父、頼まれる
「はーい、これで施術は終了ニャー」
「ふぅ、実によかったぞ」
体に塗られた油を綺麗に拭き取った店員の言葉に、ニックは満足げに笑みを浮かべながら服を着ていく。そうして身支度を終えると、割と長時間寝っ転がっていた体をほぐす意味でもニックは軽く体を捻ったりした。
「よっ、ほっ! うーん、いい調子だ」
「うわっ、お客さん滅茶苦茶体柔らかいニャ!?」
その軟体生物の如き柔軟性に、店員の男が驚きの声をあげる。身長二メートルを超える筋肉親父がグニャグニャと体を曲げる様は、ちょっとした脅威と恐怖を感じさせる。
「はっはっは、戦う者にとって体の柔らかさは必須だからな。柔軟な筋肉があればこそ拳に力が乗るのだ」
「へー、それなら体の柔らかいお客さんは凄く強いニャ?」
「ん? まあそれなりには強いと思うが……それがどうかしたのか?」
「実は少し前から、町の広場で強いノケモノ人を探してる人がいるニャー。自分を倒したら賞金を出すって言って、今まで何人も挑戦してるけど全員負けてるのニャー。お客さんなら勝てるかも知れないニャー」
「ほぅ、そんな者がいるのか」
店員の男の言葉にニックがニヤリと笑う。獣人の町であればこの手の力試しはそう珍しくもないのだが、広場で戦うとなれば手の内が丸見えになるということで、その状況で勝ち続けられるのは本物の実力者だけだ。
「これはいいことを聞いた。ではそこにも行ってみることにしよう」
「頑張ってニャー」
店員から応援の言葉を貰い、金を払って店を出たニックは早速町の広場へと向けて歩き出した。
『言うまでもないとは思うが、きちんと手加減するのだぞ?』
「わかっておるわ。ふふふ、どんな相手がいることか……」
『本当にか? 本当にわかっているのだな!?』
何故か心配そうなオーゼンの言葉を聞き流し、ニックは意気揚々と道を歩く。程なくして見えてきた広場には軽い人だかりが出来ており、その先にいたのは……
「む? あれは……」
『何だ? ひょっとして知り合いか?』
そこに立っていた獣人の姿を見て、ニックがふと足を止める。てっきり若い獣人がはしゃいでいるのだとばかり思っていただけに、その光景は随分と意外であった。
「そうだ。とは言えあの男が何故このような場所でそんなことをしているのか……これは話を聞かねばならないな」
「さあ、どうした! もう挑戦者はいないのか!? この俺に勝てば賞金は金貨一枚だぞ!」
大声でそう叫ぶのは、ニックとほとんど身長の変わらない剛猿族の戦士。黒光りする体毛に包まれた鋼の肉体はまさに筋肉の塊であり、全身に漲る闘気は素人目にすらかの男が強者であることを知らしめている。
「どうした? 賞金と栄誉を求める真の男はもういないのか? ああ、それと何度も言っているが、ケモノ人は相手にせんぞ? 俺が求めているのは我らケモノ人を圧倒できる他種族なのだ!」
「そういうことなら、儂が相手になろう」
その男の呼びかけに、ニックは群衆から一歩前に出る。その威風堂々とした姿に喜色の表情を見せた剛猿族の男だったが、すぐにその目が驚きに見開かれる。
「まさか、ニックか!?」
「久しいなコサーン。何故お主がこんなことをやっているのか事情を聞きたいところだが、その前に……」
「ハッハッハ、そうだ。我らが顔を合わせたならば、やるべき事は一つ! 我は百獣戦騎が一人、黒腕のコサーン! その名を聞いて臆さぬならば、力を示せノケモノ人!」
指を突きつけ名乗りを上げるコサーンに、ニックもまた三歩の距離まで近寄ってから堂々と名乗り返す。
「我が名はニック、放浪の冒険者なり! 偉大なる戦士よ、いざ尋常に……」
「「勝負!」」
瞬間、まるで空が弾けたかのような音と衝撃が周囲を囲んでいた観客達を襲う。互いの巨体から嵐の如く繰り出される拳の応酬はバチバチという音と残像のみをその場に残し、まるで何十もの腕が次々に殴りかかっているかのように見える。
「ぐぬぅ、やはり強いなニック!」
「ははは、どうしたコサーン、お主はこの程度ではあるまい?」
だが、一見互角に見えるそのやりとりにも明確に力量差が現れている。必死に拳を繰り出し、また打ち落としているのはコサーンであり、ニックの方は余裕のある笑みを浮かべながら徐々に殴る速度を上げていく。
「ならばっ!」
「む?」
このままでは打ち負けると悟ったコサーンが、不意に拳を開いてニックの手を掴む。そのまま殴り返すこともできたが、ニックはあえて自らも拳を開いてコサーンの手を握り返し、激しかった攻防から一転して二人の豪腕が力比べをするべく空中に静止した。
「ぐぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
「相変わらず素晴らしい膂力だ。だが……」
「ぐっ、うっ、うぅぅぅぅ……っ!」
ゆっくりと、だが確実にニックの腕がコサーンを押し、少しずつコサーンの背が反っていく。このままでは踏ん張りが効かなくなるとコサーンは左足を一歩後ろにさげようとして……それがそのまま勝負の決着となった。
「むんっ!」
「ぐあっ!?」
一瞬足が離れた隙を見逃さず、ニックが一気に腕に力を込める。その圧力に耐えきれなかったコサーンは、その場でズデンと尻餅をついて倒れ込んでしまった。
「今回も儂の勝ちのようだな」
「ああ、お前の勝ちだ。本当に大した男だなお前は」
掴んだ手をそのままにコサーンを引き起こしたニックに、コサーンは苦笑しながら右手だけを離して左手を高々と持ち上げる。
「ここに勝負は決した! 勝者にして強者、偉大なるノケモノ人の戦士に大いなる賞賛を!」
「「「ワァァァァァァァァ!!!」」」
コサーンの宣言に、勝負を見守っていた観客達から惜しみない拍手と声援がニックに贈られる。それを照れた表情で受け止めたニックだったが、しばらくして観客がいなくなったところで改めてコサーンに話しかけた。
「で、コサーンよ。一体何故こんなところでこんなことをやっていたのだ?」
「うむ、それはな……っ!? つぅぅ……」
「おい、大丈夫か!?」
痛そうに腰を押さえたコサーンに、慌ててニックが肩を貸してその巨体を支え、そのままゆっくりと広場の端に座らせる。
「ああ、悪いなニック。全く歳は取りたくないものだな……」
「何を言うか、お主などまだまだであろう?」
「馬鹿を言え。俺ももう六〇だぞ? 流石にそろそろ引退も考える時期だ。それは今俺と戦ったお前が一番よくわかったんじゃないか?」
「それは……」
コサーンの言葉に、ニックは僅かに表情を曇らせる。基人族のニックの目にはコサーンの外見から年齢的なものは全く判別できないが、今戦った限りでは確かにコサーンの膂力は落ちていた。怪我や病ならまだ挽回する見込みもあるが、加齢によるものとなればここから強くなるということはまずないだろう。
ちなみにだが、多くの獣人の平均寿命は基人族とそう変わらない。そう言う意味ではコサーンは十分に老齢であり、むしろその年で現役を続けられるのは剛猿族という肉体の頑強さに秀でた種族だからだ。
「いいんだ。これは自然の流れ。老兵が消える時が来ただけのことだからな。とは言え、ならばすぐに辞めるなどと無責任なことは言えん。そしてそのために、ニック、お前に折り入って頼みたいことがある」
「何だ? 儂にできることなら協力するぞ?」
「フフ、内容を聞く前にそう言ってくれるところが、本当にお前らしい……だが、そんなお前だからこそ何の憂いもなく頼める。なあニック、お前に倒して欲しいケモノ人がいるんだよ」
「儂にか?」
戦士としての自分に強い誇りを持つコサーンからの意外な頼みに、ニックは眉をひそめて問う。だがそれに対するコサーンの答えは苦笑交じりの困り顔だ。
「ああ。俺が倒すんじゃ意味が無い、だが並の奴じゃ倒せない厄介な相手……この俺の弟子達さ」
そう言うと、コサーンは空を見上げて眩しそうに目を細めた。