父、昔を語る ~約束~
「おーよしよし、今日もいっぱい飲んだな!」
「あー、うー! けぷっ」
母乳代わりの山羊の乳を飲み満足げにゲップをするフレイの姿に、ニックは思わず目を細める。そのまますぐに眠り込んでしまったのを確認してから、ニックは手早く片付けを終えると、ついでもう一人の最愛の人のために作った麦粥を手に寝室の扉をノックした。
「入るぞ」
「どーぞー」
中から聞こえてきた返事に、ニックはそっと部屋の扉を開ける。うっすら星明かりが差し込むだけの暗い室内に蝋燭の火が灯され、すっかり寝たきりになってしまったマインの顔が照らし出された。
「どうだ調子は?」
「うーん。まぁまぁかな?」
「まあまあか。そりゃよかった。いつもので悪いが、食べられるか?」
「うん。ニックが食べさせてくれるんでしょ?」
「はっはっは。勿論いいとも」
ベッドのそばに歩み寄ったニックは、そのままサイドテーブルに麦粥の器を置き、マインの上半身をそっと起き上がらせる。すっかり痩せ細ってしまったその体は、下手に触れたら壊れてしまいそうなほどに脆く感じられ、この瞬間はいつもニックの体に緊張が走る。
「ありがと。じゃ、あーん」
「ほれ」
木匙ですくい、粥を食べさせる。マインはそれをゆっくりと時間をかけて咀嚼し、最後は頑張って飲み込むのだが、それも今は二口三口が精々だ。
それでもニックは、毎回きっちり一人前を用意する。余れば自分が食べればいいし、もし万が一マインが食べたいと言ってくれた時に足りなかったらと思えば、それを苦労や無駄などとは微塵も思わなかった。
「ふー。ありがと。もうお腹いっぱい」
「そうか。じゃ、残りは俺が食うとしよう……むぅ、やっぱりちょっと味が違うんだよなぁ」
残った麦粥を自ら食べつつ、ニックは微妙に首を傾げる。教えられた通りに作っているはずなのに、どうしても昔マインが作ってくれた麦粥とはちょっとだけ味が違う。
「ふふ。でもアタシはニックの味、嫌いじゃないわよ? 何だかとっても温かい味がするもの」
「そうか? ならいいんだけどさ」
揺らめく小さな灯りの下、二人はとりとめも無い会話を続ける。
「ねえ、今何時くらいかな?」
「んー? 正確にはわからないけど、朝の鐘にはまだ少しある、かな? 多分もうすぐ日の出だと思うけど」
「そっか……最近はそういうのもよくわかんなくなっちゃった」
「まあ、寝たきりだしなぁ。でもフレイのことは良くわかってるだろ? あの子が泣いた後は、いつも決まって起きてるじゃないか」
「そこはほら、アタシはお母さんだしね」
「流石マインだ」
寝たきりになってから徐々に昼も夜もなく寝ては起きるのを繰り返すようになったマインだが、フレイが泣いた時だけは必ず目を覚ましていた。だからこそニックは少しでもマインの負担を減らすよう、その機会に毎回食事を運んでいる。
「ねえ、ニック。ちょっとお願いがあるんだけど」
「ん? 何だ? 俺に出来ることなら何でもしてやるぞ?」
「そんな大げさなことじゃないけど……フレイの顔が見たいの。アタシを抱えてフレイの所まで連れて行ってくれない?」
「それは……いや、それなら今からフレイを抱いて連れてこようか?」
ニックの提案に、しかしマインはゆっくりと首を横に振る。
「駄目よ。せっかくお腹いっぱいになって寝てるのに、起こしたら可哀想だわ。ねえお願い。今はちょっとだけ体調がいいから……ね?」
「…………わかった」
懇願するマインの言葉に、ニックはしばし逡巡してからそう答えた。マインの下半身を覆っていた布団を剥ぎ取り、その体をそっと両手で抱き上げる。
「……っ」
「ごめんね、重い?」
「まさか! ここで正直に言ってボコボコに殴られるほど俺は馬鹿じゃないぞ?」
「もーっ!」
拗ねるように言うマイン。だがニックの笑顔は違う意味で引きつっている。マインの体は、本当に羽のように軽かったのだ。ほんの少し気を許しただけで、どこか遠くへ飛んでいってしまいそうなほどに。
そっとそっと、大事に大事にマインを抱き上げ、愛しの娘の眠る横へと連れて行く。そこには何も知らないフレイが、スヤスヤと安らかな寝息を立てていた。
「ああ、可愛いなぁ……こんなに可愛いのに、この子は『勇者』なんだね……」
「マイン!? それを何処で!?」
「流石に気づくわよ。ニックが仕事に出ているときは村のオバちゃん達がお世話に来てくれるでしょ? みんな噂話大好きだもの」
「マイン、俺は……」
苦しげに顔を歪めるニックの口に、マインがそっと人差し指を押し当てる。
「いいのよ。ニックがアタシを気遣ってくれてることなんて、アタシが誰よりわかってるんだから。あ、でも悪いと思ってるんなら、もう一つお願いを聞いてもらおうかしら?」
「何だ? 俺は何をすればいい?」
「……この子と、ずっと一緒にいてあげて」
慈愛と悲哀に満ちあふれた視線で愛する我が子を見つめながら、マインの口から願いがこぼれる。
「本当は、アタシがずっと一緒にいたい……この子の未来が危険に満ちているってわかってるんだから、側で支えてあげたい。でも、アタシにはもうそれはできない……っ!
何で、何で駄目なの!? アタシの何が悪かったの!? どうしてこんな……嫌だ、死にたくない。ずっとずっとこの子の側で、その成長を見守ってあげたい……」
「何を弱気な事を言ってるんだよ! 大丈夫さ、マインはこれからだって――」
「ううん。わかってる。自分の体のことだもの。アタシはここまでだって、わかってるよ……だからお願い。ニックはこの子の側にいてあげて。アタシには父さんが、ニックにはお爺ちゃんがいたから、アタシ達は孤独にはならなかった。その人達が亡くなっても、お互いがいたからこうして生きてこられた。
だからお願い、この子にも……この子が自分の足で立って歩くその日まで、アタシの代わりに寄り添ってあげて。アタシの全てをあげるから、ニックの人生をこの子のために頂戴。アタシの最後の……一生のお願い」
「マイン……」
マインの目に、もはや涙は流れない。だがその乾ききった頬を、ニックの目からこぼれた涙が濡らす。
「馬鹿だな。マインは本当に馬鹿だ! そんな願いは叶えられない。だってそうだろ? 俺の人生は最初からマインとフレイのものだ。お前達がいなかったら、俺が生きてる意味なんて無い!
マインがいたからフレイが産まれた! 二人がいるから頑張れた! その願いは俺の願いだ! たとえマインにだって譲ってやらないからな!」
「ニック…………ああ、そうか。顔すらわからない人だけど、きっとアタシの母さんはこんな気持ちだったんだ。危険な道を進む子供を残して、ただ願いだけを父さんに託して。こんな、こんな辛くて苦しくて……でも、安心した気持ちだったんだ」
「マイン?」
「ニック……約束して。アタシ達の子供を、フレイを守ってあげて。ニックならきっとできるわ。アタシが助けた人。アタシを助けてくれた人。アタシが大好きな人は、この子を心から愛してくれる、最高のお父さんのはずだもの」
「任せろ! 約束だ! 魔王だろうが死神だろうが、全部俺がぶっ飛ばしてやる! どんな場所でも、どんな奴が相手でも、必ずフレイを無事にこの家に帰す! だから、だからマインはここで待って……」
ニックの言葉が、涙で詰まる。あまりに想いが溢れすぎて、却って言葉が出てこない。
「ああ、朝日が昇ってきたのね。綺麗……」
「ああ、綺麗だな……」
不意に、窓の外から温かな光が差し込んできた。眩しいほどに温かいそれはゆっくりと部屋を照らし、そしてニックが愛する妻と娘を包んでく。
「ごめんね……ありがとう…………愛してるわ……………………」
「……………………ああ、愛しているよ…………ああ…………あああぁぁ…………」
静かに眠りについた最愛の女性の体を胸に、ニックは声を上げることなく、延々とその場で泣き続けた。