父、潜る
「行くぜ!」
開始の合図と同時に、マケカクは走り出す。向かう先は勿論海……ではなく、浜辺にある小さな小屋だ。マケカクだけでなく地元の参加者は皆一様にそこを目指し、我先にと小さな入り口をくぐっていく。
中にあるのは、漁師達が日常使っている仕事道具。壁に立てかけられた銛や床に積まれた投網なども重要ではあるが、まず何よりしなければならないのは着替えである。
「よし、まだあるな」
水生の魔物の皮を使ったツナギ服を手に、マケカクは小さく拳を握る。水を弾き体温を保つ極めて優れたこの服だが、材料となる魔物は意外にも海にはいない。海の魔物は総じて沖に出るか深く潜るかしなければ遭遇しないので、実はこの手の装備は遠方からの輸入品であったりする。
つまりは、高い。船に乗って漁をするなら絶対に必要というわけでもないので、誰かが溺れたときや海に潜る必要があるときにだけ使い回せるようにと数着がここに保管されているだけなので、この競技においてはこの服を確保できるかどうかは極めて大きな違いとなる。
幸先良くそれを確保できたマケカクは、急いで服を着替えていく。すぐ側には幸運にも服を手に入れられた知り合いの男が同じように着替えていたり、生憎と間に合わず、それならばと銛や網などの道具を優先して確保する者などがおり、この小さな小屋の中ですら既に駆け引きが始まっている。
「悪いな、お先!」
「チッ、すぐ追いついてやるからな!」
そんな中、必要なものを確保したマケカクが先陣を切って小屋からでる。そのまま一直線に海まで駆けるマケカクだったが、そんな彼に併走しながら文句を言うのはマチョリナだ。
「あーっ! 何その服!? 銛も持ってる! うっわ、ずるっ!」
「ズルくない! この町の漁師の共有財産を、この町の漁師である俺が使って悪い事なんてあるもんか! ってか、マチョリカは一人で行かなかったのか?」
「だって、マケカクがいきなり海と反対方向に走るから、どうしたのかなーって気になったんだもん。そしたら変な小屋に入っていくのが見えたけど、流石に見ず知らずの場所に人を押しのけて入るのはどうかなって思ったし……」
「そっか。お前意外と常識あるんだな」
「何その変な上から目線!?」
「そりゃだって、いきなり海であんなこと言い出す奴だし……」
「うー、まだ言うかー!」
こちらを叩こうとしてくるマチョリカを必死でかわし、マケカクは走る。現役の冒険者だけあって地上を走る分にはマチョリカの方が早いし、息も切れていない。すぐに捕まりそうになるマケカクだったが、その足に水の感触が生まれる。
「悪いな、俺も本気なんだ。後は自分で頑張ってくれ」
「あ、こら、待てー!」
最後にそれだけ言い残すと、マケカクは一気に海の中へと飛び込んだ。特製の服は水の抵抗すら和らげてくれるため、あっという間に金目の魚の群れる場所へと泳ぎ着く。
(さあ、これが最後の勝負だ。俺の全力、見せてやるぜ!)
言葉には出さずとも、その瞳は強く輝く。マケカクの手にした銛は、次々と魚を穿っていった――
「ふむ、では儂もそろそろ行くか」
開始の合図と共に誰もが駆けだした浜辺。その場にて皆が走り去るのを見届けてから、ニックはゆっくりと海の方へと歩き始めた。
『随分のんびりしておるのだな。貴様のことだから真っ先に駆け出すかと思ったが』
「はは。何かを奪い合うというのなら速度は重要だが、儂の狙いには関係ないからな」
『ほぅ? 我には貴様が何を狙っているのか未だにわからんのだが』
「ふふ、すぐにわかるとも。すぅぅぅぅぅぅ……」
海へと移動しながら、ニックが大きく息を吸う。吸って吸って吸い続けて、その巨体が海へと辿り着いたところでようやくニックがその息を止めた。
「…………」
そのままトプンとニックが海に沈んでいく。深く深く、なお深く。最初はゆっくり、だが段々と速度をあげて潜り続ければ、水面は遙か彼方になり、やがては日の光すら届かぬ深淵の世界へと辿り着く。
『これは……!?』
周囲は水。周囲は闇。オーゼンの魔力感知の範囲には無明の世界が広がるばかりで、既に上も下もわからない。そんな場所においてなお、ニックは迷うことなく何処かへと向かって進んでいく。
『何か……いる? 大きなモノの反応があるような……?』
そんなニックが、不意に動きを止める。暗視の魔法など使えないニックには、周囲の様子など何も見えない。
だが、感じないわけではない。空気よりもずっと重く濃い水に包まれているからこそ、巨大なうねりがそこにあることを如実に物語ってくれる。
「……………………」
無言で、ニックは拳を引き絞る。何も映らぬ闇の向こうを心の眼で見透かして、ただじっと機会を待つ。
『来る。来るぞ! 何かが来ている! 気をつけるのだ貴様よ!』
オーゼンの声が、若干うわずる。オーゼンの魔力感知でわかるのは、巨大な動く壁。あまりにも大きすぎて壁としか認識できない何かが、間違いなく自分達の方に向かって近づいてきている。
『何なのだ!? 一体どれほどの質量なのだ!? こんなものがこの世界に存在できるのか…………っ!?』
オーゼンが言葉を詰まらせた時、ニックの体を包む水がぬるくなる。何も見えない暗闇のなかで、ニックはいつの間にかナニカの口の中に入り込んでいた。
「――――――――」
「ソレ」にとって、海中に漂う全てのモノは餌だった。ただ口を開けて泳ぐだけで餌が勝手に入ってくるので、後は飲み込むだけ。それだけで「ソレ」に抵抗できるものなどこの世界には存在せず、故に「ソレ」は何も考えること無くただただ深い海の底を泳ぎ回る。
今日もまた、「ソレ」の口に小さな餌が入ってきた。だがその瞬間、「ソレ」は久しく忘れていた本能のうずきを感じる。
噛み千切れ。噛み砕け。確実に命を奪ってから飲み込め。でなければ――死。
「ソレ」は久しぶりに口を閉じた。その巨体にかかる圧力をある程度自在に操る能力を持っていた「ソレ」は、己の体中にかかっている膨大な圧力を一点に集中し、餌を噛むべく牙を立てる。
「――――――――」
だが、牙が通らない。光すらねじ曲げられそうな圧倒的な圧力をかけてなお、その餌を傷つけることは叶わない。
「――――――――」
その瞬間、「ソレ」の巨体に衝撃が走る。どれほど巨大か自分でもわからない体全体が、僅かな時間だけとはいえ震える。
気づけば、牙が折れていた。それと同時に口の中から餌が消えているとも感じた。
「ソレ」は餌を追わない。「ソレ」には執着心や復讐心などというものはない。ただ悠然と海を泳ぎ続けるだけの「ソレ」に、そんな細かい感情などない。いなくなったというのなら、次の餌を食えばいい。「ソレ」はまた口を大きく開け、再び海を進み始めた。
ただその頭に生まれて初めてよぎった感情……それが「恐怖」であったということを、「ソレ」は生涯知ることはなかった。