娘、空を駆ける
「あぁ、風が気持ちいいー!」
遙か彼方、空の上。雲すら眼下に見下す魔導船の船上にて、フレイは髪をたなびかせる風の感触を楽しんでいた。
もっとも、吹き抜ける風も空からの日差しも、魔導船を覆う結界が適度に軽減した後のものだ。もしも結界が力を失ったならば、薄い空気と凍える寒さ、きつい日差しで船内から一歩も外に出ることなどできなかっただろう。
「それにしても……ふふふ、人がゴミのようね」
「何馬鹿なこと言ってるのよぉ!」
「痛っ!?」
いつの間にか背後にやってきていたムーナに強かに頭を叩かれ、思わずフレイが首を引っ込める。
「いくら私達しかいないっていっても、勇者がそんなこと言うものじゃないわぁ!」
「いたた……わかってるわよ。でも何でか言わないといけない気がして……なんでだろ?」
叩かれた頭をさすりながら、フレイが首を傾げる。確かに勇者としてあるまじき発言だと思うし、そもそも下は険しい山であって、人影など何処にもない。だがふと頭に浮かんだその台詞を口にせずにはいられなかったのだ。
「何だろう? 神託かな?」
「そんな神様とか願い下げだわぁ! まあとにかく気をつけなさぁい」
「はーい。ごめんなさい」
素直に頭を下げたフレイに、ムーナはやれやれといった表情をしつつその隣に立つ。そのまま長い髪をかき上げる仕草はフレイから見ても実に色っぽく、何故かドキッとしてしまったフレイは慌てて視線を外した。
「でも、風が気持ちいいって方は同意するわぁ。やっぱり古代遺跡の遺物は凄いわねぇ」
「そうね。まさかこんなにでっかい船が飛ぶなんてね……」
フレイが帝国から借り受けた魔導船は、端的に言って巨大だった。一〇〇〇人は乗れるのではないかという圧倒的なその偉容に、初めて目にした時は思わずため息が漏れてしまったほどだ。
「しかもこんなでっかい船が実質一人で操縦できるなんて、どんだけよ昔の人! こんなものが普通に飛んでた世界なんて、ちょっと想像つかないわね」
「そうねぇ。どんな世界だったのかしらねぇ」
フレイの言葉に、ムーナが曖昧に笑って答える。実際古代遺跡から発掘される魔法道具は用途不明ながら極めて高度な技術によって作られたものが多く、現代の技術では模倣どころか解析すら難しい。
そして、それらの道具は発掘されるのに対し、当時の歴史や生活に関する資料は驚くほど少ない。そのため歴史学者が遡れるのは精々三〇〇〇年くらい前までであり、古代遺跡が遺跡ではなかった時代のことはほとんど何もわかっていなかった。
「ひとつ言えることがあるとすれば、その時代にフレイが生まれていても、魔導船は操縦させてもらえなかったでしょうねぇ」
「ちょっ!? それはもういいじゃない! あれはちょっと調子に乗っちゃったっていうか、何か凄く楽しくなっちゃったっていうか……」
「ふふ、フレイは本当にニックの娘よねぇ」
「何よそれ!?」
唇を尖らせて言うフレイに、ムーナがクスクスと楽しげに笑う。魔導船を手に入れ、勇者であるフレイがその動力を復活させた後、最初に魔導船の舵輪を握ったのはフレイであった。
だが阻むものの何もない自由な空に気分の盛り上がってしまったフレイの操縦は豪快そのものであり、三〇分もしないうちにムーナとロンから「二度と操縦しない」という約束を取り付けさせられたのだ。
「こんな巨大な船体を横滑りさせるような操縦とか、未来永劫あり得ないわぁ!」
「えー、あれはあれで気持ちよかったと思うけどなぁ。ほら、もっとこう速度と重心を意識してグイッと曲げてやれば、効率よく曲がれると思わない?」
「その必要性が皆無なのよぉ! これだけ広い空で、わざわざ旋回半径に拘る理由が何処にあるのよぉ!」
「まあそうなんだけど、でもそういうのって拘りたくならない? ギュイッと曲がれると気持ちいいし!」
「そういうのは一人で乗ってるときだけにしなさぁい! とにかく操縦はロンに任せるの。いいわね?」
「むぅ……」
子供を諭すようなムーナの口調に、フレイは実に不本意そうにしながらも同意する。
ちなみにムーナは最初から操縦していない。どれだけ練習しても馬車をまっすぐ走らせることができず、最後には道の方を馬車の進行方向に合わせて歪めようとした大魔法使いにこんな巨大な、しかも空を飛んでいる船を操縦させようという勇敢な存在は、如何に勇者パーティと言えども一人もいなかった。
「あー、でも、懐かしいなぁ。まさかまた空を飛ぶ日が来るなんてね」
「懐かしい? 前にも空を飛んだことがあるのぉ?」
フレイの言葉に、ムーナが心底意外そうな顔をする。空を飛ぶ魔法が全くないとは言わないが、それらはすべからく極めて高度な技術と多大な魔力を必要とするため、実用レベルで空を飛ぶ魔術師は彼女の知る限り一人もいない。
「うん。父さんがアタシを抱えて跳んでくれたことがあったの。小さい頃だけどね」
「ああ、そういうことぉ」
「思い出すなぁ……」
ムーナが遠い目をする傍らで、フレイは幼い頃の自分と父の姿を思い出す。そのきっかけは、何てことの無い疑問から始まった。
「ねえお父さん。人は死んだらお空のお城に行くの?」
「ん? 何だ突然?」
フレイの発した何気ない一言に、ニックは首を傾げて答える。
「あのね、アタシってお母さんがいないでしょ? それでね、村の人が言ってたの。人は死んだらお空に浮かぶお城に行くんだって! で、そこは綺麗なお花が一杯咲いてる素敵なところで、静かに暮らしながら生きてる人のことを見守ってるんだって!」
「そうか……まあ、うむ。そうかも知れんな」
死んだ人間の魂がどうなるのか? そんなことを知る者はこの世に一人としていない。だが幼い娘に語って聞かせるならば、空の城というのは実に理にかなっていた。
「ねえお父さん。アタシお空のお城に行ってみたい!」
「むぅ!? それは流石に……」
「お父さんでも無理?」
「そうだな。簡単ではないな」
「そっか……」
困り顔をしたニックに、フレイがしょんぼりと肩を落とす。だがそれに続く言葉を聞けば、黙っていられるニックではない。
「お母さんに、元気だよって伝えたかったな……」
「フレイ……わかった、ならば準備をせねばな」
「お父さん? 準備って?」
「うむ。空の上というのはとても寒いのだ。だから家に帰って、冬に来ている服に着替えなさい。準備ができたら家の前に集合だ!」
「っ!? わかった!」
途端に元気になったフレイが飛ぶような勢いで家に戻ると、すぐにもこもこの毛皮の服に着替えてくる。今は夏であり相当に暑そうだったが、期待に満ちるその顔は流れる汗などものともしない。
「できた!」
「よし、ではいくぞ!」
ニックはひょいとフレイを肩車すると、万が一のために買っておいた身体保護の魔法を発動させる魔石をフレイに使用する。当時のニックからすると決して安い品物ではなかったが、母に思いを伝えたいという娘の気持ちを考えれば、同額を稼ぎ直すことなど何の苦労だとも思えなかった。
「しっかり捕まっているのだぞ……そぉれぇ!!!」
力強く大地を蹴り、ニックの体が急上昇する。幾度か空を蹴って登っていけば、到達したのは雲の上。
「うわぁー! たかーい!」
「城は……あっち、か?」
ニックの住む村からでは、天空城の姿を見ることはできない。それは遙か遠く、険しい山々を超えた先にあるとされるものであり、わかるのは精々曖昧な方角くらいだ。
「あっち? わかった! おかーさーん! アタシ、お父さんと元気にやってるよー!」
そうではあったが、当のフレイはそんな細かいことを一切気にすることなく大声で叫ぶ。一面を埋め尽くす青い世界でごうごうと吹く風の音に負けないように、小さな体が出せる精一杯の声。
「毎日特訓ばっかりで大変だけど、でも頑張る! だってアタシは勇者だから! みんなのことを守れる立派な人になるから! だから安心して見守っててねー!」
そうフレイが言い終わったところで、ニック達の体が落下を始める。そうして無事に地面に降り立った親子の顔には、実に満足げな笑みが浮かんでいた。
『フレイ殿! ムーナ殿! 見えてきましたぞ!』
懐かしい思い出に浸っていたフレイの耳に、魔導船に備わった機能でロンからの声が届く。言われて船首の方に顔を向ければ、空に浮かぶ城の姿が小さいながらもはっきりと見えてきていた。
「まさかあの時のお城に、自分が踏み込むことになるとはね」
「何の話ぃ?」
「ううん、こっちのこと。さあ、行きましょ」
目の前に浮かぶ城に、死者の安らぎの地が無いことはもうわかっている。そこにあるのは勇者の力になるという魔法道具と、それを守る強力な守護者の群れ。
だが、あの日夢見た「空のお城」は今もフレイの胸にある。だからこそフレイは臆することなく、勇者としての一歩を踏み出せる。
「目指すは天空城ウイテル! 魔導船、突撃ぃ!」
『……いや、突撃はしませんぞ?』
「本当にこの娘は……」
腰から勇者の剣を抜き目的地を指し示してポーズを決めるフレイに、残る二人は思わず苦笑いを浮かべるのだった。
なお、天空城にあったのはかつてニックが殴って壊した「封印の扉」を開くための宝玉であり、その上で小躍りする役立たずの精霊の一種「モウイラ・ネーヨ」の姿に崩れ落ちることになるのは、これから一週間後のことである。