝るという昼夜逆転の生活を送ることになっている。
そしてそれはこの町に配属されているヤバスティーナも同じであり……彼女の場合は日光が弱点として発現しないほどに吸血鬼としての血の力が弱いのだが……夜はしっかり寝なければ体に悪い。
だと言うのに、今夜はどうしても眠れない。その原因は、当然ながらニックの存在だ。
「うぅぅ、殿方が……ニックさんがすぐ隣で寝ているなんて……」
実際にニックが寝ているのは隣の部屋であり、壁もあれば扉も閉まっているのだから、実質的には宿の隣部屋に誰か泊まっているのと変わらない。が、そんな現実が頭から飛んでしまうほどに今のヤバスティーナは緊張している。
「だって、お嬢さんって! 私の事、可愛いお嬢さんなんて……あぅ」
ニックの言葉を思い出し、ヤバスティーナがベッドの中でもぞもぞともだえる。鬼人族である父の血を色濃く引いてしまったヤバスティーナは、子供の頃から筋肉質の巨体の持ち主であった。そのため周囲からは「強くて大きい存在」として扱われてきたため、必然「女の子」として見られた経験がほぼ無い。
それは「どんな町にも一人は駐留させる」というヤバスチャンの方針と自分の体格がピッタリだという理由でこのマチョピチュにやってきてからも同じで、ヤバスティーナの見事な肉体を褒める言葉こそよく聞いたが、ヤバスティーナを女性として褒める者にはついぞ出会ってこなかった。
そんな何の免疫も無い状態で突然にニックに褒められてしまえば、ヤバスティーナの内に密かに眠っていた乙女心がここぞとばかりに爆発するのはむしろ当然のことだろう。
「駄目、駄目よヤバスティーナ。これはヤバスチャン様からいただいた大事な任務。ニックさんをできるだけこの町に引き留めることこそ私の役目なんだから! これは仕事、これは仕事、これは仕事…………」
ブツブツと呪文のように繰り返し呟くことで、ヤバスティーナのなかに少しずつ理性が戻ってくる。だがその思考が「仕事というなら、もっとしっかり足止めするにはどうすればいいだろうか?」というところまで及んだ時、ヤバスティーナの脳内に閃光が走る。
「夜這い……っ!?」
古今東西、女が男を繋ぎ止めるのに体を使うのが有効なのは歴史が証明した間違いのない事実だ。ニックが男である以上、それは間違いのない手段に思える。だが……
「…………私なんか、抱いてくれるのかな?」
今年で二三になっただけあって、ヤバスティーナも恋の一つや二つは経験している。だが自分が思いを告白すると、相手の男はよくて苦笑い、酷い時には「お前みたいなでかい女、好きになるわけないだろ!」と罵倒されることすらあった。
「こんな筋肉ムキムキのデカ女、ニックさんも嫌かな……?」
そっと自分の肩に手を回すと、そこには立派な三角筋が盛り上がっている。華奢とは無縁な鬼人族の肉体は、小さくて柔らかい基人族の女性とは対極にある存在だ。
「でも、ニックさんならもしかして……?」
自分の事を可愛らしいお嬢さんだと言うニックの言葉に、社交辞令のようなものは感じなかった。であればニックの目には自分の姿はきちんと魅力的に映っていたのではないか? ヤバスティーナの想像が、段々と妄想へと変わっていく。
(そう、私より大きな体のニックさんなら、私の全身を抱きしめてくれるはず。夢だったお姫様抱っこだってニックさんの腕力なら余裕のはずだし、あの素敵な声と笑顔で「可愛いよ」なんて耳元で囁かれたら……っ!)
「…………ごくっ」
自分のつばを飲む音で、ヤバスティーナの意識が現実へと戻ってくる。そのままガバッとベッドから飛び起きると、こんな時の為にと吸血鬼である母がとっておきの魅了の力を付与してくれた桃色の薄衣をタンスの奥から引っ張り出していそいそと着替えていく。そうして準備を整えたヤバスティーナは静かに部屋を出ると、ニックの寝ている部屋の前までやってきて大きく深呼吸をした。
「すぅぅ……はぁぁ……」
ドキドキと張り裂けそうな胸に手を当て、ヤバスティーナは母の教えを思い出す。
『いいですかヤバスティーナ。私が言うのも何ですが、鬼人族の集落にでも出向かない限り、貴方に性的な魅力を感じる殿方はいないでしょう。
ですが大丈夫です。母の送ったその薄衣を身につければ、大抵の男は理性を失いケダモノと成り果てます。後は貴方の自慢の筋肉で組み伏せてやれば、既成事実はバッチリです。その後はうまくおやりなさい……さい……さい……』
「お母さん。今夜遂に、私は大人になります……っ!」
何故か残響音混じりな母の言葉に背中を押され、ヤバスティーナの手がゆっくりとニックの部屋の扉へと伸びる。だが、その指先が扉に触れるまさにその時。
「……………………」
事ここに来て浮かんだのは、やはりニックの笑顔。誰かに強制されたわけでも、ましてや魅了の力で歪められたわけでもない、純粋な喜びの顔。
(この扉を開けたら、あの顔も変わっちゃうのかな……?)
純粋な吸血鬼である母の魅了の力は極めて強大なものだ。そんなものに影響されれば、ニックにまともな思考など残らないだろう。そんな状態でずっと年下のヤバスティーナを抱いたニックが、果たしてその後もあんな笑顔を自分に向けてくれるだろうか? ふと浮かんだその考えに、ヤバスティーナの手がゆっくりと下がっていく。
「それは……嫌だな……」
嬉しかった。自分の作った料理を美味しいと言って食べてくれたことも、可愛いと褒めてくれたことも、何もかもがヤバスティーナにとって宝物のように思える出来事だった。
なのに、それをこんな方法で無くしてしまうのはあまりにも寂しすぎる。そう思い至ったヤバスティーナの内側では燃えるような情念が静かに消えていき、代わりにポカポカと暖かい優しい火が小さく灯る。
「……ごめんなさいヤバスチャン様。私もっと一杯料理とか頑張って、ニックさんにここに滞在してもらえるよう精一杯努力します。だからこれは……お許しください」
その場にいない主に心からの謝罪をすると、ヤバスティーナはそっとニックの部屋の前から離れていく。振り返ることなく自分の部屋の前まで戻ると、その唇が小さく動く。
「ニックさんも、ごめんなさい。明日も美味しいお料理を沢山作りますから、それで許してください。それじゃ、おやすみなさい」
聞き手のいない謝罪を述べて、ヤバスティーナは着替えもそこそこにベッドへと潜り込んだ。そうして目を閉じると、今度はスッと眠りへと沈んでいく。
そしてそんなヤバスティーナの動きを全て察知していたニックの方は――
(何か悩みでもあるのであろうか? 話してくれれば相談にも乗れるが……ふむ)
壁の向こうの気配が落ち着いたのを確認してから、何か自分にできることはないだろうかと考えるのだった。