父、肉の町を後にする
波乱の競技会の終了から一週間。旅支度を調え宿を出たニックの前には、ミツボシとムボシの兄弟が立っていた。
「やはり行くのか? もっと俺の料理を食べてもらいたかったが……」
「そうだぜ! 俺だってまだまだニックさんから教わりたいことが沢山あるのに!」
「ははは。今ぐらいがちょうど潮時だ。元々それほど長居をするつもりもなかったしな」
引き留めようとする兄弟に、ニックは朗らかに笑って答える。この一週間、突然分不相応の力を得てしまったムボシに対し、ニックは単純な体の使い方から簡単な戦闘訓練までを親身になって指導していた。
鉄の塊が砂糖菓子のようにもろく感じられるほどの力を突然与えられたムボシ。当然自力でそんなものを扱えるはずもなく、もしここにニックがいなければ人気の無い森の中にでも隠れ住み、長い時間をかけて力を扱えるようになるまで孤独に過ごすしかないはずだった。
だが、全力を込めて殴りつけても小揺るぎもしないニックであれば別だ。ニックは自身もまた鍛え上げた強大な力を持つが故にムボシに対して体を張った指導をし、それによってムボシはきちんと注意していれば一応町で暮らしていける程度には自身の力を使えるようになっていた。
その過程でニックの強さを知り、そこに至る努力を垣間見たムボシは今やニックを尊敬のまなざしで見つめるようになり、弟のために身を挺して協力してくれるニックにミツボシもまた感謝の印として毎晩食事を振る舞うことで、二人にとってニックはもはや家族同然とすら思える相手になっていた。
「そうか……アンタがそういうなら、俺としてもこれ以上は引き留めない。本当なら勇者様に料理を出す時、是非アンタにも一緒にいて欲しかったんだがな」
「儂はそんな柄ではないわ。それに今のお主にはムボシがいる。儂がおらずともそれなりの素材は十分調達できるようになったではないか」
「そんな!? 俺なんてニックさんに比べたらまだまだだぜ! 確かに最近はブラッドオックスを潰さずに倒せるようになってきたけど、それでも――」
「それは十分な進歩の証だ。結局のところ、自分の力は自分にしか制御できぬ。これからは時間をかけて自ら学んでいくがよい。焦らず、ゆっくりとな」
「ニックさん……ああ、わかったぜ。兄貴と二人で頑張ってみる」
「ムボシ……」
真の困難に直面し、それをわずかとはいえ乗り越えたからこそ変わってきた殊勝な弟の言葉に、ミツボシは思わず振り返って弟の顔をみる。するとそこには全身で唯一変化していない、かつてのままの弟の笑顔があった。
「ははは。その心がけを忘れなければ、いずれまた料理もできるようになるだろう。その時はお主たち兄弟の料理を馳走になりにくるぞ?」
「ああ! 期待しててくれ!」
ニヤリと笑って言うニックに、すっかり険がとれたムボシが嬉しそうに答える。これならば問題ないだろうと思いつつも、ニックは宿でしたためておいた一通の手紙を腰の鞄から取り出した。
「ああ、そうだ。一応これを渡しておこう」
「これは?」
「今見る限りでは大丈夫そうだが、ムボシの得たその……ヤバスの力だったか? それの正体が皆目見当もつかぬからな。もし万が一何か体に異常があって近隣の聖職者などではどうしようもなかった場合は、この手紙を持って聖都へ行くがよい。あそこには儂の知り合いがいるから、きっと力になってくれることだろう」
ムボシの体は、結局元には戻っていない。力を扱えるようになればあるいはと考えもしたが、未だに身長は三メートルを超え、はち切れんばかりに筋肉を膨らませた巨人のままだ。その体からヤバげなオーラも立ち上り続けており、たとえ今が大丈夫でもいつどうなるかわかったものではない。
それ故にニックがしたためた手紙……それはとある人物への紹介状であった。
「おお、それはありがたい! ありがとうニック。感謝する」
「ありがとうニックさん! 俺なんかのためにそこまで……」
「なに、これもまた縁というやつだ。では、儂はそろそろ行くとしよう」
ミツボシが手紙を受け取ると、ニックは彼らに背を向け歩き出した。その背後からは兄弟の感謝の言葉がずっと聞こえてきているが、そこはあえて振り返らず手を振るだけにとどめる。
『今回も結局なんだかんだとあったな。やはり貴様の厄介ごとを呼び込む力は健在なようだ』
「言うなオーゼン。これも旅の醍醐味というやつだ。それで、次はどうする? どこか行きたいところでもあるか?」
『そうだな……であればひとつ気になることがあるのだが、いいか?』
「ん? 何だ?」
この世界のことを知らないが故に基本行き先はニックに任せているオーゼンからの言葉に、ニックは楽しげに耳を傾ける。
『ここが人間……貴様達の言葉では基人族か? その領域故に基人族ばかりが暮らしているというのは当然だ。そして我が貴様と出会ってすぐの時に、獣人にも出会っておる。であればそろそろ最後の種族、精人にも会ってみたいと思うのだが、どうだ?』
「精人……エルフやドワーフか。うーむ……」
オーゼンの意外な提案に、ニックは思わず眉をしかめ考える。
『何だ? 何か問題があるのか? 確かに聞いた地理からするとここからかなり離れてはいるだろうが、それでも貴様ならどうとでもなるであろう?』
「いや、確かにそれはその通りだが……まあ、うむ。お主が会いたいというのなら、エルフの国に行ってみるのもよかろう。あそこには知り合いもおるしな」
『おお、それは楽しみだ! ふふふ、アトラガルドの時代にはいなかった種族。一体どんな者達なのだろうな……』
未知なる出会い、新たな知識に心と言葉を踊らせるオーゼン。珍しく浮かれているが故にニックの浮かべる微妙な表情に気づかず……そうして二人は、一路エルフの国へと足を向けるのであった。
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「フムフム。戦わなかったのは予想外だったが、摂取したのが脆弱な基人族であっても、力が暴走することなく理性を保つことができたか。変な歌を歌うオヤジに貴重なアレをアレされたときはどうしようかと思ったが、実に上々な結果だ。クフフフフ……」
町で最も高い尖塔。あろうことか教会の屋根の上にて一人の男がほくそ笑む。ヴァンパイアでありながら神の威光を恐れず、太陽の光をものともしないように見えるのは、ひとえにその身を包むヤバげな暗紫のオーラ故。
隠蔽していた姿を晒した男は、とがった牙を隠すことなく赤い三日月のように口を歪めて笑う。
「これならば配下のゴブリン共に与えても問題なさそうだな。あのウガウガ共を戦力として計算できるなら、我らが軍団は一気に強化される。そうすれば……」
魔王軍という全体から見れば、ゴブリンなど数を生かした肉壁くらいにしか使い道がない。それが銅級冒険者程度なら屠れる力を身につけられるというなら、その戦力は一気に拡大する。
もちろんその結果として知性が失われこっちの指示がまともに届かなくなるようでは使い道は極めて限定されるが、そうしないような工夫と研究の結果が今回の実験によって実証されたのだ。これは風の四天王軍にとって大きな福音となる。
「待っていてくださいヤバスチャン様。次にお目通りかなう時には、きっと朗報をお持ちいたします。クフ。クフフフフ……」
男の笑い声が、徐々にヤバさを増していく。そうして不意にふらつくと、尖塔の上から転げ落ちる寸前でその身がコウモリへと代わり、そのまま宙へと飛び上がった。
「ああ、それにしても太陽の光はヤバい……だが、このヤバさこそが良質なヤバスの種を生み出すのだ。耐えろ、耐えるのだ……あれ、これ死ぬかな?」
コウモリの体からプスプスと黒煙が舞うなか、男はふらふらした羽ばたきで森の方へと姿を消していった。