父、寓話を聞く
「なるほど、そんなことがあったのですか……」
ニックとオーゼンの話を聞き終え、ピースが感慨深げにそう呟く。
「一万年……それがどれほどの孤独であるのか、私には想像することすらできません。それを経てニック様と出会った時の気持ちも、外に出て新たな世界を目にした思いも、人に囲まれ、人に恵まれ二二年の生を謳歌した私には何もかもが理外のことです。
ですが、それでも言わせてください。今日こうして貴方と出会えたことに、心からの感謝を」
『うむ……』
全てを包み込む母のような微笑みを浮かべるピースに、オーゼンは感じたことの無い気持ちを覚える。もしもそれを人が言語化するならば、きっとそれは安らぎや温もりといったものであることだろう。
「あとは……こう言っていいのかはわかりませんが、安心致しました。決して古代文明が安易に魂を生み出せるのではなく、オーゼン様がそれだけの道を歩んできたからこそなのですね。
そもそも高度な知能を与えられ、それが一万年という気の遠くなるような時間で器を拡大し、そこにニック様が己の魂を持ってオーゼン様に触れたからこそ生まれた奇跡。本当によいものを見せていただきました」
テーブルに置かれていたオーゼンの体を、ピースの手が優しく撫でる。当然だが、ニックの手は既にそこにはない。
「はっはっは。褒められているぞオーゼン?」
『そう、なのか? よくわからんが……まあ悪い気はせんな』
「それに……ウフフ」
と、そこでピースの顔が僅かに笑み崩れた。春の太陽のような優しさのなかに、ほんの僅かに異質な何かが混じる。
「黄金の獅子頭……これがニック様の股間に直接……フフフフフ……」
オーゼンを撫でるピースの手つきが、どことなく変化する。金色のメダリオンの表面で踊る指先の動きは何処か扇情的で誘うようだ。
『せ、聖女殿? これは一体……おい貴様、何だこれは?』
「んー? 儂は何も知らんぞ」
混乱するオーゼンに、しかしニックはそっぽを向いてとぼける。正体不明の藪ならばとりあえず殴ってみるのも手だが、舌なめずりをして誘っている竜の巣に飛び込む趣味はニックには無かった。
『ぬぅ、やはりこの女も貴様の周囲に集まる者だったということか……しかし聖女という割には、随分と欲望に素直のようだな』
「あら、欲があることは別に悪いことではありませんよ?」
苦り切った口調で言うオーゼンに、ピースはくねくねと指先を動かしながら言う。
「欲というのは薬と同じです。確かに多すぎる欲は人を惑わし苦しめるものですが、適量であれば明日を頑張る活力となります。なので私達は人の欲を否定したりはしないのです。
そうですね……『聖者と亡者』というお話をご存じですか?」
『いや、我は知らぬ。貴様は知っているのか?』
「あー、どうだったかな。以前に家に来た神官殿に聞いたことがある気もするが」
そんな二人の言葉に、ピースはオーゼンから手を離して姿勢を正す。
「では、せっかくですからきちんとお話致しますね。それは――」
――それはずっと昔。とある国の西と東にそれぞれ一人の神官がおりました。そのうち西の神官は『私が人を癒やすのは神から与えられた使命である』と言って、何処の誰を癒やしても決して見返りを求めませんでした。そんな高潔な姿から、人は西の神官を『聖者』と呼んで崇めました。
対して東の神官は、『私が人を癒やすのは神から与えられた職務である』と言って、人を癒やす時に自らが十分に暮らしていけるように対価を求めました。勿論暴利というわけではなく怪我や病気が治るのであればごくまっとうな金額ではありましたが、一部の人々は高潔な西の神官の在り方と比べ、東の神官を『金の亡者』だと言って蔑みました。
そうして時は流れます。一切対価を受け取らなかった西の神官は常にボロボロの衣服を纏い、その日食べる物にすら困ることもあったことから、四〇歳を待たずしてその命を散らせてしまいました。
それに対して東の神官はごく普通に家に住み食事を食べ、やがて伴侶を見つけて結婚をし、子供や孫に囲まれて八〇歳で息を引き取りました。彼は死ぬ間際まで己の力で人を癒やし続け、その子供や孫もまた彼の生き方を見て癒やしの術を学び、結果東の神官の一族はその後何百年にもわたって人を癒やし続けることになります。
奇しくもより多くの人を救ったのは、誰もが尊いとその名を呼ぶ『聖者』ではなく、人に非難されても尚己の生き方を貫いた『亡者』の方でありました――
「とまあ、こんなお話です。実際私達は癒やしの術を用いる際はご喜捨をいただいておりますし、己の全てをなげうって人を助けたりはしません。美味しいものを食べたいとか好きな人と結婚したいとかの欲も普通に持っていますし、そのために頑張ったりもします。
だってそうでしょう? 救うべき私達が幸せでなくて、どうして救われるべき人々に真に笑顔を向けられるでしょう? 全ての人が高潔ではありません。人は自らに余裕があってこそ他人に優しくできるのです。
勿論欲にまみれた生活をするつもりはありませんが、欲は生きる原動力です。私が人を救いたいと思うこともまた私の欲であり、だからこそ私は己の欲を否定することなく人々をこの手で救うのです」
「なるほどなぁ」
『実に含蓄のある話だ。綺麗事だけの言葉よりもよほど深い』
ピースの話に、ニックとオーゼンは深い感銘の言葉を漏らす。実際ニックの知る教会関係者は疲れた顔をしていることはあっても、辛そうな顔をしている者は滅多にいなかった。
「勿論、ご喜捨をいただいた場合しか救わないということではありませんよ? 日々に余裕があるからこそ、その余裕を以て貧民街などに出向き無償で癒やしの術を施すこともしております」
『む、そうなのか? だがそれでは金を払った者から不満が出るのではないか?』
「ええ、そういう方もたまにいらっしゃいます。なのでその場合はこういうことになっているのです」
そこで一旦言葉を切ると、ピースは胸の前で両手を組み天を仰いで言葉を紡ぐ。
「貴方が怪我や病で苦しんでいる時、ご喜捨をいただければ即座に神官が貴方を癒やしに行くでしょう。ですが持たざる彼らは自らが苦しんでいるかどうかに関係なく、私達が出向いた時にしか癒やしを受けられません。そしてそうやって出向けるのは、普段余裕のある方からご喜捨をいただいてるからなのです。
それでもそれを不公平だと言うなら、是非貴方の持つ全ての財をなげうってみてください。いつ訪れるかわからない神官を苦しみながら待ち続けることができるなら、私達は持たざる貴方に喜んで無償で癒やしを施しましょう……どうです?」
「ハッハッハ! それは何とも、皮肉が効いているな」
悪戯っぽい笑みを浮かべて言うピースに、ニックが豪快に笑う。教会が暴利を貪っているなら話は別だが、彼らが得ているのは正当な対価だ。本当に苦しんでいる者にならば同情もするが、単に金を払いたくないだけの輩に配慮することなど何もない。
「と言うわけで、聖女などと呼ばれている私にもきちんと人並みの欲があるんですよ? さっきも言いましたけど、好きな人と結婚するとか……ぽっ」
聖女の指が、再びオーゼンの上で踊る。細められた流し目がニックの方を向くが、当のニックはまたも顔を横に背けてとぼける。
『やめろ、やめるのだ聖女よ! そんなことあるはずがないのだが、どうにも其方の指は我の体をえぐるような気がするのだ!』
「ウフフ、ニック様ったら、そんなに照れなくても宜しいですのに」
「ふぅぅ……あー、茶が美味いな……」
頬を染める聖女を余所に、ニックはすっかり冷めてしまったお茶をひたすらに飲み続けるのだった。