父、追いかける
速さ勝負をすることになったニックとワッカ。とりあえずは体をほぐすべく少し離れた場所で準備運動をする二人だったが、ワッカの側には自分と同じくコサーンに声をかけられたゲーノとイタリーの姿があった。
「まったく大人げないなぁワッカ。あんな体つきのノケモノ人と速度で勝負して君が負けるわけないじゃないか」
呆れた顔つきで言うイタリーに、ワッカは悪戯に成功した子供のように無邪気に笑う。
「へへ、まーな。でもこういうのは最初が肝心だろ? 実際腕力勝負とか挑まれたら俺はまだしもイタリーじゃ勝ち目ないだろうしさ」
「それはまあ、認めるよ。ボクの腕はそういう野蛮なことには向いてないからね」
ワッカの言葉にイタリーが肩をすくめて答える。自身が腕力に劣ることを理解しつつも、それが「弱い」ということではないのをイタリーはよく理解していたからだ。
「うーん。師匠はなんであのおっさんと戦えって言ったのかなー?」
と、そこでゲーノが根本的な疑問を口にした。それにはワッカもイタリーも揃って首を傾げつつ、それぞれが思いついたことを口にしてみる。
「何だろうな? あのオッサンをボコボコにして、俺達の訓練の成果を見たかったとか?」
「ああ、あり得るね。あのノケモノ人、確かに随分と頑丈そうだし……なるほど、そういうことならあまり手を抜かずにしっかり勝負した方がいいかもね」
「だねー。ワッカ、ぶっちぎっちゃえー!」
「はは、任せとけ!」
『……だそうだぞ?』
「ふふふ、正しくコサーンが言う通りの若者と言うことか」
そんな若者達の会話を聞きつつ、ニックは腰を捻ったり足を曲げ伸ばしして柔軟体操をする。自分が負けることを考えていない若者特有の思考はニックからすればなんとも言えず微笑ましく、思わず顔がほころんでしまうのを抑えつつ五分ほどの時を過ごすと、遂に勝負の時が訪れた。
「オッサン、そろそろ準備はいいか?」
「問題ない。いつでもいいぞ」
「あー、ホントにか? その格好のままでいいのか?」
金属鎧に身を包んだままのニックに、ワッカがいぶかしげな視線を向ける。ちなみにワッカの装備は布の服の上にぴっちりとした黒い革製の鎧とズボンを身につけており、心臓付近と肘、膝の関節部分のみに金属があしらわれた典型的な軽戦士仕様だ。
これはイタリーもほぼ同じ装備であり、唯一ゲーノだけは体の七割ほどを黒光りする金属の鎧で覆っているが、これはそれぞれの役割の違いからだろう。
「さっきも言ったが、構わん。そもそも普段戦う時の装備で速さを競わねば意味がないではないか。無論お主がそれでは足りぬと素っ裸になる分には気にせんが」
「チッ、言ってろオッサンが!」
ニヤリと笑って言うニックの挑発に、ワッカが軽く舌を打つ。それでも冷静さを失っていないのは流石にコサーンが自分の後継にと選ぶ相手だけのことはあると、ニックはこっそり感心した。
「で、勝負の方法だけど……単純にまっすぐ走ってどっちが速いかなんてつまんねぇだろ? となりゃあやることは一つ!」
言って、ワッカが腰を落とす。その視線は平地の向こうに広がる豊かな森へと向かっており……
「俺を捕まえて見せろノケモノ人!」
基人族では決して成し得ない爆発的な加速をもって、ワッカが森の方へと全力で走っていく。だがニックは慌てない。その背中を悠々と見送ってから、自身もまたグッと腰をかがめて足に力を溜める。
「いいだろう! 子供と追いかけっこをするのは大得意だぞ!」
その言葉が終わると共に、ニックの姿が爆音と共にその場からかき消える。その予想外の光景にゲーノとイタリーが驚きで固まるなか、走り出したニックの視線は既に獲物を捉えていた――
「へっ、どうやらついてこられないみたいだな。ま、当然だけど!」
背後から追ってくる気配がないことに、ワッカは余裕の笑みを浮かべて一人ごちる。走り始めから一気に最高速度を出せるのが豹人族の特徴であり、その速さに追いつけるのは同じケモノ人であってもごく僅かだ。
「って、完全に振り切ったら速さじゃなくて気配を消したり探したりの勝負になっちまうよな。そっちはあんまり得意じゃねーし、そろそろ少し速度を緩めて……イテッ!?」
後ろを見ながら走っていたワッカの頭が、不意に何か固い物にぶつかる。多少よそ見をした程度で障害物をよけ損ねるという恥ずかしい失態と高速でぶつかった割には弱い衝撃にワッカが驚いて顔をあげると……
「よう、ワッカ。久しいな」
「……え?」
眼前に立つのは、ニヤリと笑う巨体のノケモノ人。遙か後方に置き去りにしたはずの相手が目の前に立っているという事実に、ワッカの頭がすぐには現実を理解しきれない。
「あ、あれ? 何で? 俺、いつの間にか引き返してたのか?」
「むーん? 何を言っているかわからんが……これで勝負は終わりでいいのか?」
混乱するワッカに、ニックの手がゆっくりと伸びていく。だがそれが肩に触れるより前に正気に戻ったワッカは、即座にその場を飛びだしていく。
「っ!? ジョーダン! オッサンなんかに捕まるわけねーだろ!」
己の速度に反応できないのであろうニックがその場で棒立ちになっているのを確認しながら、ワッカは再び全速力で走る。するとすぐに人影は小さくなり、何も見えなくなったところで改めて前を向こうとすると……
「うおっ!?」
「おっと危ない。大丈夫か?」
突如前方に出現した違和感に、今度はワッカが急制動をかける。すると何とか停止できたその先に立っているのは、またしても笑顔の筋肉親父。
「何で!? どうして!? どうやって!?!?!?」
「どうと言われてもなぁ。儂は単にお主の後を追って走っているだけだぞ?」
「く、糞っ!」
困り顔で言うニックの言葉を最後まで待たず、ワッカは三度走り出す。今度は脇目も振らぬ正真正銘の全速力であり、得体の知れない相手から逃げたいという一心はワッカの今までの生涯において最高速度を出させた。だが……
「ひいっ!?」
「ほう、先ほどよりも速いな。それがお主の全力か?」
話しかけるニックを無視して、ワッカは背を向け走り出す。だが何処まで走ってもどれだけ速度を出してもワッカの目の前には気づけばニックの姿があり、その笑顔は息一つきらすことはない。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ!」
ワッカは走る。ただひたすらに走る。全力での移動により喉が焼き付き、見開き続けた目は乾いて痛い。そして何より短時間で全力の急加速と急制動を繰り返したことで四肢が悲鳴をあげていたが、その全てを無視して森の中をかけ続ける。
(嫌だ、怖い……っ! 何だ、何なんだアイツ……っ!)
ワッカの頭の中には、既に勝負のことなど残っていない。その心を支配しているのは何処まで行っても必ず自分の前に現れるノケモノ人に対する恐怖だけだ。
「なあワッカよ。頑張るのはいいが、流石にそろそろ限界ではないか?」
「ひぃぃ!? く、くるな! あっちにいけ!」
走る。走る。また走る。
「意地を張りたくなる気持ちはわかるが、これ以上は体に負担が大きすぎるぞ?」
「なんで!? 何で来るんだ!」
「いい加減負けを認めるのだ。でないと……」
「消えろ消えろ消えろぉぉぉぉ!!!」
「……ハァ、やむを得まい」
「うひぃ!?」
これ以上は体を壊してしまう可能性が高かったため、今度は逃がさないようにニックが素早くワッカの体を掴む。するとワッカは全身をびくりと震わせてからその場で丸く蹲ってしまい、やむを得ずニックはワッカの体を小脇に抱えて皆の待っている平地へと歩いて行った。
「おお、戻ったかニック。思ったより時間が……何だそれは?」
「正直儂にもよくわからんのだが……」
そっと地面に降ろしてなお借りてきた猫のように丸まって動かないワッカの姿に、ニックはどうしたものかと困り顔で頭を掻く。そんなワッカを見かねたゲーノとイタリーが近寄り声をかけるが、ワッカはひたすらにうわごとを繰り返すのみ。
「ワッカ、どうしたのー?」
「筋肉怖い筋肉怖い筋肉怖い筋肉怖い……」
「こりゃ酷いね。一体何をされたって言うんだい?」
「筋肉怖い筋肉怖い筋肉怖い筋肉怖い……」
「……なあニック。俺は確かにあいつに上の世界を見せて欲しいとは言ったが、あそこまで怯えさせてくれと言ったわけじゃないぞ?」
「ぬぅ、そんなつもりはなかったのだがなぁ」
コサーンからの責めるような視線に、ニックは何とも居心地悪くその場に佇むことしかできなかった。
『本当に貴様という奴は……』