父、今日へと歩き出す
「ふぅ……随分と長いこと話したな」
酒瓶に残った最後の一口を飲み干し、ニックは長い長い息を吐く。その顔に浮かぶ名残惜しさは、果たして酒か、それとも過去か。
「だが、これで儂とマインの話は終わりだ。ここから先は儂とフレイの話になるわけだが、それはまたいずれでよかろう。丁度酒も無くなったことだしな」
『そうだな』
短くそれだけ答えたオーゼンに、ニックはそっとテーブルに酒瓶を置いてから思わず苦笑いして言う。
「何だオーゼン。聞きたいと言うから話したのに、何か感想はないのか?」
『いや、そういうわけではないのだが……何と言っていいのかわからんのだ』
「ははは。それこそ好きに言えばいいではないか。同情しても構わんし、その程度よくある話だと笑い飛ばしてもいい。
実際、儂等は別に特別でも何でも無いのだ。今この瞬間も魔物に襲われる者などいくらでもおるだろうし、怪我か病か、無念を残してこの世を去る者はそれこそ枚挙に暇が無い。
悲しい別れがあった。だが決して不幸だったわけではない。マインと過ごす日々は幸せそのものであったし、フレイと過ごす日々もまた幸せであった。今でこそこうして別れて生活しているが、それもまあごく普通のことだ。娘である以上、嫁にでも行けば……行けば…………ぐぅぅ…………」
『お、おい貴様、どうした!? 名状しがたい顔になっておるぞ!?』
突然怒りとも悲しみともつかない表情を浮かべつつうなり始めたニックに、オーゼンが焦った声を出す。
「あ、ああ。すまぬ。娘が嫁に行くところを想像してしまってな。むぅ、これはどうしたものか。孫の顔は確かに見たいが、それでもせめて儂を殴り飛ばせるくらいの男でなければ、とても娘をやるわけには……」
『その条件だと貴様の娘が末代になると思うが、それは貴様の好きにすればよかろう。何だかんだと言ったとて、貴様が娘を不幸にするはずがないからな。
いや、むしろ加減を間違って「お父さんなんか嫌い!」と娘に言われる方か?』
「ぐっふぅ!?」
オーゼンの言葉に、ニックは胸を押さえてその場にうずくまる。単なる想像であってすら、その言葉はニックにとって致命傷であった。
「言ってくれたなオーゼン……」
『フッフ。貴様が好きに言えと言ったのであろう? 我はその言葉に従ったまでだ』
「くぅ、口ばかり達者になりおって。もういい、寝るぞ! いくら何でも夜更かしが過ぎたであろうしな」
『今から寝るのか? 流石にもう遅いと思うが』
「ん? 遅いとは……っ!」
不意に、部屋の窓から強い光が差し込んできた。地平の果てから昇ってくるのは、あの日と同じ太陽の光。
「美しいな」
『ああ、そうだな』
万感の思いを込めたただ一言に、オーゼンもまた同意する。優しい光はそのまま徐々に角度をあげ、やがてニックの全身が新たな輝きに包まれたところで、ニックの頬を一粒の涙が流れた。
(マインよ。今日もフレイは元気にしているぞ)
たとえどれほど離れていても、ニックが娘のことを感じ取れないわけがない。良き仲間に恵まれ冒険を続ける娘の姿を脳裏に描き、ニックはそっと己の胸に手を当てる。
それは妻と交わした最後の約束。一度でも違えれば二度と結び直せないが、だからこそそれを守り続ける限り、妻の想いはここにある。その熱さを確かに感じながら、ニックはしばし昇っていく朝日を目を細めながら見つめ続けた。
「おや、もう行くのかい?」
「サン婆か。ああ、儂もまだまだ旅の途中だからな」
その日の朝。結局ほとんど眠ることもなく手早く朝食を済ませたニックだったが、最後にもう一度墓参りをと考えたところで、こちらに歩いてきたサンの姿にその足を止める。
「せわしないねぇ。家の方はまた面倒をみておくから、今度はフレイも連れてもうちょっとゆっくり帰っておいで。この婆さんが生きてるうちにね」
「ガッハッハ! 何を言うかと思えば。サン婆には儂の孫も取り上げてもらわねばならんのだ。まだまだ長生きしてもらわねば困るぞ?」
「ヒャッヒャッヒャッ。ならさっさと魔王なんて倒しちまうことだね。そうすりゃアタシもゆっくり余生を送れるってもんさね」
「そこは娘の頑張り次第だが、まあ何とでもなるであろう。何せ儂とマインの娘なのだからな!」
「そうかい。期待しとくよ。じゃ、またね」
笑顔で断言したニックに、サンはしわくちゃの顔を更にしわくちゃにして笑ってから、そのまま村の方へと戻っていった。その足取りはしっかりしたもので、とても八〇を超えるとは思えない。
『あのご老人、引き返すということはわざわざ貴様の様子を見に来たのだろうか?』
「だなぁ。やはりサン婆には敵わん。サン婆のためにも、魔王などさっさと倒してしまわねばな。ぬぅ、儂が殴り倒せれば早いのだが……」
『何もかも貴様が、というわけにはいかんのだろう? 信じて待つこともまた王の資質だ』
「フッ。わかっておるわい。サン婆にも言ったが、あの子ならば大丈夫だ。ロンもムーナも頼りになる仲間であるし、本当に困ったときはいつでも儂が駆けつけるからな」
『貴様が言うと比喩ではなく本当に駆けつけそうなのが怖いが……まあよかろう』
話ながらも二人は歩き、程なくしてマインの墓の前までたどり着く。ニックは途中で摘んだ小さく白い花を墓前に添えると、しばし瞑目してから踵を返した。そうして家までたどり着くと、中に入ることなくその扉に金の鍵を挿し、扉を開く。
開いた先は当然して必然。唯一目的地として登録されている宿屋の部屋だ。
「うむ、無事に戻ったか。しかし本当に便利だな」
『当然だ! 我がアトラガルドの英知の結晶である「王能百式」だぞ? この程度のことは出来て当然なのだ!』
「ハッハッハ。うむうむ、これならば自慢するのも当然だ。しかしこれほど高性能なら……ひょっとしていけるか?」
得意げなオーゼンに笑顔で同意するニックだったが、ふと何かを思いついたかのように再び金の鍵を扉に挿し、やにわに真剣な表情で意識を集中し始める。
『おい貴様、何をするつもりだ?』
「なに、思いついたことがあってな。集中するから、少しだけ静かにしてくれ」
『ぬぅ……わかった』
ニックに言われ、オーゼンはその口を紡ぐ。部屋に静寂が戻ったことで、ニックは改めて目を閉じ顔をしかめ、目的地を感じ取るために一心不乱に思いを馳せる。鍵を持つ手はまるで何かを調節するようにピクピクと動き、そして――
「……………………ここだっ!」
『ぬおっ!?』
確信と共に声をあげると、ニックの手に力が籠もる。するとそれまで回らなかった金の鍵がカチャッという軽快な音を立て、目の前の扉がどこか違う場所へと繋がったことを教えてくれた。
『随分集中していたようだが、一体何処への扉を開いたのだ?』
「それはまあ、見てのお楽しみだ。さあて、上手くいったかどうか……」
ニヤリと笑いながら、ニックが扉に手をかけ開く。するとその先には――
「むっ!?」
「えっ!?」
見覚えのある女性が、その豊満な乳房を曝け出して着替えをする姿があった。