父、勝負を決める
「グァァァァァァァァ!」
雄叫びを上げながら、一度はニックの側まで降りてきていたエルダーワイバーンの巨体が天高く飛び上がる。それを追いかけ殴り飛ばすことは簡単だったが、ニックはそうしない。
「せっかくだ。お主の全力を見せてみよ!」
拳を握り左足を一歩前に踏み出して半身の構えをとるニックに、豆粒ほどの大きさになったエルダーワイバーンが猛烈な勢いで急降下してくる。
ワイバーンの攻撃手段は主に三つ。組み付いてからの大きな口と牙による噛みつき、大質量を生かした体当たり、そして最後は――
「爪か!」
ワイバーンの足はあくまで蜥蜴のような作りであり、鳥のように「掴む」動作には向いていない。だが代わりに細く長くまっすぐに伸びる指の一本が太く強靱な爪になっており、獲物を運ぶときはこれで刺し貫くことで引っかけて運ぶ。
大質量、高高度からの急降下による猛烈な加速を攻撃力に転化したワイバーンの一爪は大岩さえも打ち砕く程に強力無比。だがそれを受けるニックは大岩如き脆弱な存在ではなかった。
「ふんっ!」
「グァァッ!?」
とてつもない力の加わった爪を、ニックは正面から受け止めた。大地に足をめり込ませつつも右腕を絡め脇で固めたことにより、足が固定されたエルダーワイバーンは「前につんのめる」という生涯初めての経験をする。だが、それで終わりではない。
「なかなかいい衝撃だ。だが……通じぬ!」
ニックの左手による手刀が、抱え込んだエルダーワイバーンの爪の根元に打ち下ろされる。ベキッという鈍い音を立てて大人の腕ほどの太さのあるエルダーワイバーンの爪があっさりと折れた。
「さあどうする? 爪は折ったぞ? それとも反対の爪も折られたいか?」
「グルルルル……グァァァァ!」
捕まれていた爪を折られたことで結果的に自由を取り戻したエルダーワイバーンが、ならばとその大きな口でニックの肩に食らいつく。強靱な顎の力をもってニックの皮膚にその鋭い牙を突き立てるが……
「ぬるい!」
「グガッ!? ギャゥゥゥゥ……」
自分の肩に食らいつくエルダーワイバーンの頭を、ニックはそのまま締め上げる。苦しげに呻くエルダーワイバーンの噛みつく力が徐々に弱くなっていき、程なくしてニックの肩からその口が離れたが、それでもニックは締め付けを緩めない。
「どうした? これで終わりか? この程度で終わりでいいのか?」
「グル……グルル……グギャァァァ!」
「おっ!?」
挑発するようなニックの言葉に、エルダーワイバーンは爪の折られた方の足で渾身の蹴りを入れることでニックの拘束から脱することに成功した。爪が折られたことによって足の可動域が広がったからこその芸当だ。
「グルル……グルル……ギュァァァァ!!!」
「むうっ!?」
『ニック!』
そうして体を離したエルダーワイバーンが、今までとは違う鳴き声をあげる。すると周囲で成り行きを見守っていた残りのワイバーン達が一斉にニックに群がり、腕に足に頭に肩に、ニックの全身に無数のワイバーンが噛みついた。
「ニック様!?」
『お、おい貴様、大丈夫か!?』
「だ、駄目だ……これは……」
馬車の中とオーゼンから聞こえた悲鳴じみた声に、ニックは初めて弱音を吐いた。
『駄目だと!? 貴様ほどの男がこの程度の魔物に何を――』
「臭い……」
『くっ、我に肉体があればすぐにでも……臭い?』
「そうだ。猛烈に臭い……」
ニックの頭は、ワイバーンの大きな口によってまるごと飲み込まれるように噛みつかれていた。普通ならばそのまま首を食いちぎられ頭を丸呑みにされるところだが、当然ワイバーン程度の牙ではニックの肌にかすり傷すらつけられない。
だが、ワイバーンの口の中は臭かった。溢れる唾液がニックの顔をベチョベチョに濡らし、呼気に交じって喉の奥から湧き上がる生暖かくかつ生臭い息が、ニックにこの戦いで初めてのダメージ……精神的なだが……を与えていたのだ。
『……そうか、臭いか。まあ蜥蜴の口の中は、そりゃ臭いであろうな』
「ええい鬱陶しい! 離れんかこの!」
「グゲッ!?」
そう言ってニックは両手を振り回して腕やら肩やらに噛みついていたワイバーンを弾き飛ばすと、次いで足やら腰やらに無理目な体勢で噛みついていたワイバーンの首根っこを掴んでぶん投げ、そして最後に頭に齧り付いていたワイバーンの口を両手で開いて頭を引き抜くと、そのまま遠くへ投げ飛ばした。
「ふぅ。酷い目に遭った……」
『そうか、酷い目か。おそらくあれだけのワイバーンに噛みつかれて「酷い目」ですますのは、貴様くらいなのであろうな……』
「全く! 部下をけしかけ数の力を利用するのも王の力のひとつとはいえ、このような嫌がらせを――っ!?」
瞬間、ニックの体が中に浮いた。部下を使ってニックを拘束し、その視界すらも塞いだエルダーワイバーン。それが再度自分の飛べる限界の高さまで跳び上がると、なりふり構わぬ全力を持ってニックの体に体当たりを食らわせたのだ。
「……そうか。それがお主の矜持か」
瞬間的な方向転換により空高くへと運ばれていくニックは、空気の壁とエルダーワイバーンの体に挟まれながら小さくそう呟いた。自身の体の限界すら無視した最後の突撃により、エルダーワイバーンの首はぐにゃりと折れ曲がっている。
放っておいても数分で……あるいは次の瞬間にはエルダーワイバーンは息絶えるだろう。だがそこまでしてでも勝利に執着した相手に対し、ただ待つだけなどそれこそニックの矜持が許さない。
「眠れ、ワイバーンの王よ。お主の戦い、見事であった!」
故にニックは両手を組み合わせ、渾身の力でエルダーワイバーンの頭に振り下ろした。叩きつけられることすらなくその場でエルダーワイバーンの頭が砕け散り、推力を失ったニックとエルダーワイバーンの体が遙か高空から重力に従って落下していく――
「ああっ!? 落ちます! ニック様が落ちてきますわ!」
「そうですね。落ちてきますね」
可愛い悲鳴を上げる姫に対し、護衛の言葉は冷静だった。いや、いっそ感情が死んでいると言ってもいいだろう。
「ガドー!? 何故そんなに冷静なのです! あの高さから落ちたら……」
「そう申されましても、少し前にも同じくらいの高さから着地していたではありませんか」
「っていうか、僕の見間違えじゃなければ空気を蹴って跳んでたよね……」
「あの高さから落ちるのとワイバーンの爪撃を受け止めるの、どっちが衝撃が強いんですかね?」
「ガドー! シルダンにマモリアも、もっとあの方を心配してください!」
「心配と申されましても……」
ガドーの声には、若干の呆れが交じっている。ひときわ大きかったワイバーンを倒したことで、周囲に残った一〇匹ほどのワイバーンも既に逃げ去っている。つまりこれで戦闘は終了であり、結局ニックは宣言通りに一人でワイバーンの群れを全滅させたのだ。
そんなニックが、たかだか高所から落ちる程度でどうにかなるはずがない。常識では考えられないことだが、この場の全員はニックの非常識さを嫌と言うほど見せつけられており、なればこそ心配するなどという気持ちはこれっぽっちも湧いては来なかった。
「そもそも、何故そこまであの者のことを気にかけるのです?」
「それは……」
そう言われて姫は言葉に詰まる。
ニックの傍若無人な戦いぶりは姫の心を強く惹きつけた。何者にも屈しないと思われる理不尽なほどの強さと、それを思うままに振るう自由な生き様。王族という強い力をもちながらその実何一つ自由にならない人生を送ってきた姫にとって、僅かに垣間見たニックの在り方はあまりにも鮮烈だったのだ。
だが、それを素直に口に出すわけにもいかない。どれほど焦がれたとしても、結局自分が王族であるという縛りからは逃れられないことは姫自身が一番良くわかっていた。
「あ、落ちた」
と、そこで大きな地響きと共にニックが地上へと落ちてきた。再び巻き起こる土埃の向こうにその場の全員が注視する。すると程なくして煙は晴れていき、そこから現れたのは頭を無くした巨大なワイバーンと、もう一人――
「うむ! 久しぶりにいい戦いであった!」
そう言って軽やかに笑う、無傷の筋肉親父の姿であった。





