父、我慢(?)する
「うぅ……糞っ、どうやらここまでみたいだな……」
顔を青くした男性が、また一人海から上がっていく。多少ふらふらしながらもきっちり自力で陸に上がれるのは、この祭りが毎年恒例であり参加者もまたしっかりと自分の限界を理解しているからだろう。
「おーっと、ここでまた一人脱落! 残っているのはあと三人だぁ!」
「例年であればそろそろ決着のはずでしたが、今年は本当に凄いですね」
アナリスの絶叫とトリセツの冷静な解説が会場に響く。そんななか皆の注目を集めるのは、当然残った最後の三人。マケカクとマチョリカ、そして何より、あの岩を持ち上げた筋肉親父……ニックである。
「なあマチョリカの姉さん、そろそろキツいんじゃないか?」
「ふふーん。確かにそろそろ冷えてきたけど、でももうちょっとは平気かなー? そういうマケカクこそ辛いんじゃない?」
青くなった唇を震わせるマケカクに対し、マチョリカもまた健康的に日焼けした肌を若干白くさせながら答える。どちらもそれなりに消耗しているが、どちらかと言うならマケカクの方が限界は近い。
が、それを素直に認めるようならこんな祭りに参加するはずもない。
「ハッ! 馬鹿言うなよ。このくらい……ぶるっ、何でもないぜ……っ!」
「無理は駄目だよ? マケカク君?」
「うるせー! 何でもないったら何でもないんだよ!」
短時間とは言え辛い境遇を共に過ごしていることで、マケカクとマチョリカは随分と打ち解けていた。ちなみにマケカクが二〇歳だったのに対しマチョリカは二四歳であり、彼らの間には既に年上対年下という力関係が構築されつつある。
「それより、オッサンの方はどうなんだよ? オッサンの歳じゃそろそろ限界も近いだろ?」
「ん? いや、儂の方は全然平気だぞ?」
そんなやりとりから逃れるためにマケカクがニックに話題を振るが、言われたニックは平然とそう答える。実際その様子は余裕たっぷり……どころか地上で話していた時と何も変わることがない。
「おっちゃん、本当に全然平気そうだよね」
「はっは。所詮は水が水として存在できる程度の冷たさだからな。この程度で音を上げるようなやわな鍛え方はしておらんのだ」
「うわぁ。なんかもう、うわぁ……」
朗らかに笑うニックに、マチョリカがちょっとだけ引く。自分の体からは冷たい海水が容赦なく熱を奪っているというのに、同じ条件でここまで平然としているのは不可解を超えて理不尽にすら思える。
「いや、ホントどうなってんだよオッサンの体……」
そして、マケカクもまた呆れたような声を出す。毎年この祭りに参加して様々な参加者を見てきたからこそ、ニックがやせ我慢をしているわけではないというのがわかってしまう。
(くそっ、また俺は勝てないのか! それでも、せめてマチョリカくらいには勝たなきゃ……)
ニックはもはや、どうしようもない。『腕比べ』に続いてこの『我慢比べ』でも、おそらく自分はニックに勝てないのだろうとマケカクは悟ってしまう。だが結果として負けてしまうことと、負けを悟って諦めることには大きな違いがある。
故にマケカクは粘る。最後の最後、本当のギリギリまで己を振り絞るため、冷えた体を熱い心で奮い立たせようと必死に気合いを入れる。
「んっ……」
と、そこでマチョリカがプルりと体を震わせた。その表情に赤みが差し、明らかに動揺したのが見て取れる。
「どうしたマチョリカ? 限界なら無理しない方がいいぜ?」
「いや、そういうんじゃないんだけど、でもちょっと冷えちゃったって言うか……」
「? 何だよ?」
「だからその……ちょっとオシッコしたくなっちゃったってかなーって」
「……………………」
顔を赤らめて言うマチョリカに、マケカクがスッとその場から少し遠ざかる。
「あーっ!? 何で離れるのー!?」
「そりゃだって、なあ?」
「しないよ!? そんな女子力の低いことするわけないじゃん!」
「そうだな。俺は何も見てないから、気にしないでくれ」
「もーっ!」
マチョリカがポカポカとマケカクを叩くが、マケカクはそっぽを向いてそれを無視する。
「ハッハッハ。したいというならしてしまえばいいではないか。儂は気にせんぞ?」
「ちょっ、本気かオッサン!?」
「無論だ。戦闘中にもよおせばそのまま垂れ流しにする者とているのだ。それに比べれば水中なぞむしろ絶好の致し場所ではないか」
この世に生きている存在である以上、排泄は絶対について回る凶悪な生理現象だ。激痛を耐えきる強者だろうと長時間排泄を我慢するのは不可能であり、耐えるにしても解消するにしても大きな隙が生まれることになる。
しかもそれは町の近場で依頼をこなす新人よりも遺跡の奥に潜ったりする腕利きの方がより大きな問題となるため、一流の冒険者こそ排泄には気を配り、また同時に無頓着になる。尿意を我慢して集中を乱したり、汚れるのを嫌がって危険な場所で装備を外したりするような愚か者に待っているのは、糞尿にまみれた己の死という悲惨な結末だけなのだ。
「うへぇ。冒険者ってのも大変なんだな……」
「だから何でこっち見るの!? しない! あたしはそんなことしないんだから!」
マチョリカの殴る力がやや強くなり、同時にニックにも拳が飛んでくるようになる。だが水中等という不安定な場所で若い女性であるマチョリカの拳など、ニックにとっては痒くすらない。
「もーっ! いいよ、あがる! バーカバーカ!」
結局頬を膨らませたマチョリカは、不満の言葉を口にしつつも海から上がっていった。そうして最後に残ったのは、マケカクとニックの二人。
「はは。すっかり怒らせちまったな。ありゃ後が怖そうだ」
「だな。それでお主はどうするのだ? まだ頑張るのか?」
マチョリカを見送ったマケカクに、ニックがそう問いかける。マケカクの顔色は明らかに悪くなっており、ニックの見立てではそろそろ限界に近い。
「そうだな……いや、俺もそろそろあがるよ」
「ほぅ?」
てっきり意地を張るとばかり思っていただけに、ニックは意外そうな声をあげる。そんなニックに、マケカクは苦笑いを浮かべて答えた。
「俺だって毎年この祭りに参加してるんだ。自分の限界くらいわかってる。それに祭りはまだ終わってねーんだ。ここでぶっ倒れるわけにはいかねーだろ?」
「そうか。うむ、実に賢明な判断だと思うぞ」
「チッ、上からの物言いだな。まあそれだけの結果を出してるんだから仕方ねーけどさ」
鷹揚に頷くニックに、マケカクは悔しげに呟く。自分より遙か高みにいる相手の声が上から聞こえてくるのは当然だ。それに癇癪を起こすほどマケカクは子供ではないし、それに……
(次だ。まだ次がある。次の勝負なら……俺が勝つ!)
「それじゃ、先にあがるぜ。一応記録に挑戦するのもアリのはずだけど、オッサンもほどほどで来いよ? 祭りの終わりまで一人で海に浸かってるなんて、そんなつまらない幕引きをするつもりはねーんだろ?」
「無論だ。ならば儂もお主に続いてあがることにしよう」
冷え切った体をゆっくり動かし、溺れないように気をつけながらマケカクが浜の方へと泳いでいく。その背後では筋肉親父が同じように泳いでいるが……漁師の一家に生まれ、それこそ物心ついた頃から海に入っていたマケカクには、背後の人物の動きに一切の淀みが無いことがわかる。
(本当に余裕ってか。でもその余裕が通じるのは、ここまでだぜ)
「さあ、遂に最後の二人が浜へと戻ってきました! 極寒の海を誰よりも耐えきった二人を、温かい拍手で迎えてあげてください!」
「一時間もの長丁場の戦いは、正しく前人未踏でしたね。お二人にはしっかりと体を温めて欲しいと思います」
アナリスとトリセツの言葉に、浜に上がる二人の『漢』に惜しみない拍手が与えられる。そんななか幼なじみに抱き留められるマケカクの胸には、ただ勝利への渇望だけが燃えていた。