盤石学者、堅実に進む
「皆、準備はいいかい?」
「ええ、いつでもいいわよ」
「儂もだ」
遺跡探索二日目。バンの準備していた魔物よけの香の効果もあり、特に襲われることもなく一行はしっかりと休息を取ることができた。その後は朝食と排泄などの生理現象を済ませ、今は全員が穴の前に立っている。
「最後にもう一度確認しよう。皆に渡した目印用の蝋石だが、自分が降り立った場所にまず印をつけ、以後は分岐路にさしかかる度に曲がる方向の通路入り口に矢印を書いてくれ。後続でそれを発見したら、消したりすることなく自分の分も書き足すこと。そうすれば誰がどちらから来て、そこに何人向かっているのかがわかるからね」
バンの言葉にニックとモンディは渡された蝋石をしっかりと確認しながら頷く。安価で使い勝手もいい物のためニックもモンディも自前で持っていたのだが、バンにもの凄くいい笑顔で手渡され、受け取らざるを得なかった物だ。
「続けるよ。もし万が一動けないほどの怪我を負ったりした場合は、可能な限り安全な場所に退避したうえで助けを待つこと。その際はこの蝋石を叩きつけて砕いてくれ。破片を見つけたら周囲に動けない誰かがいると判断し、可能であれば捜索と救助を行う。
近くに人の気配があるなら、渡しておいた魔石を床に叩きつけるのもいい。魔物をひるませるためのものだから温存も手だけど、音が鳴れば当然私達も気づけるからね」
次いでニック達が確認するのは、親指の爪を二回りほど大きくしたくらいの白い魔石。叩きつけて砕くと大きな音が出るというただそれだけのものであり、使い捨てのため数も一人三個しかないが、使いどころを間違えなければこちらもなかなかに有用な代物だ。
当然、これもバンの支給品である。一つ銅貨一五枚ほどとそこまで高価なものではないが、ニックが金を払おうとしたら「昨日の肉のお礼だ」と言われて押しつけられたものだ。なおモンディはいつものことなのか平然と受け取っている。
「ああ、勿論自分の命が最優先だから、捜索の強制はしないよ。万が一の時は当然自分の安全を優先してくれ」
「大丈夫よバン。貴方ほどじゃないにしても、私だってしっかり準備してここに来てるんだから。ニックさんだって冒険者なんだから、むしろ私達よりずっと備えはあるんでしょうし」
「まあな。よほどのことが無い限り儂の方は気にしなくていい。というか、もし儂が怪我を負って動けない状況なのであれば、むしろ絶対に儂に近づくな。可能な限り息を殺し、他の全てをなげうってでも生き延びるために逃げるのだ。いいな?」
「わかった、留意しておこう」
真剣な表情で言うニックに、バンとモンディも神妙に頷く。数度とは言えニックの戦いぶりを見ているだけあり、ニックが勝てない相手に自分たちがどうこうできるとはバンもモンディも思っていない。
「確認はこのくらいか……では、行こうか」
「ええ、幸運を」
「さらばだ。また会おう!」
それぞれが思いを込めた言葉を伝え、バンは左側の壁、左側の穴に、ニックは正面の壁中央の穴に、そしてモンディは右側の壁右の穴にそれぞれの体を滑り込ませる。この瞬間、一つだった運命が三つに分かれた――
「うぉぉぉぉ!」
光の差さない暗闇を、バンの体が勢いよく滑り落ちていく。丸い筒状の壁面には指をかける場所すらなく、下手に減速を試みるよりも流れに身を任せるべきと判断したバンは両手を胸の前で組み、ひたすらに意識を通路の先に集中させる。
「…………ここだっ!」
そしてその体が穴から放り出される瞬間、バンは両の踵を強く打ちつける。すると靴底に仕込んでいた「烈風」の魔石が発動し、猛烈に吹き出す風が穴から滑り落ちる直前でバンの体をその場に繋ぎ止めた。
「穴の角度が浅くて助かったな。さて、足下は……問題なし、か」
すぐに効果が失われ、靴底の魔石がパリンと砕ける。それを無視してポケットから取り出した手鏡で穴の外をうかがったバンは、とりあえず終着点が底なしの穴や溶解液のプールでもないことを確認し、慎重に床の上へと足を降ろした。
「部屋、か。どうやらここには私しか来られないようだね」
降り立った部屋の壁に空いている穴は、バンが滑ってきた一つのみ。自分が通ってきた穴に分岐などがなかったことからも、この時点で「見た目が複数に分かれているだけで降り立つ場所は同じ」という淡い期待は打ち砕かれた。
「まあ、仕方ないかな。これも十分想定の範囲内だし、準備を整えて調査を開始しよう」
バンは背中のリュックから魔石の予備を取り出し、もう一度靴底にはめ込む。その後は無数に存在する服のポケットの中身も確認し直し、最後に自分の足下に蝋石で矢印を描いてから慎重に部屋の外を見回し、通路へと足を踏み出す。
「何もいない……かな? しかしここは、上と違って厄介そうだな……」
これまでは一本道の通路に時折部屋が存在するだけという感じだったのに対し、今は部屋から出てすぐの場所で通路が三方に別れている。ここだけという可能性もあるが、この状況で先を甘く見積もるのは愚か者だけだ。
「こういうときは、左だな」
バンはあえて自分の考えを呟きつつ、壁に矢印を描き込みながら左側の通路へと歩を進める。行動を声に出すのは、頭の中だけで思考してしまうと余計な雑念が交じってしまうからだ。
「む……」
と言っても、勿論常に喋り続けているわけではない。目の前に現れた小さな人影に、バンは口をつぐんで素早く身構える。暗闇の先から姿を見せたのは、艶めくような黒い毛並みを持つ、四つ足の獣。
「シャドウウォーカーか……これは厄介だな」
暗闇を生きるその獣は、視覚のほとんどを失っている代わりに鋭い嗅覚を有している。腰のランタンの光を気にする必要が無いのは幸いだが、呼吸すら止めて完全に自分の臭いを消さない限り、目の前の魔物から逃げ切る術はない。
「とは言え、それは並の人間ならだ。この私の準備の前では、ね……」
カイゼル髭をひと撫でして、バンは服の胸ポケットから小さな玉を取り出す。そこに黄土色の線が引かれていることをしっかり確認してから、シャドウウォーカーの近くの床目がけて思いきり投げつけた。
「クフォォォォォォォォ!?!?!?」
「ははっ! 特製の臭気玉の味はどうだい? いや、この場合はニオイかな?」
悲鳴のような鳴き声を上げもだえ苦しむシャドウウォーカーに対し、バンは素早く近づいてその首にナイフを突き立てる。するとすぐにその首から真っ黒な血が噴き出し、あっという間にシャドウウォーカーは動かなくなった。
「ふぅ。やはり備えあれば憂い無しだね」
最後にしっかり魔物が死んでいる事を確認し、バンは素早くその場を離れる。今の鳴き声もそうだが、濃密な血の臭いは他の魔物を呼び寄せる。戦う度に用意した道具を消費してしまうバンにとって、戦闘は極力避けるべき行為だ。
急いで、だが慎重に距離を稼ぎ、ちょうど手近にあった小部屋の中にバンがその身を滑り込ませると、壁の向こう側でザワザワと生き物が移動する音が響く。それが消え去り、そこから更にたっぷり一〇〇を数えたところで、ようやくバンは小さく息を吐いてその場に腰を下ろした。
「ひとまずは乗り切ったようだ。なら次は……」
そんな事を呟きながら、バンは降ろしたリュックを探り、そこからひとつの魔法道具を取り出す。それは鉱山などで使われる、空気の流れを調べる魔法道具だ。
「……反応が今一つだな。これは帰路を探すより、最奥を目指す方が早いか」
この手の遺跡……特に墳墓では、最奥からのみ通じる地上への直通通路が往々にして存在する。これはそこに入れるべきモノを運び込むのに、こんな長大で罠だらけの道を通るはずがないからだ。
そしてその手の通路はどうやっても外からは発見できない。それこそ遺跡を解体するほどの手間をかければ別だが、そんな予算と時間があるならそもそも単独で遺跡に突入したりはしないだろう。
なお、これがもっと昔、それこそ一万年前の古代遺跡となると人を直接別の場所に飛ばす魔法陣などがあるため当てにならなくなるが、今いるのは二〇〇〇年前の遺跡。であれば今回もそう言う通路がある可能性が高く、ならば半端に戻る道を探すよりは奥へ奥へと進む方が調査的にも生還率的にも高い……そう判断したバンは、魔法道具をリュックにしまい、今後の行動方針を決めた。
「よし、奥へ進もう。そのための準備は整っているのだからね」
自慢のカイゼル髭を撫でつけ、バンがフッと小さく笑う。
常に準備を怠らない男、バン・ジャック。その堅実な足取りは、着実に確実に遺跡の奥へと踏み込んでいった。