父、未来を憂う
その後ニックは三日ほどかけて、獲物の解体のみならず簡単なサバイバル術などの山で生きる術をギセーシャに教えていった。元々が田舎の村暮らしということや本人の真剣さも手伝って、三日目の午後にはギセーシャはひとまずここで生活できる程度の知識と技術を身につけることができた。
「ふむ。まあとりあえずはこんなところだろう。これ以上詰め込むと知識や技術が身になる前に忘れてしまうだろうからな」
「ありがとうございましたニックさん。おかげで凄く助かりました」
「はっはっは。儂は大したことはしておらん。お主が真面目に頑張った結果だ。胸を張るがよい!」
「はい!」
やり遂げた笑顔で答えるギセーシャの手には、ニックが一人前の証として贈った解体用のナイフが握られている。銀貨一枚ほどの市販品でありニックからすれば予備の予備くらいの消耗品だが、ギセーシャにとってはとんでもない高級品だ。
うっかり値段を聞いてしまい頑なに遠慮を続けたギセーシャだったが、「ずっと一緒にいられるわけではないのだから」というニックの言葉に思うところがあったのか、受け取ったナイフをまるで宝物かのように大事そうに胸に抱えている。
『今日の訓練は終わりか? なら我のお世話もするのだ!』
「ワンコ様! はい、わかりました」
すると、それまで近くで遊んだり狩りをしたりしていたワンコが二人の元に歩み寄ってくる。小さな体で尻尾を振りながらチョコチョコ歩いてくる様はあまりにも愛らしく、その見た目からは強力な魔物だとはとても思えない。
『じゃあギセーシャは我の毛繕いをするのだ! ニックは今日も我の巣を整えてくれ!』
「いいですよ。では、こちらにどうぞ」
『わふん!』
ギセーシャが柔らかい苔土の上に座り込むと、その膝の上にワンコが乗ってくる。そのままダランとワンコが体の力を抜くと、ギセーシャの指がワンコの毛並みを丁寧に梳き始めた。
『わふー。まだ三回目だけど、相変わらず気持ちいいのだ……』
「ふふふ。じっとしててくださいね」
人と魔物。決して相容れぬ存在ながらまるで仲のいい姉弟のようなその光景に、ニックは思わず目を細める。それを邪魔しないようにそっと彼らに背を向けると、ニックはワンコの巣……実質はただの洞穴の所まで歩いて戻ってきた。
「さて、では今日も巣を手入れするか……と言っても、これ以上はどうしたものかな?」
昼間とは言え奥まで光が差し込むことはないのだが、ニックが気合いを入れれば暗闇程度見通せない道理は無い。そうして洞穴全体を確認して、ニックはそのまま腕を組んで考え込んだ。
『我が言うのも何だが、これ以上は貴様では無理なのではないか?』
「だなぁ。何とか厠だけは作りたかったのだが」
腰の鞄から聞こえてくる相棒の言葉に、ニックは渋顔で答える。ギセーシャの特訓の合間にニックはこの巣の整備も行っており、例えば地面は石もろとも踏みしめることで固く平らな状態にし、入り口付近は多少土を盛って雨が降っても雨水が洞穴の内部に入らないように工夫した。
他にも入り口のすぐ側に簡易的な竈を作ったり、毛皮の代わりに落ち葉やら草やらを使ったベッドをこしらえたりもした。動物の皮はなめすのに技術と知識、時間が必要なため、ギセーシャ達が自力で調達出来る素材に拘った結果だ。
だが、逆に言えばそれが限界だった。ワンコは巣穴の内部を広くしたいとは言っていたが、下手に壊すと全体が崩落してしまう可能性が高い。
また人が長期間暮らすとなれば水場と厠の整備が必須になるが、これもニックには作れない。水場は近くに沢があるからいいとして、厠の方は一応木の枝やら葉っぱやらで簡素な覆いを作り、地面に穴を掘ってそれらしい物を作りはしたが、とても長期間の使用に耐えられる出来ではない。
「やはり定住を基本とするなら、職人を呼んで最低限の設備を作って貰う必要があるか。だが難しいな」
『そうか? あの子供と魔物には難しくとも、貴様なら簡単なのではないか?』
ニックの言葉に、オーゼンが疑問を投げる。その程度の資金はニックなら余裕で賄えるであろうし、こういうときにニックが私財を投じるのを惜しむ性格だとは思っていないからだ。
だが、そんなオーゼンの言葉にニックは静かに首を横に振る。
「この場所に人を招くのは可能な限り避けたい。誰か一人でもワンコの存在をしれば、いずれここには冒険者が押し寄せてくるだろうからな」
『何故だ? 確かにあの魔物は貴様の言う通り強力な力を持つのだろうが、かといって無差別に暴れるようには思えなかったが』
「それは違うぞオーゼン。ワンコが暴れずとも冒険者はやってくる。ワンコの爪や牙、皮に血……そして何より、その体内に宿すであろう魔石を目当てにな」
『む……』
真剣な表情で言うニックに、オーゼンが言葉を詰まらせる。
「莫大な金額の素材が手に入るとなれば、魔物を殺すことを躊躇う冒険者などまずおらぬ。そもそも冒険者というのはそういう仕事だしな。
そしておそらくだが、この辺にいる冒険者ではほぼ間違いなく返り討ちにあうだろう。銀級冒険者が二人か三人、それに鉄級上位辺りの冒険者がパーティを組めば倒せるだろうが、そこに至るまでにはかなりの犠牲が出るだろうな」
軽く息を吐きながら、ニックが空を仰ぎ見る。太陽はまだまだ天に高く世界は光に満ちているが、ニックの胸の内にはどうしても暗い影が差す。
「人であれば正当防衛と言えるかも知れんが、ワンコは魔物だ。襲われたから反撃しただけであったとしても、人を食い殺すワンコを目の当たりにして、ギセーシャはどう思うか? そしてついには腕の立つ冒険者に殺されるワンコの姿を見たならば……」
『そんな心配をするならば、最初から彼奴等を会わせなければよかったではないか! あるいはまずは無理矢理にでも引き離し、後に適当な理由をつけて誤魔化すとか……』
「それも一つの手ではある。が……そこまでするのは傲慢ではないか? 確実な悲劇が待っているならまた別だが、今のはあくまで可能性の話だしな。
まあ、何か手は考えよう。いざとなったら適当なドラゴンでも殴って連れてくれば、ちょうどいい目くらましに……ん?」
ふと、ニックの意識に強い魔物の気配が引っかかる。それはもの凄い勢いで空を駆けており、その向かう先はギセーシャ達のいる方向。
『何だ!? まるで大気が揺れているような凄まじい魔力がこちらに向かって来ているぞ!?』
その気配にはオーゼンすらも驚愕し、思わず焦った声をあげる。だがニックはあくまでも落ち着き払い、木々で遮られた空の向こう、気配の源に意識を向けるとニヤリと笑う。
「ふっ、来たか……」
『来た? 来たとは何だ!? 貴様、この気配の正体を知っているのか!?』
「まあそう慌てるな。では儂等もギセーシャ達の所に戻るとしよう」
『待て! こういうときは説明が先ではないのか!?』
「それもいいが、せっかくなら自分の目で見てからの方がよいであろう? ということで行くぞオーゼン!」
『むぅ、最近はそうやって貴様に誤魔化されることが増えた気がするが……いいだろう。どうせすぐ側なのだしな』
「そういうことだ。さ、行くぞ!」
言ってニックは元来た道をゆっくりと歩き出す。走ったりしないのは相手をむやみに刺激しないためと、何よりそうする必要が無いとわかっているからだ。そうしてニックがたどり着いた先では――
『グォォォォォォォォ!!!』
「ひぃぃ!?」
『キャイン!?』
頭をつんざく咆哮に、人の少女と魔物の子供が怯えたように大地に伏せる。その声の主は、頭の高さがニックの身長の倍以上もある超巨大な白銀の狼であった。