捕り兎、思い出す
「ふぅ……ふぅ……ふぅぅ……」
兎人族の秘宝『赤い月』を飲み込んだパクリットの体には、外見のみならず内面にも大きな変化が起こっていた。全身が燃えるように熱くなり、四肢には力が溢れ、その胸は痛いほど強く鼓動を刻んでいる。
「うぅ……あぁぁ……」
そしてもっとも大きな変化は、その目だ。パクリット左目はただの赤から血のように濃い深紅に染まり、視力と共に瞳孔が消え去ったそこにはうっすらと銀色の筋が走る。
(これは……想像以上にキツいですぅ……)
その思考すらも紅く朱く染まっていくパクリットの頭の中では、かつて大好きな祖母から聞かされた『赤い月』にまつわる話が思い出されていた――
それは、ずっとずっと昔の話。いつも平穏な兎人族の里に、ある時狼人族の男の子が産まれた。異種族婚では珍しく父の種族を継いで産まれた子供の誕生に里の大人達は「珍しいこともあるものだ」とにわかに騒然となったが、逆に言えばそれだけであり、その後それを問題にする者は大人達には一人もいなかった。
だが、子供は違う。自分たちとは違う姿の相手をからかい、仲間はずれにしたりした結果、狼人族の子供は孤立してしまう。だがそんな男の子に一人の女の子が声をかけた。勝ち気で面倒見のいいその女の子と少し気弱でだが心根の優しい男の子はすぐに仲良くなり、やがてそれは幼いながらに恋愛感情に発達していく。
そのまま時が進めば、単に二人が結婚して幸せな家庭を築きました……で終わる話だが、現実はそうはならなかった。狼人族の男の子は成長するごとにグングンと強くなっていき、彼が少年と呼べる年齢になったとき、男なら誰もが一度は夢見る「獣王になる」という目標のため、一人王都へと旅立つことになる。
王都での生活により、狼人族の少年は更に力をつけていく。だがそれに比例するように里の少女との交流は遠のいていき、やがて少年が青年となり、遂に獣王の座を勝ち取った時、彼の隣に立っていたのは全く別の女性だった。
自らもまた年を経て少女から女性に代わった彼女は、その事実を大いに嘆いた。ただし、それは距離と共に心まで離れてしまった青年に対してではなく、青年が王都に行くときに一緒に着いていくことのできなかった自分の弱さにだ。
獣人は力を尊重する。ならば自分が一緒に王都に行けるだけの強さがあれば、きっとその後も寄り添い合うことができたはず。なので彼女は考えた。今からでも自分が青年に相応しいほどに強くなれれば、また彼の目にとまることが出来るのではないかと。種族にもよるが、獣王ともなれば複数の妻を娶ることもある。そうなれば幼き日に交わした約束を果たしてもらえるのではないかと。
そして彼女は考えた。決して戦闘向きではない兎人族という種族で、どうすれば獣王に寄り添えるほどの強さを得られるか? 単に体を鍛えたり戦闘技術を磨くだけではとても届かない。ならばどうするか? 考えに考え……そうして行き着いたのは、兎人族にとって神聖な「月の魔力」を自らに取り込むことだった。
兎人族は死ぬとその魂が月に帰ると信じている。だからこそ天で輝く優しき同胞の光を力に……そう考えた彼女は周囲の声に耳も貸さず、昼間はジッと目を閉じ、夜空に浮かぶ月の光だけをその目に写すという行為を行い始める。
半年、一年。そこには何の効果もなかった。ただ月を見つめるだけの日々に、周囲の人々は彼女を不憫に思って色々と世話を焼いてくれた。
五年、十年。彼女の目から徐々に視力が失われ、その代わりその瞳に薄く月の光が走るようになった。だが普段は目を閉じている彼女の変化に気づく者はいない。彼女自身すら、それに気づきはしなかった。他の全てが見えなくなっても、優しい月の光だけははっきりと視えていたから。
二〇年、三〇年。長い長い時の果てに、彼女の瞳に映る月は半月を超え満ち始めていた。その頃になると彼女もまた自分の体に変化が起きていることに気づいていたが、その行為を辞めるつもりはなかった。幼き日の男の子のように周囲から孤立している自分が、何だか少しだけ嬉しかった。
そして、五〇年。ただひたすらに月の光を写し続けたその瞳に、遂に満月が宿る。完成した『月』は、彼女の体に莫大な魔力をもたらした。あふれ出る力は強大で、十全に扱えるならば獣王を目指すことすらできそうな、理想の力。だが、それを御するには彼女の体は歳を取り過ぎていた。
暴走。抑えきれない力に振り回され、もはや老女となった彼女は兎人族の里で暴れ回る。里の者達によって何とか取り押さえられはしたが、里に甚大な被害を出した罪を咎められ投獄。そうして最後の力を使い果たした彼女は、そのまま静かに息を引き取った。
最後が最後だったとはいえ、里の同胞。彼女の魂を月に返すべくその遺体は荼毘に付されたが、骨も皮も焼け落ちてなお、月を宿した赤い瞳だけが焦げ跡すらつくことなくその場に燃え残る。莫大な魔力を讃え、同じ兎人族の女性だけがその真の力を引き出すことのできる秘宝『赤い月』。その効果は――
「守りを固めよ! あの手の魔法道具の効果はおおよそ過剰な身体強化だ。無理に攻めずとも時間が経てば効果が切れる。それまできっちり耐え抜くのだ!」
「「「ハッ!」」」
この手の使い捨ての戦士を何度も見てきた経験から答えを導き出したマールゴットの指示に、周囲の騎士達が剣ではなく大盾を構えて身を低くし体制を整える。実際その後すぐにパクリットは猛烈な勢いで攻撃を始め、騎士の一人がその重さに思わずうめき声をあげた。
「うぐっ、何て馬鹿力だ! だがこのくらいなら……」
「まだぁ……まだぁですぅ……!」
嵐の如き攻撃を繰り返すパクリットを、騎士達が必死に押さえ込む。その様子を後ろから見ながら、マールゴットは冷静に状況を分析していた。
(追い詰められた奴が自滅覚悟で過剰な強化を行うのはよくあることだ。あれだけの強化倍率なら保って数分、効果が切れれば動けなくなるか、あるいはそのまま死ぬか……他に手段がなかったんだろうが、馬鹿な選択だ)
マールゴットを守るのは、重武装の近衛騎士。護衛が任務であるが故にその装甲は厚く、素早く動き回る相手を苦手とする反面攻めてくる相手をいなすのを得意とする。
(速さでかき回される方がよほど厄介だった。まあパパンの目の前でいたぶるのは出来なくなりそうなのが残念だが……死体を切り刻んでやるだけでも十分か)
「グハッ!?」
と、そこでマールゴットの思考が中断される。護衛騎士の一人が構えた盾ごと吹き飛ばされたからだ。
「おい、何をしている! もっときっちり守らんか!」
「も、申し訳ありません陛下。ですが、あの獣人の攻撃が重すぎて……」
「うぉぉぉぉ……ですぅ!」
「ガッ!?」
マールゴットが倒れた騎士に視線を向けている間に、更に追加でもう一人が吹き飛ばされた。慌てて獣人娘の方に視線を向け直せば、そこでは最後の騎士がかろうじて盾で攻撃を受け止めている。
「ちょっ、無理!? こんなの耐えきれるはずが……ぬおっ!?」
「お、お前達、何をやっている!? さっさと立て! その獣を押しとどめよ!」
「おぉおそいぃぃぃぃ……ですぅぅぅぅ!」
「ひっ!?」
護衛を失ったマールゴットに白い稲妻が走ったような速さでパクリットが飛びかかってきたが、その一撃は顔を覆うように動かしたマールゴットの腕……正確には魔導鎧によって完全に無効化される。
「うぅぅ……かぁたいぃぃぃ……ですぅぅぅぅぅ……」
「な、なんだ。取るに足らん相手ではないか! 情けないぞお前達! さっさと立ち上がって余を守れ!」
「は、ハハッ!」
一旦距離を取ったパクリットに、護衛の騎士達も次々と立ち上がりベコベコになった盾を構えて再び防御の姿勢をとる。
「……しかし、この娘、一体いつまでこの状態を維持できるのだ? 普通の魔法道具ならとっくに効果限界のはずだが……」
一秒が一時間にすら感じるが、それでも数分……あるいは一〇分くらいはたっているはずだとマールゴットは考える。実際にはそこまでではないが、それでもパクリットの動きが衰えるどころか一層強く鋭くなっていくことに、マールゴットは驚きと共に首を傾げるしかない。彼の常識ではこの手の強化は使い始めの最初こそが最強であり、あとは急速に弱っていくか、最高でも現状維持が精々だったからだ。
「こ……いや、駄目ですぅ……我慢、我慢ですぅぅぅぅ……」
そんな彼らを睥睨するパクリットの瞳では、銀線でしかなかった光が今は三日月にまで満ちてきていた。