父、猿の王を下す
それは文字通り、雷光の如き一撃だった。桃色の残像を世界に置き去りにした一撃が轟音と共にニックの巨体に炸裂し――だが猿の王の表情は優れない。
「キキィ……」
瞬きの間に獲物を刺し貫くはずだった爪は、ニックの腕にガッチリと防がれている。血の一滴すら流していない敵の顔に浮かんでいるのは猿王が期待した驚愕や絶望ではなく、不敵な笑み。
「ふっふっふ、なかなか骨のある一撃ではないか。これならば少しは楽しめそうだ」
「キッキキィー!」
けたたましい叫び声をあげて、猿の王たるファンキー・パンキーモンキーの体がニックの眼前から掻き消える。それとほぼ同時に周囲の木々がグワングワンとしなり始め、その間を桃色の影が跳び回る。
「キッ、キッ、キッ……「「「キィィー!」」」
本来ならば自分の居場所を知らせてしまうような鳴き声。だがその瞬間に周囲八方向から同じ鳴き声が聞こえ、かつ八つの塊が飛びだしてくれば話は別だ。本命を見逃せば必死、仮に上手く捌けても七体のパンキーモンキーの爪がニックを貫くことになる。並の鉄級冒険者では反応すらできず、熟練の銀級冒険者ですらとても無傷では突破できない攻撃を受け……筋肉親父はニヤリと笑う。
「速さでかき回し、音で惑わし、その全てをフェイントとして本命の一撃に繋げる……いい技だ。だが悲しいかな威力が低すぎる」
「キッ!? キキキ、キキィィィィィィィ!!!」
通常のパンキーモンキー達の攻撃を、ニックは防がなかった。如何に優秀な王の存在で強化されたとはいえ、元々が鉄級程度の魔物ではニックの筋肉どころかメーショウの鍛えた鎧に傷をつけることすら敵わない。
そして、唯一鎧だけなら貫けそうな一撃を放ったファンキー・パンキーモンキーの攻撃も、ニックがその手で受け止めている。伸ばした爪を指の股でガッシリと押さえ込まれ、ファンキー・パンキーモンキーがどれだけもがいてもそれが外れることはない。
「キッ、キキキキキ……キキィィィ!」
「おっと」
だが、それでも猿の王はニックの拘束から脱出した。自分の爪を無理矢理に剥がしたことでその手からは血が滴り、ニックを見つめる目はこれ以上無い程の殺意に満ち満ちている。
「魔物ながらになかなかの根性だ。だがどうする? 正面からでも不意打ちでも、お主の爪は通じぬぞ?」
「キィ、キィ、キキキィィ!!!」
「「「キー!!!」」」
余裕を見せるニックに苛立つ猿の王だったが、不意にその顔が嫌らしく歪むとひときわ大きな叫び声をあげる。すると今まで静観していた通常のパンキーモンキー達が一斉に木から飛びだし襲ってくるも、その狙いはニックではなく背後ににて成り行きを見守っていたチェーン達。
「ぬっ、そちらを狙うか! ならば――」
「馬鹿! 戦闘中に振り返るんじゃないわよ!」
すぐに助けに入ろうとしたニックだったが、その背にチェーンの怒鳴り声が響く。
「こっちは平気よ! 通常の雑魚魔物くらい、アタシ達ならどうってことないわ!」
「こちらはご心配なく! 私もお嬢様もこの程度の輩に遅れは取りませんぞ!」
「……いいのか?」
「あったり前でしょ! このアタシが! チェーン・メイルがオッサンなんかの足手纏いになるわけないじゃない! オイシイところは譲ってやるから、オッサンはさっさとそいつを倒しなさいよね!」
「ニック様、ご武運を!」
言葉と共に聞こえてくるのは、固い物がぶつかり合う激しい戦闘音。その覚悟と矜持に感じ入り、ニックは振り返るのをやめて微笑みながら猿の王に拳を向ける。勿論背後の戦闘にも意識を残し、危機に陥れば即座に助けに入るつもりではいたが、誇り高き紅の令嬢とその執事の実力はそんなものは必要ないとばかりに苛烈に、華麗に立ち回っているのが感じられた。
「どうやら儂の連れは、儂が思っていたよりもずっと強いらしい。当てが外れたな、猿の王よ」
「キキーィ! キキーィ!」
悔しげに地団駄を踏むファンキー・パンキーモンキーの姿には、最初に出会った時の余裕は欠片も残っていない。地に引きずり下ろされ、必殺のはずの一撃を防がれ、ならばと仲間を襲って動揺を誘うことすら失敗した猿の王は、焦りのままにニックに向かって腕を振るう。
「よっ、ほっ! うむ、悪くはないぞ?」
だが、ニックには当たらない。風を切り裂く爪も岩を砕く拳も、この場で誰よりも大きなニックの体にかすりもしない。魔物としての本能をむき出しにした連撃は少しずつその鋭さを失っていき、ほどなくして猿の王はその長い両腕をだらりと下に垂れ下がらせてしまった。
「キーィ、キーィ……」
「ふむ、それまでか。人であればよく頑張ったと褒めてやりたいところだが……生憎と出会い頭に襲ってくるような魔物にくれてやれるのは、これだけだ」
握った拳を後ろに引き、ニックが初めて攻撃を繰り出す。今この瞬間までここで行われていた戦闘は全て児戯だとあざ笑うかのような一撃に、猿の王は諦めたように目を閉じて――
「キィィィィィィィィ!!!」
大きく開いた口がニックの拳に噛みつき、一瞬にして見開かれた目は最後の瞬間までニックを睨み付ける。
「……見事」
潔さなど微塵も無い、最後まで生にしがみつくその生き様を感じながら、ニックの拳はファンキー・パンキーモンキーの頭を打ち抜き、上半身を吹き飛ばした。ドサリと倒れる王の姿に、それまで連携してチェーン達を攻撃していた普通のパンキーモンキー達が一斉に鳴き声をあげながら逃げ出していく。
「……どうやら終わったみたいね」
「うむ。そちらは大事ないか?」
「何? このアタシに同じ台詞をもう一度言わせたいわけ?」
振り向いたニックの視線の先には、ドヤ顔で腰に手を当てるチェーンの姿がある。どういう理屈か服が完全に無傷なのに対し顔や手などの露出している部分には幾つも切り傷を負っていたが、それ以上に大きな傷を負っている様子はない。
「チェーン、お主回復薬は持っていないのか?」
「へ? 持ってるけど、この程度の傷には使わないわよ? あれ割と高いんだし」
「ならこれを使うといい。ほれ」
そう言ってニックは魔法の鞄から適当な回復薬を取り出して放り投げた。宙を舞う瓶を危なげなくキャッチしたチェーンだったが、手の中のそれを見て思いきり訝しげな視線をニックへと向ける。
「ちょっと、これ普通に銀貨で取引するような奴よ?」
「あー、そうか? とはいえ手持ちでそれ以上安い回復薬は持っていなくてな」
「……お金、払わないわよ?」
「そんなものいらん! 娘と同じくらいの年頃の女の顔に傷がついているのが嫌なだけだ。儂の我が儘なのだから、遠慮無く使うがいい」
「むー……まあいいわ、乗せられてあげる。クローニン!」
「畏まりました。では、失礼します」
釈然としない表情をしつつも、チェーンはクローニンに回復薬を渡す。するとクローニンは自らの手のひらに回復薬をあけ、指ですくうと丁寧にチェーンの顔にできた傷口に塗っていく。元々放っておいても消えるであろう程度の傷だっただけに、あっという間にチェーンの顔の傷は跡形も無く消え去ってしまった。
「終わりました、お嬢様」
「ありがとうクローニン。どう、オジサマ? アタシ綺麗かしら?」
「うむ、元の別嬪に戻ったぞ」
「そ、そう。ありがとう……」
真っ正面から笑顔で褒められ、チェーンが顔を背けて口ごもる。そんな姿をニコニコと見つめていたクローニンだったが、程なくして辺りに散らばったパンキーモンキーの死体から収集部位である尻尾を切り取って集め始めた。
「おお、すまんなクローニン殿。儂も手伝おう」
「いえいえ、ニック様のご活躍があってこその今の私とお嬢様ですので、ニック様はどうぞゆっくりとお休み下さい」
「そうよ、休んどきなさいオッサン。まだ集めなきゃいけない素材もあるんだし、それだけ強いってわかったらガンガン働いてもらうんだから!」
「ははは、いいとも! まだまだ余力は十分だ!」
ニヤリと笑って力こぶを作ってみせるニックに、チェーンは思わず呆れ顔で苦笑しながらその場に腰を下ろして休憩をとるのだった。