父、昔を語る ~つかの間の平穏~
「勇者? 勇者って、あの勇者と魔王の勇者か?」
神官の男の言葉に対し、ニックは今ひとつピンとこない顔でそう問い返す。今もなお魔族は存在し、また最近は魔王が復活したなどという噂もまことしやかに囁かれ始めはしたが、所詮ここは田舎の村であり、そこで暮らすニックにとっては勇者も魔王も遠い話でしかなかったからだ。
「そうです。貴方もご覧になったでしょう? あの子の手には、明らかに不自然な青色のアザが見えます。あれはおそらく『勇者の証』とも言える紋章でしょう」
「あんなものがか!? いや、確かに産まれた時からあったからおかしいとは思っていたけど……」
「もっと高位の神官を連れてこなければ断言は出来ませんが、おそらくは間違いありません」
「勇者……フレイが勇者……」
真剣そのものの神官のまなざしに、ニックは戸惑いながらも何とかその事実を理解しようと試みる。そうして意識の咀嚼が進むほどに、湧き上がるのは自分の娘が勇者だという名誉……などではなく、圧倒的な不安だった。
「なあ、神官殿。娘が勇者であるということを隠すことは出来ないだろうか?」
「えっ!? 隠すのですか!? きちんと報告すれば教会は元より国の保護も受けられますし、養育費としてかなりの援助も受けられるはずです。今よりずっと生活も楽になりますし、奥さんだって……」
「いや、その妻が問題なんだ。神官殿の目から見て、妻は……マインは本当に良くなったと思うか?」
「それは……」
ニックの問いに、神官の男は言葉を詰まらせる。回復魔法は怪我を癒やしたり失われた体力を回復する効果はあるが、毒や病には効かないどころか場合によっては悪化させることすらあるというのが常識だ。
それでも体力が回復すれば自力で病に打ち勝てるかもと一縷の望みをかけたからこそニックは大金をお布施して神官を呼んだわけだが、実際に魔法を使った神官にはそれがその場しのぎの一時的なものでしかないことがよくわかってしまっていた。
「この先マインがどうなるのか、俺にはわからない。でも今のアイツにそんな事言えるか!? 自分の娘が、いずれ魔王と戦う運命にあるなんて!
ただでさえアイツは産まれてすぐに母親を亡くし、その後には目の前で父親を魔物に食い殺されてるんだ。魔物の怖さを知ってるマインに、自分の娘が先陣を切ってそれと戦う運命なんて、誰が言える!?
それに、さっきの保護だの何だのの話もそうだ。そいつを受け取って、その後俺達は今まで通りに暮らせるのか? 色んな奴が娘に目をつけ、ここにやってくるだろう。そうなったらただでさえ体調の悪いマインは……マインは……っ!」
血を吐くようなニックの言葉に、神官の男はまるで我が事のようにその顔を苦渋に歪ませる。だがそれでも神の信徒として、何も言わないわけにはいかない。
「なら、どうされるのです? まさかずっと隠し続けるつもりですか? そんなことは……」
「出来ないだろうな。わかってるさ。俺だって世界を危機に陥れたいとか、そんなことを言ってるわけじゃないさ。でもせめてもう少し、娘が物心つく頃くらいまでなら、何とかならないか? 娘が自分の意思で『世界を救いたい』と言ってくれるなら、俺もマインもきっと胸を張って娘を送り出せるから……」
「それは……無理ですね」
「そんなっ!?」
非常な神官の言葉にニックは思わず掴みかかるが、神官の男は動じること無く法衣を掴むニックの腕にそっと触れ、言葉を続ける。
「早まらないでください。無理と言ったのは、『ぼうけんのしょ』の関係です。あれは勇者が六歳になると各地の神殿に現れ、それ以後勇者の行動が記録されるようになります。
つまりどれだけ隠そうとしても、あの子が六歳になった時点で勇者の存在は世界に知らしめられ、そこに記載される内容からすぐにこの場所も特定されるでしょう」
「うぐっ……いやでも、六歳?」
「そうです。六歳までなら……隠すことは可能でしょう」
「ならっ!?」
「ええ。この事実はしばし私の胸の中に秘めておくことにしましょう」
「ありがとう……っ! 恩に着る……っ!」
心からの感謝と共に、深く深く頭を下げ神官の手を握るニック。だがその光景を、当の神官は複雑な思いで見つめていた。
(果たしてこれは正しい選択なのでしょうか?)
世界の事を思うならば、勇者の存在は即刻報告するべきであった。それは己が所属する教会の教えでもあり、それを隠すのはある意味背信、人類に対する裏切りと呼べるものだ。
でも、それでも。多くの民と触れ合う機会のある下級神官である彼は、世界などという目に見えきらぬ大きなものではなく、目の前でただただ愛する者のためにと懇願する男とその一家を救うことをこそ選んだ。
それは教会の教えではなく、己を導き育ててくれた、偉大なる老神官の言葉。「人の手は小さい。ならばこそその手の触れる相手を救いなさい。救いとは大いなる奇跡ではなく、誰もが持ち得るほんの僅かな善意の積み重ねなのです」という飾らない言葉こそが、神でさえも干渉できない己の魂を震わせたのだ。
(いつか私のこの選択が、世界から責められる日が来るのかも知れません。でも先生、その時は……私は胸を張って罰を受けたいと思います)
石を投げられる自分を想像してなお、彼の神官の心は穏やかだった。罪を背負いて、されど悪には非ず。信仰心を貫く罪の槍の痛みを正面から受け入れ、神官の男はニックに言葉を続ける。
「ですが、流石に完全放置とはいきません。今後定期的にこちらにやってこようと思いますが、構いませんか?」
「え? ああ、それは勿論。でもいいのか? 神官殿も忙しいんじゃ……」
「ははは。勿論暇ではありませんが、勇者の健やかな成長を見定めるためならば、それに勝る予定などありませんよ。ああ、せっかくやってくるのですから、ついでに奥方に回復魔法を使わせてもらいましょうか」
「神官殿……本当に、ありがとう」
「気にしないで下さい。これも……いや、そうか。これこそ神のお導きなのかも知れませんね」
多額の報奨金も勇者の父という名誉も、多くの者が血眼になって求めるであろう全てを一顧だにせず、ただ家族の幸せだけを願った男。こんな男に育てられればこそ、勇者は人の愛を知るのかも知れない。そんな思いが神官に笑顔を浮かばせ、それを受けてニックもまた笑顔を返す。
「では、いずれまた」
「ありがとう! 本当にありがとう!」
幾度もお礼の言葉を重ねるニックを背に、神官の男はより一層強い信念と信仰心を胸に村を去って行く。それを見送ったニックは、すぐに愛する妻と娘の待つ自宅へと帰っていった。
「ただいま!」
「しーっ! 静かに! ちょうどフレイが寝たところよ?」
「お、おぅ、すまん……」
唇に人差し指を立てたマインに怒られ、ニックは抜き足差し足で家の中へと入っていき……その姿を見てマインが思わず苦笑する。
「そこまでこっそりしなくてもいいわよ。フフッ、本当にニックはそういう所極端よね」
「そ、そうか? 細かいのはどうも苦手で……」
「そんな不器用な所も可愛いと思うけどね」
多少とは言え久しぶりに元気を取り戻したマインが、そっとニックの手を引く。そうしてスヤスヤと眠るフレイの前まで呼び寄せると、コテンと頭を倒してニックにもたれかかった。
「ねえ見てニック。フレイったら、凄く気持ちよさそうに寝てる……羨ましいなぁ。アタシは最近寝るのも大変だから」
「マイン……その事だけどな。これから定期的にあの神官殿が来て回復魔法を使ってくれるってことになったぞ」
「え、そうなの!? お金は!? アタシもほとんど寝たっきりだし、ニックだけじゃいくらなんでも……」
「あー、いや、それは大丈夫だ。何かこう……良くわからない話だが、向こうにとってもそれが都合がいいらしい」
「ふーん?」
ニックの下手な嘘にすらなっていない誤魔化しに、マインがジトッとニックの顔を見る。それを受けてニックはあからさまに顔をそらしてソワソワするが、そんなニックにマインは小さく笑って答えた。
「まあいいわ。ニックがアタシ達に悪い嘘をつくわけないもの。でも絶対に無理しちゃ駄目よ? アタシがそうだったように、フレイにはお父さんが必要なんだから」
「ああ、大丈夫だ。それと、フレイには当然お母さんも必要だと思うぞ? 二人で一緒に育てていくんだ」
「そうね。そうできたら幸せね……」
「……マイン?」
「何でもない。ねえニック?」
「ん?」
「こんな日が、これからもずっと続いたらいいね……」
「続くさ。流石に一〇〇年とは言えないが、四、五〇年くらいはいけるだろ?」
「謙虚なんだか欲張りなんだかよくわかんないわね。でも、そうね。そうだったらいいわね……」
穏やかな顔で娘を見つめるマイン。その横顔に、ニックは知らず空いた手の方に拳を握りしめていた。
(守る。守ってみせる。俺が、俺が必ず二人を……)
決意は固く、されど時は止まらず。家族揃って過ごすささやかな日々は、既に終わりを数えるところまで近づいていた――