眼鏡嬢、失敗する
「……………………」
長く静かな夜が明け、翌朝。普通に起きるにはかなり早めの時間帯に、メーガネットは予定通りきっちりと眠りから目覚めた。横になりながらも開いた目には未だ暖かな光を生み続けているたき火と、その向こうには大きな男性の背中が見える。
(きちんと一晩火を絶やさなかったようですね)
野性の獣はともかく、ほとんどの魔物は火を必要以上に恐れたりしない。なのでたき火には魔物よけの意味はなく、それどころか魔物に自分の居場所を知らせるだけだと主張をする者もいる。
だが、夜に活動するような魔物は総じて夜目が利くのに対し、人間が真に暗闇に馴染むことはない。明るいことで多少狙われる可能性があがるのに対し、明かりがあることの安心感と視界が確保できるという利点を比べれば後者の方を優先する冒険者が多いため、基本的には冒険者ギルドも「野営の際には火を絶やさないようにする」というのを推奨していた。
「あの……」
「おお、もう起きたのか? 流石にまだ早いと思うが」
あえて小さな声を出したメーガネットに、ニックはすぐに反応して振り向く。おそらく徹夜したであろうその顔には疲労や眠気は感じられず、ここでやっと下落続きだったメーガネットのニックに対する評価が少しだけ持ち直した。
「ちょっとお花を摘んで来たいのですが」
「む、そうか。大分明るくなってはきているが、気をつけてな」
それだけ言うと、ニックは再びメーガネットに背を向ける。如何に護衛とはいえ流石にこれは普通の判断なので、メーガネットはそっと枕元に置いてあった鞄を手に取って森へと入り……
(この辺でいいですね)
ほどよくニックから離れたところで、徐に鞄から布きれを……被った人間の存在をやや希薄にする姿隠しの布を被る。
(では、もう少し離れるとしましょう。これでニック様がいい対応を見せてくれればよいのですが)
そうして気配を消したまま、メーガネットは更に森の奥へと入っていく。それはいわば「裏試験」とでも言うべきもの……護衛対象の失踪から始まる「捜索試験」だ。
どれだけ完璧を期したとしても、やむを得ず護衛対象と分断されるという事態は起こりえる。そんな不測の事態に冒険者としてどう対応するのか? それを図るこの「捜索試験」は、鉄級への昇級試験の内容のなかで一番の高難易度を誇る。
だが、だからこそこの試験は加点の幅がとても大きい。試験を行う試験官本人にも危険が及ぶため省略されることも多々あるこの試験を好成績で片付けることができれば、冒険者らしい大雑把さで減点を重ねたニックであっても、ここから合格できる可能性を孕んでいる。
(……私は単に、ギルドマスターの指示に従っているだけです。規定通りの試験を一項目でも多く行い、ニック様の人柄と能力を調査するのが仕事ですから)
勿論、メーガネットはそんなことを考えていない。これまでのやりとりからニックが決して悪人ではないだろうと予想はしているが、かといって試験に私情を挟むようなことをメーガネットはしない。しないが……
(別に不合格になって欲しいわけではないですしね)
半ば無意識に、自分の中でそんな言い訳を呟く。明確な言葉にできないモヤモヤした気持ちを軽く頭を振って振り払うと、メーガネットはニックから十分に離れたことを確認してから、近くの大きな木の根元にしゃがみ込んだ。
(さて、後は待つだけですが、果たしてニック様がどのくらいの時間で私を見つけ出すか……っ!?)
と、そこで不意にメーガネットの前方の草むらが揺れる。そこから顔を出したのは、如何にも起き抜けといった寝ぼけ顔のゴブリンだ。
「ギュゥゥゥゥ…………」
(……………………)
咄嗟に息を潜めながら、メーガネットは全身に緊張を走らせる。半ば反射的に手を突っ込んだ鞄の中で握るのは、こういうときの為の備えだ。
(大丈夫。まだ気づかれてない……大丈夫。大丈夫)
通常の戦闘試験の際に自身が戦闘に巻き込まれたり、あるいは試験対象の冒険者が大怪我、ないしは死亡しそうな場合などに備え、試験官にはしっかり武器が支給されている。麻痺玉と呼ばれるそれは地面などに強く叩きつけると爆発し、吸い込むことで短時間体を麻痺させる効果のある粉をまき散らすというものだ。
勿論それほど強力な痺れ薬ではないのでちょっと強い魔物にはあまり効果が期待できないが、少なくともこの辺にいるゴブリンやらグレイウルフやらであれば十分に逃げ切れる程度の時間は稼げる優れものだ。
もっとも、支給されているのは僅かに三つだけなので当然乱用はできないし、何よりここで下手に交戦状態になってしまうと「護衛対象が交戦した場合は試験は失格になる」という規定に触れてしまう。
真面目で融通の利かない性格のメーガネットにはその辺をいい具合に処理することができず、またニックが失敗したならともかく、自分の落ち度でニックを失格にしてしまうなどということはとても許容できなかった。
(あっちに行きなさい……)
「グーギャギャギャー……ギャー……」
だからこそ、メーガネットは必死に耐える。だがその願い虚しくゴブリンはメーガネットのいる方へと歩いてきて……
「ギュフゥ」
「うっ!?」
あろうことか、ゴブリンはメーガネットのすぐ側で立ち小便を初めてしまった。強烈な悪臭を放つ飛沫が自分の方にまで跳ねてきて、メーガネットは思わず手で鼻と口を覆ってしまう。
(あっ!? しまっ……)
その拍子に、握っていたはずの麻痺玉を地面に落としてしまった。足下をコロコロと転がる黄色い球体は足首程度までの高さしか覆っていない姿隠しの布の下を通り抜け、運の悪いことにゴブリンの方へと転がっていく。
「ギャウー? フギャッ!?」
そして最悪な事に、ゴブリンは足下に転がってきた麻痺玉を見事に踏んづけてしまった。その瞬間にパンッという甲高い音が静かな森に響き、同時に周囲に麻痺の粉が舞う。
「あっ……ぐっ……」
「グググ……ギャ……」
効果範囲内にいたせいで、ゴブリンのみならずメーガネットも粉を吸い込んでしまい、急速にその体が痺れていく。かろうじてゴブリンによってぬかるみにされてしまった方向に倒れないようにだけはしたが、姿隠しの布を握っていた左手もまた痺れて動かなくなり、ゴブリンと並んで倒れるメーガネットの姿がその場で露わになってしまう。
(何という失態! 早く何とかしないと……っ!)
薬の効果が弱いことが幸いし、呼吸が止まったり意識を失ったりすることはない。だが逆に言えば思考は出来ても体はしばらく動かないということだ。麻痺玉が炸裂する音に加え、ゴブリンが倒れ込むビチャッという音も割と大きく森に響いてしまったため、この場所に追加で他の魔物がやってくる可能性はかなり高い。
(腕……せめて腕が動けば……)
メーガネットの左腕には、姿隠しの布がふんわりと被さっている。何とかこれを広げて全身を覆うことができれば……そう思って力を入れるも、たった今麻痺の粉を吸ったばかりのメーガネットの体はピクリとも動かない。
「…………っ!」
そして当然、声も出ない。逃げることも助けを呼ぶこともできないメーガネットが必死に打開策を考えていると、不意にその耳にゴブリンにしては随分と「重い」足音が聞こえてきた。
(ニックさん! よかった、これで助かる――っ)
必死に眼球だけを動かし、音のした方をメーガネットが見る。するとそこに立っていたのは、身長二メートルほどの巨躯の人影。
「ブフォ?」
(そん、な……………………)
でっぷりとした腹を揺すり、立派な二本の牙が生えた口から鳴き声を漏らしたのは、こんな場所にはいるはずの無い魔物……オークであった。