父、拳で応える
「フゥゥ……フゥゥ……フゥゥゥゥ」
隙無く構え、だが動かないニックに対し三歩の距離を維持したまま、コサーンはゆっくりと息を整えていく。無様に肩で息を切らすようなことはしないが、それでもあれだけ激しく動けば呼吸が乱れるのは致し方ない。
(これだけ打ち込んでも無傷か……強いとは思っていたが、まさかこれほどとはな……)
小さく肩を揺らすコサーンの前には、左半身で立つニック。その腕は赤い血に濡れているが、それは全てコサーンが流したものだ。強靱なニックの腕を力任せに殴った代償として、コサーンの指は皮が剥げ、肉が潰れているところすらある。
だが、激痛を訴える拳をコサーンはギュッと握りしめる。力を込めれば血は止まり、限度を超えた痛みはむしろ何も感じなくなる。それはつまり、まだ戦えることを意味している。
(握力はまだ持つ。が、このまま同じ事を続けても敗北は必至。ならばやはり……)
「む?」
「あれはっ!?」
不意にコサーンが、右腕を大きくグルグルと回し始めた。その謎の行動にニックは軽く眉をひそめ、それが何かを知っているワッカは思わず声をあげてしまう。
「今から放つのは、俺が持ちうる最強の技。これを食らって無事だった奴は、今まで一人だっていない。故に問おう。ニック、お前にこれを正面から受ける気概があるか?」
「無論!」
コサーンの言葉に、ニックは短くそれだけ答えて左半身の構えから体を真正面に向けて受け止める態勢をとる。それはかわしたりいなしたりという技術ではなく、純粋に己の体で全てを受け止めてみせるという覚悟と自信の表れ。
それを見て、コサーンは笑う。友の気遣いが、その友に全力を振るえる喜びが、全身に力となって駆け巡っていく。
(最後……)
剛猿族の寿命はおおよそ七〇年ほどで、であればコサーンの余命は残り一〇年くらいということになる。如何に老化による身体能力の低下が遅い種族とはいえ、ここまでくれば僅かな日々でも力は衰える。コサーンは優れた戦士であるが故に、その事実を誰よりも強く自覚していた。
(俺の寿命が後どれだけあるかわからないが、もし今を逃せば次にニックが来るのはいつだ? 何ヶ月、あるいは何年先? ひょっとしたらもう生きて会うことは無いかも知れん。
それに何より、俺の力はドンドン衰えている。仮に五年後に再会できたとして、その時にはもう勝負と呼べるほどの戦いはできないだろう。だからこそこれが……)
この一撃が、生涯最後。その覚悟を以てコサーンは腕を回す。己の全てを出し切るために、一心不乱に回し続ける。
水を張った桶を振り回すと、何故か水は下に落ちることなく桶の底に張り付く。ならば体に流れる血も同じではないか? この技の発端はそんな簡単な思いつきだ。腕を振り回すことで腕全体、そして何より先端たる拳に血を集めることこそが、この技の肝要にして全容。
血は力だ。血が集まれば重さが高まり殴る力が増し、血が濃くなれば力が漲りそれだけ強く殴れる。単純な技ながら、それを実戦で使えるのはコサーンしかいない。
当たり前だ。腕に血を集中すればそれだけ体の他の部分の血が薄くなるし、戦闘中に腕を振り回すなどという行為をやってのけるには高い格闘技術が必要になる。
踏ん張りの効くギリギリの血の量を維持し、残りを全て腕に回す。回し足りなければ半端な拳となり、回しすぎれば足はふらつき意識すらおぼろげになってしまう諸刃の拳。それを使いこなすからこそ、コサーンは百獣戦騎に選ばれたのだ。
「うわー、師匠の腕、凄く太くなってるよ!?」
「あれが『黒腕』……実際に見るのはボクも初めてだよ」
二回り近く太くなった腕を振り回すコサーンに、ゲーノとイタリーが驚きの視線を向ける。だがそれを向けられる相手であるニックは些かも動揺することなくコサーンの目から視線を外さない。
「…………ニック」
「何だ、コサーン」
「感謝する」
短くそれだけ口にすると、コサーンがニックに向かって一歩踏み出した。常ならば精々一〇回も振り回せば十分の腕は、既に三桁を超えて回転している。
「この一撃は、間違いなく俺の人生において最強の一撃となる。俺の全盛期であっても、これほどの一撃は打ったことがない」
もう一歩、コサーンが踏み出す。実戦でこんなにも長時間無防備は晒せないし、試合ならばこんな過剰な攻撃力は相手を殺してしまうため使えない。
だが今コサーンの前に立っているのは、己が認める最強の敵。正真正銘の全力を向けてなお届かないと思わせる高みの戦士。
「黒腕のコサーン、最強にして最後の一撃をお前に捧げる! 受けよ我が無双の拳!」
最後の一歩を、コサーンが詰める。高速回転していた腕が遠心力をそのままに振り抜かれ――
「『断鬼金剛』!」
「ぐおっ!?」
まるで爆発したかのような凄まじい音と衝撃のなか、頬にまともに拳を食らったニックの体が吹き飛ぶ。そのまま三度地面に弾みようやくとまったが、ニックが起き上がる様子はない。
「ハァ! ハァ! ハァ……ッ!」
いつ以来かわからない息切れを感じながら、そんなニックをコサーンはジッと眺める。そのまま視線をブルブルと震える己の拳に映し、技の代償としてぶよぶよに膨れ上がり今にも腐り落ちそうな手を見つめ……
「…………届かなかったか」
絞り出すような言葉。そのまま崩れるように地面に膝をついたコサーンの目からは、止めどなく涙が溢れ出ている。
「し、師匠? え、何で……?」
「どうみたってお師匠様の勝ちだろう? 何故そんな……」
「ワッカ、イタリー! あっち!」
そんなコサーンの態度に困惑するワッカとイタリーに、ゲーノが大きな声を出して鼻を指す。するとそこでは力尽き倒れ伏していたはずの筋肉親父がのっそりと立ち上がっていた。
「嘘、だろ!? あれを食らって平気とか……」
「こいつ、本当に人間なのか……!?」
「おいらより頑丈なノケモノ人とか、信じられないー!」
呆気にとられるワッカ達。そんな若者の驚きの声を浴びながら、ニックは静かにコサーンの側へと歩み寄っていく。するとニックの接近を感じたコサーンは、涙に頬を濡らしたままその顔をあげた。
「ニック……俺は……」
「勘違いするなコサーン」
コサーンの言葉を遮り、ニックはその場で顔を横に向けプッと血の混じった唾を吐いた。常ならばやや無礼な振る舞いだが、その赤い飛沫にコサーンの目は釘付けになる。
「血……?」
「そうだ。お主の拳は確かに届いた。ならばこそその想い、ここに返そう!」
言って、ニックはコサーンの腕を引っ張りその場に立たせる。それからコサーンの眼前で見せつけるようにギュッと拳を握ると、その腹部に勢いよく打ち込んだ。
「うぐっ……」
「ひ、ひでぇ! オッサン、テメェ師匠に何しやがるんだ!」
「黙れ!」
一見すれば無抵抗なコサーンにとどめを刺す行為。それに抗議の声をあげたワッカを、ニックは激しく一喝する。その気迫のこもった力ある声を前に、ワッカは勿論声には出さずとも不満を感じていたゲーノとイタリーも指一本すら動かせないほど体を萎縮させてしまう。
「これは戦士の真剣勝負! ならばこそ儂は最後まで手を抜かぬ! そしてお主達がすべきことは差し出口を挟むことではなく、この結末を見届けることだ!
忘れるな。お主達の師、偉大なるケモノ人の戦士コサーンは己で膝をついたのではない。儂の拳によってこの地に倒れ伏したのだ!」
力強くそう断言すると、ニックはそっと気絶したコサーンの体をその場に横たえる。ニックの放つ圧倒的な威圧感が霧散したことで動けるようになったワッカ達もすぐにそこに寄ってきたが……
「師匠……」
「フフッ、お師匠様のこんな顔、ボク初めて見たよ」
「師匠、何でー?」
その顔を見て、ワッカ達が思い思いに感想を口にする。瞳を閉じられてなお涙が頬を濡らすコサーンの気絶顔は、どこか幸せそうに微笑んでいた。





