水女、再会する
「あら、ビーシャちゃんやないの! おはよう、ビーシャちゃん!」
「おはようございますおばさま。ギャルフリアさんはご在宅ですか?」
「はいはい、フーちゃんね。ちょっと待ってて。フーちゃん! お友達! ビーシャちゃんが来とるでー!」
「わかったから、ちょっと待っててー!」
猛烈な勢いで扉をノックされ、ギャルフリアは勢いよく飛び起きて身支度を始める。だがそれが完了するよりもはやく、無慈悲な母の手によって部屋の扉が開け放たれた。
「フーちゃん! お友達! お友達来とるで!」
「ちょっ、何で開けるわけ!?」
「なんやのん。フーちゃんがいつも言うから、ちゃんとノックしたやないか!」
「ノックしても待たないんじゃ意味ないでしょ!? マジあり得ない……てかわかってるから! 髪とか整えてるんだから、いいから出てってよ!」
「はいはい。じゃ、確かに伝えたで? ごめんねぇビーシャちゃん。フーちゃん今起きたところやから。ホンマあの子は」
「いえ、気になさらないでくださいおばさま。では少しこちらで待たせていただきますわ」
「狭っ苦しいところでごめんねぇ。今お茶入れるから、ちょっと待ってな」
オカーンの出す余所行きの高い声がどうにもこうにも気に障るが、イライラしても何が変わるわけでもない。ギャルフリアが大急ぎで身支度を調えて部屋を出ると、そこには美しい紅玉のような魚の体からほっそりした白く長い手足の生えた幼なじみ、父と同じ奇魚族のタカビーシャが優雅にお茶を飲む姿があった。
「お待たせー。てかビーちゃん、こんな朝から何の用なわけ?」
「誰がビーちゃんですか! 私のことはちゃんとタカビーシャさんか、せめてビーシャお姉様とお呼びなさいと何度も言っているでしょう!?」
「えー、いいじゃんビーちゃんで。長いし」
「全く貴方という方は……まあいいですわ。朝早く伺う無礼を犯したのは、昨日のうちに家の漁場に届くはずだった物資が未だに届いていなかったからですわ」
「物資ぃ? そんなのアタシに言われても……あっ」
知らないと言いかけて、ギャルフリアの頭に昨日の鱗魚族の男とのやりとりが思い出された。そんなギャルフリアの表情を見て、タカビーシャが上品にため息をつく。
「はぁ、やっぱり貴方が何かミスをしたんですわね」
「ち、違うし! アタシはただ、きちんと時間通りに仕事を終わらせただけだし!」
「言い訳はいいですわ。では事務所までご一緒しましょうか」
「え、何でビーちゃんが着いてくるわけ?」
「それは勿論、貴方が事務所に入る姿をこの目で見ないと安心できないからです」
「うぐっ! ビーちゃんの意地悪……」
「意地悪でも何でもいいですわ。ほら、私も暇ではないのですから、行きますわよ?」
「ちょっ、アタシまだ朝食も食べてないんですけど!?」
「そんなことやろうと思ってお弁当作っといたで! ほれ、もってき!」
抗議の声をあげたギャルフリアに、オカーンの手からお弁当が手渡される。嫌な手際の良さに思わずオカーンを睨み付けたギャルフリアだが、オカーンは涼しい顔だ。
「むぅぅ、何かムカツクー」
「なんやのんこの子は! せっかくお母ちゃんが用意したんやから、それ持ってさっさと仕事に行き! そんじゃビーシャちゃん、フーちゃんのことよろしくな」
「お任せくださいおばさま。ほら、行きますわよ!」
「引っ張らないでよ! いってきまーす」
「気をつけてなー!」
タカビーシャに手を引かれ、ギャルフリアは家を出た。そのまま連れ立って町を歩きつつ、二人は久しぶりの雑談に興じる。
「なんだか懐かしいですわね。こうして二人で歩くなんていつ以来でしょうか?」
「んー? どうだろう? 結構ぶりかも?」
「フフッ。相変わらず貴方は適当ですわね。お城勤めはどうですか? この里とは随分勝手が違うでしょうし、何か困ったりしてませんの?」
「だいじょーぶ! アタシはみんなとは違うからね。むしろお店とか多いからここより快適かも?」
「そうですか。それは良かったです」
みんなと違うというギャルフリアの言葉に少しだけ表情を曇らせつつ、それでもタカビーシャは安堵の声を漏らす。
通常、魚人は水辺から離れては暮らせない。体が乾燥に弱いうえに水中でしか戦闘能力を発揮できないため、本能が水辺から離れるのを恐れるのだ。
だが、完全な人型であるギャルフリアだけは例外だ。水生能力を失う代わりに魚人としての本能の鎖から解放され、彼女だけは陸上でも変わりなく生活することができる。その特性と強大な水の力があったからこそ、ギャルフリアは水の四天王に選ばれたのだ。
「そう言うビーちゃんは、前より綺麗になった?」
「な、何ですか突然!?」
「だーって、さっきからすっごい視線を感じるしー。アタシ一人で里を歩いていた時は全然こんなことなかったのになー」
言ってギャルフリアが周囲を見回すと、道のそこかしこから熱い魚人達の視線が注がれているのがわかる。だがそれが向かう先はギャルフリアではなく、一緒に歩いているタカビーシャのみだ。
「ウオーッホッホッホッホ! それは仕方ありませんわ! 私は大網元(人の国でいう領主)の娘として、日々美しさに磨きをかけていますもの!」
「ビーちゃんの鱗、めっちゃテカテカだもんねぇ。うらやましいなー」
魚人の美の基準は、鱗の美しさだ。それ故に男も女も自分の鱗の手入れには余念が無く、実際タカビーシャも真珠貝の殻の粉末などの高価な化粧品を惜しげもなくすり込むことで、鱗に鮮やかな光沢を生み出したりしていた。
そんな努力の結晶を褒められれば、タカビーシャとしても非常に嬉しい。嬉しいが……それ以外の感情も同時に湧き上がり、素直に喜ぶことはできない。
魚人の美は鱗の美。だが完全にして不完全な魚人であるギャルフリアには、人としての整った顔、美しく長い手足、流れるような翡翠色の髪と瞳があったとしても、その身に一枚の鱗すら生えてはいないのだから。
「ギャルフリアさん、貴方だって――」
「あ、着いた! じゃ、ちゃちゃっと書類を片付けてくるから、ビーちゃんは先に漁場の方に行っててくれる?」
「え、ええ。わかりましたわ」
「おじさんによろしくー。後でアタシも顔出すから、言づてもお願いね」
「いいですわよ。では、お仕事頑張ってくださいな」
「ありがとビーちゃん。じゃ、またねー」
無邪気な表情で手を振って、ギャルフリアが事務所へと消えていく。その背を見送ったタカビーシャは、感慨深い気持ちで己の胸に手を当てる。
「私の後をついてまわるばかりだったあの子が……本当に大人になったんですわね」
魚人としての特徴を全く有していないが故に、いわれの無い差別を受けていたかつてのギャルフリア。彼女に手を差し伸べたのは、大網元の娘として同族に差別があることを許したくない、そんな幼い正義感からだった。
だが彼女はタカビーシャが思っていた以上に強かであり、いつの間にか実の妹のように感じていたタカビーシャの思いなど遙かに飛び越え、今では魔王軍の四天王というおおよそ望みうる最高の地位まで登り詰めた。
その功績は誰にも否定しようがないギャルフリアの勲章であり、自慢の妹を差別する者はもうこの里には一人もいない。それがたまらなく誇らしく、同時にちょっとだけ寂しいと感じる。
「フフッ……私も負けていられませんわ! 大網元の娘として、もっともっとこの里を発展させなければ! そのためにもまずは――」
「きゃーっ!」
決意も新たに町を歩き、もう少しで漁師達の仕事場にたどり着くというところで、不意にタカビーシャの耳に悲鳴が聞こえた。