父、酒を飲む
波乱の初日が終わり、明けて二日目。その日もニックはパクリットを宿に残したまま朝から出かけ、昨日と同じく貧民街の入り口付近までやってきていた。
「さて、では今日は昨日と違う場所で――」
「旦那! 旦那!」
どの道を行こうか考えていたニックの耳に、自分に呼びかけてくる声が届く。ニックがそちらに顔を向けると、そこには昨日話しかけた物乞いの一人が必死に手招きをする姿があった。
「何だ? 儂に何か用か?」
「ああよかった! いえね、実は旦那に言づてを頼まれてるんですよ」
「言づて?」
「そうなんです。ここから西の方に行ったところにある、『蜘蛛の巣』って酒場に来て欲しいってことですぜ」
「そうか……わかった。行ってみることにしよう。助かった、ありがとう」
物乞いの男に礼を言い、木箱に銅貨を投げ込んでからニックはその場を後にする。向かう先は当然指定された酒場の方だ。
『行くのか?』
「無論だ。予想よりかなり早いが……これなら一週間とかからんかも知れんな」
オーゼンの言葉に、ニックはニヤリと笑って答える。この町に来てまだ二日目のニックを呼び出す相手など、昨日関わった相手以外にはあり得ない。一応昨日の一部始終を見ていた別の組織が接触を図ってきたという可能性も無くは無いが、どちらであってもニックの望む結末……王城に眠る兎人族の秘宝の情報を得ることに支障は無い。
ならば誘いに応じない理由はなく、割と奥まった場所にあったため何度か道に迷いながらもニックは無事に指定の酒場へと辿り着くことができた。
「やっと着いたか……邪魔するぞ」
「いらっしゃーい!」
声をかけながらニックが店内へと入ると、まだ三の鐘(午前一〇時)が鳴ったばかりだというのに、四〇人ほど入れるであろう店内にはまばらに酒を飲む人の姿がある。
予想していたのとは違う明るめな雰囲気に軽く驚きつつニックが適当な席に着くと、すぐに給仕の女性がニックの方へと寄ってきた。
「ご注文は何になさいますか? 時間が半端なので、あんまりしっかりした料理とかは出せませんけど」
「そうだな。ならばエールと適当なつまみを頼めるか?」
「了解でーす! 店長! ご新規のお客さんにエールとつまみをお願いしまーす!」
給仕の女性が声をあげると、店の奥で店長と呼ばれた男が動き始める。そのせかせかした姿を遠目で眺めていると、すぐにニックの前にエールが並々と注がれた木製のジョッキが置かれた。
「はいエールお待たせ! つまみはもうちょっと待ってくださいね」
「ああ、ありがとう」
給仕の女性に礼を言い、ニックがエールを呷る。そうして一気に中身を半分ほど飲み干すと、何故か側に立ったままでいた給仕の女性が声をかけてきた。
「どうです? ウチのエールは?」
「うむん? そうだな……若干苦みが強い、か?」
「でしょー! ウチが独占契約している酒蔵から仕入れている、特別なエールなんですよ。ちょっと苦みが強い代わりにのどごしがいいって、お客さんに評判なんです」
「ほほぅ、そうなのか」
自慢げに言う給仕の前で、ニックはジョッキに残った半分のエールも一気に飲み干す。そのまま追加でもう一杯頼むと、今度はつまみとエールが同時にニックの前に置かれた。
「はい、おかわりのエールと、つまみはカラカラ豆の煎り物です。これも普通よりちょっとだけ塩気が強いですけど、ウチのエールとはよく合うんですよ」
「そうか。ありがとう」
再びニックが礼を言うと、今度は給仕の女性が離れていく。なんとなくその後ろ姿を眺めてからニックは追加のエールを呷り、つまみの豆を食べていく。
そんな風に食事を楽しむニックの姿を、苦々しく眺めている一団があった――
「おい、何であのオッサンはピンピンしてるんだよ!」
「そ、そんなこと言われても!」
酒場の奥の隠し部屋。小さな隙間から店の中が全て見渡せるようになっているその場所で、コスッカライは店長と呼ばれた男の首根っこを捕まえて凄んでいた。
「ちゃんと薬は入れたんだろうな?」
「入れましたよ! 最初の一杯には普通に、二杯目には倍量、三杯目に至っては中身の半分は痺れ薬です!」
「何でそれだけ入れて効かねーんだよ!?」
「むしろ何故それだけ薬が入ってて気づかずに飲み続けられるのかの方が私には疑問ですけど……」
「アァ!?」
「ひぃぃ、何でもありません!」
怒声を上げたコスッカライに、店長の男が情けない悲鳴をあげて身をすくめる。実際彼らがニックの酒に入れた薬は強力ではあってもそこまで高価なものではなく、薬そのものが薄く黄色に色づいており、味もえぐみと苦みがある。それ単体ではとても飲めないような代物だ。
だからこそエールに入れ、かつ塩気の強いつまみを食わせることで誤魔化しているのだが、それにしたって限界はある。通常量である小瓶一つ分ならまだ騙せないこともないが、その倍も入れればよほど酔っ払ってでもいなければ普通に気づくし、ジョッキの半分以上が薬ともなれば味の違和感どころか体が拒絶反応を起こして無意識に吐き出してしまう……はずだった。
だからこそそれを普通どころか美味そうに飲んでいる筋肉親父の存在がコスッカライには理解できず、その苛立ちはドンドンと強くなる。
「くそっ、何でだ!? まさか薬が古くて効果が無かったとかか?」
「それも無いかと……粉から水薬にしたのは今朝のことですし、粉の方だって作ったのは半年前のはずです」
痺れ薬の薬効は、きちんと保存するなら粉の状態で二年、水に溶かした状態では三日ほど保たれる。なので半年前に作った粉から今朝水薬にしたものをエールに混ぜている以上、それが古くて効果が無いというのは考えづらい。
と、そこで店長の男が恐る恐ると言った感じで声を上げる。
「あの……あの方は冒険者なんですよね?」
「見りゃわかんだろ! それがどうしたってんだよ?」
「いえ、あれだけ立派な装備を身につけられる冒険者の方であれば、毒に対する耐性を与えてくれる魔法道具などを持っているんじゃないかと……」
「あ…………」
完全に失念していたその可能性に、コスッカライは店長を掴んでいた手を離す。ドスンという音を立てて床に落とされた店長が痛そうに尻をさすっていたが、そんなことは意識の端にものぼらない。
(そんなこと全然気にしてなかったぜ。どうする? 毒耐性を突破できるようなお偉いさん暗殺用の猛毒を使うか? って、そんなの姐さんの許可なしじゃ持ち出せねーじゃねーか! くそっ、くそっ、くそっ!)
「おーい! そろそろいいか?」
と、その時店の方から件の筋肉親父の大声が聞こえてくる。慌てて給仕の女性が筋肉親父の方に駆け寄ったが、筋肉親父はそれを無視して言葉を続ける。
「もういいかと聞いているのだ! お主達に思い知らせるために酷い味のエールを飲み続けたが、流石にそろそろ嫌になってきたぞ? いい加減に観念して姿を見せたらどうだ?」
筋肉親父の視線は、まっすぐにコスッカライの方を捕らえている。その物言いといい、隠し部屋の中にコスッカライがいることがばれているのは確実だ。
「……どうして気づいた?」
観念して姿を表したコスッカライに、筋肉親父ことニックは眉をひそめて言い放つ。
「むしろ何故気づかぬと思ったのだ? 組織の名を冠した店に呼びつけ、薬まみれの酒を出し、周囲の客は全員がチラチラとこちらの様子をうかがっていて、店の奥、壁の向こうには見知った相手の気配まである。これで何も気づかないような間抜けに儂が見えるのか?」
「ぐおっ!? そ、それは……」
(くそっ、全部ばれてるだと!? こうなりゃ――)
「おいお前等、今すぐこのオッサンを叩きのめせ!」
コスッカライの号令が店中に響き渡り、客を装っていた男達が一斉に席を立って……そしてそのまま床に倒れ伏す。
「教訓その一を忘れたか? 儂にこの程度の戦力では太刀打ちできん」
「……はぁ?」
店の中で待機させていたのは二〇人。前回は自分を抜いて三人だったから、およそ七倍だ。だというのにそれを全く同じだと断じて一瞬にして気絶させたニックに、コスッカライは阿呆のように呆けた顔をすることしかできない。
「そして、これは教訓その二だ。儂にこの程度の毒は効かぬ。最低でもドラゴン程度には効かねば話にもならんぞ?」
(ドラゴン? ドラゴンに効く毒って何だ? そんなもの実在してるのかすら知らねぇよ……)
呆気にとられ続けるコスッカライに、ニックがゆっくりと歩み寄ってくる。それを見て半ば反射的に後ずさったコスッカライだったが、無情にもその背中はすぐに店の壁に押しつけられてしまう。
「さて、では今回も儂の与えた教訓を胸に刻んで……眠れ」
「は、ははは……あぐっ……」
何が何だかわからない、まるで悪夢を彷徨っているような気分のなか、コスッカライの意識はまたも闇に沈んでいった。