孤高の魔狼、かつてを想う
初めてサビシが人間と出会ったのは、彼が森に君臨するようになってから数年が過ぎた時のことだった。元々魔族領域の奥に入ってくる冒険者の数は決して多くなく、また当時の戦線は西南の方に伸びていたため、北部はほとんど未開の地だったからだ。
『ありゃ驚いたぜ。何せ俺は自分が使えるこの言葉が、人間の言葉だったってことを知らなかったんだからな。初めて見た小さい奴らが俺と同じ言葉を使ってるのを聞いた時は、驚きすぎて思わず遠吠えしちまったくらいだ』
近くに魔族でも住んでいれば話は違ったのだろうが、生憎とサビシが生まれた森は月光狼の支配する縄張りであり、そこには言葉を話す魔族はいなかった。そのせいで同胞にとってサビシは「何だかよくわからない音を頭に直接流し込んでくる奴」であり、それがサビシを群れから遠ざけた一因となったことは無理からぬ事だろう。
『だがまあ、今考えりゃそれが不味かったんだろうなぁ。あの野郎共、俺の遠吠えを聞いていきなり攻撃してきやがった。まあ自分の何倍もでかい奴に吼えられたら、そうする気持ちはわかるけどよ』
もしも第一声で小粋な挨拶でもしていたら、また違う流れもあったかも知れない。だが現実は剣を向ける冒険者達に対し、サビシがとった行動は反撃。相手はそれなりに強かったが、結局サビシはそのほとんどを食い殺し、悲鳴を上げて逃げていく者は追わなかった。見逃せば次が来るかも知れない、その危険性を理解してなお、自ら「次」を望むが故に。
『飢えてたんだろうなぁ。ああ、腹じゃないぜ? どいつもこいつもウガウガだのワフワフだの言うだけで、言葉を話しゃしねぇんだ。そこに遂に現れた話の通じる相手……危ねぇとわかっててもこれを逃す気にはなれなかった。
そして実際、それからは時々ニンゲンがやってくるようになった。大抵の奴は問答無用で攻撃してきたが、それでも会話が出来ないってわけじゃねぇ。戦闘中に呷ったり、始める前に何か偉そうな事を言ってやったり……アレはアレで楽しかったな』
森の頂点に立ったサビシにとって、狩りはもはや作業でしかなかった。それに対して向かってくる冒険者との戦いは、その最中の会話も含めてサビシにとっては得がたい娯楽となる。時には危ないこともあったが、だからこそ真剣勝負は楽しく、時を経れば経るほどにその最中だけがサビシにとって生を実感できる瞬間となっていった。
「その結果があの依頼か。儂が見た当時ではかなりの金額だったぞ?」
『へっへっ。そいつぁ嬉しいこった。何せ俺がお前等ニンゲンに認められたってことだからな』
ニック達が魔族領域にやってきた時、人類の最前線たる町の冒険者ギルドには、周辺に巣くう凶悪な魔物の依頼書が幾つも掲示板に張り出されていた。そこには北部の森を根城にするサビシの情報もあり、その首には金貨にして五〇〇〇枚の値がついていた。
『ま、だからだろうなぁ。最後に戦った奴らは強かったなぁ……そして遂に、俺はお前達と出会った』
サビシの巨大な顔が動き、フンと鼻を鳴らす。人より遙かに優れたその鼻に蘇るのは、あの日の光景、あの日の臭い――
『フン。今日は随分と客の多い日だ』
「うわ、本当に喋った! ……喋ったでいいのよね?」
「そんな細かいこと気にしてる場合じゃないでしょぉ!?」
輝く白銀の毛皮を大量の血で汚した巨大な狼を前に、気の抜けた事を言うフレイにムーナがツッコミを入れる。
「ふむ。儂等がここに来る前に、他の冒険者達が来ていたはずだが……」
『あのやたらキラキラした鎧の奴らか? あいつらなら全て殺したぞ』
何気ない巨狼の言葉に、フレイの顔が一瞬にして引き締まる。手にしたばかりの勇者の剣はまだまだ力の一端すら引き出せてはいないが、それでも血に汚れ本来の力を失っている魔物の毛皮を切り裂くくらいの威力は十分にある。
「待て、フレイ」
だが、そんなフレイをニックは腕を伸ばして制する。そうしてそのまま巨狼の方へと歩み寄り、その眼前で立ち止まるとまっすぐに巨狼の瞳を見つめた。
『何だニンゲン? 今更命乞いか?』
「まさか! 今にも死にそうな相手を前に、何故そんなことをする必要がある?」
ニックの目は、目の前の魔物が瀕死の重傷を追っていることを見抜いていた。それでも堂々と立ちはだかるのは、偏に魔物の持つ誇り高さ故。
『舐めるな! この俺に同情するだと!? 脆弱なニンゲンの分際で――』
「ははは。確かに儂は人間だが……決して弱くはないぞ?」
『うるさい! お前なんてこの俺がひと飲みにしてやろう!』
「フレイ、ムーナ! 手を出すなよ。これは儂と此奴の一騎打ちだ!」
「父さんがそう言うなら……」
「好きにすればいいわぁ」
ニックの言葉に、厳しい表情をしていたフレイがその構えを解く。ムーナもまた杖を下ろし、二人はその場から数歩下がった。
「さあ、準備はいいぞ! かかってくるがよい!」
『見下しやがって! 後悔しろニンゲン!』
久しく感じなかった怒りの感情をそのままに、巨狼はニックに襲いかかる。だが自慢の爪も牙もニックにはまるで通じず、逆にニックの拳は傷ついた体に痛烈に響く。
それは熱く激しく、だが戦いとも言えぬやりとり。力の限りを尽くし、それでもニックに傷一つつけることのできなかった魔物の巨体が、やがて大きな音を立てて大地へと倒れ伏した。
「ふむ、ここまでか」
『見事だニンゲン。俺が弱っていたことを差し引いても、お前は最強の相手だった……殺せ』
「む? 何故だ?」
『何故、だと!? 貴様、この戦いを汚すつもりか!?』
「お主が真に戦いを尊び、それを望むというのなら引導を渡してやるのが筋なのだろうが……違うのだろう?」
『違う? 何を、俺は――』
「……お主、本当に戦いたかったのか?」
『……っ!?』
問われて初めて、巨狼は自分の意識が変わっていたことに気づいた。もうずっと戦いずくめで、戦いこそが娯楽であると思っていた。
だが違う。戦うことは手段であって、目的ではなかったはずだ。自分が本当にしたかったことは……
『……俺はお前の同胞を沢山殺したぞ?』
「だろうな。だがそれはあくまで戦う意思を持った者だけ。自らこの地にやってきてお主に戦いを挑んだものだけが、お主に敗れて殺されたのだ。もしお主が殺戮を楽しみ、人里に降りて弱き者達を襲うような魔物であったなら、儂は躊躇わずこの拳を振り下ろしたであろうが……」
『そんな下らぬことをするつもりはない。と言うか、そうか、人里。そういう手もあったのか……いや、無理だろうな』
この森で生まれこの森で生きた巨狼には、この森から離れるという発想がそもそもなかった。そして仮にかつての自分がニンゲンの住む場所に行っても、結果は変わらなかったのだろうとも思う。最初に出会ったあのニンゲン達は、迷うこと無く自分に剣を向けてきたのだから。
「それになぁ。儂とて魔物を、それこそお主の同族を殺したこともあるぞ? お主はそんな儂を恨むか?」
『まさか。戦いに敗れ死んだのであれば、それはそいつが弱かったからだ。弱い者が死ぬのは当然だろう?』
そう言いつつも、自分のいた群れの同胞や自分を生んだ父や母……そういう者が殺されたなら、少しくらいは恨むかも知れないと巨狼は思う。だが逆に言えばその程度だ。弱肉強食の価値観は野性を生きる魔物にとって本能と同じくらい揺るぎがない。
「ならば問題はあるまい。少なくとも今すぐお主を殺す必要性を儂は感じぬ。それよりもしてみたいことがあるしな」
『……何だ、ニンゲン。お前は俺に何を望む?』
低い唸り声をあげながら、巨狼はニックを睨み付ける。その視線を涼しげに受け流し、ニックはニヤリと笑って答えた。
「そう身構えるな。儂は単にお主と話をしてみたいと思っただけだ。どうだ魔狼よ。少し儂と話をしてみんか?」
『話……!? お前が、俺と話をしたいだと……!?』
ニックの提案に、今はまだ名を持たぬ巨狼はその大きな口をあんぐりと開いた。