父、昔を語る ~ことの始まり~
「まだか? まだなのか!?」
「いや、今サン婆さんが部屋に入ったばっかりだろ。流石に落ち着けよ」
「そ、そうか? もう鐘が二つ三つ鳴ってないか?」
「そんなわけないだろ! 今だよ! つい今し方入ったばっかりだよ!」
臨月を迎え、産気づいたマインの部屋にサン婆を通して一分後。ソワソワと全く落ち着かない様子のニックに、ナオルが苦笑しつつツッコミを入れる。
「大丈夫だって。サン婆さんはこの道何十年のベテランだぜ? つか俺もニックもサン婆さんに取り上げられてるんだし、万一のために俺や親父もいる。父親になるってんなら、もっとどっしり構えとけよ」
「言ったなナオル! お前の時はどうなるか、絶対覚えておくからな!?」
「い、いいぜ! 俺はお前と違って、落ち着きのある男だからな!」
微妙な表情で断言するナオル。その宣言は見る影も無いほどに打ち砕かれるのだが、それはまた別の話。
「うぅ、やっぱり俺も部屋の中に……いや、駄目だ……」
お産というのは体の内側を晒すような行為だ。そのため部屋を清潔にし、立ち会う者もできるだけ少なくする方が母体への影響が少なくなるというのがこの世界の常識だった。
ましてやニック達は所詮は田舎の一般人であり、貴族や金持ちのように回復魔法の使える神官を招いたり、冒険者用の高価な回復薬を用意することなどできない。であれば少しでも母体に負荷が掛からないようにするのは当然で、だからこそニックは側でマインの手を握っていたいのを必死で我慢していた。
そうして待つことしばし。実際には半鐘……おおよそ一時間程度のことだったが、ニックには世界が始まって終わるほどの長さに感じられた時間の末に、遂にその時がやってくる。
「オギャー!」
「お? おお!? おおおおお!?!?!?」
「待て! 行くな馬鹿! サン婆さんが呼ぶのを待て!」
聞こえてきた赤子の泣き声に扉をぶち破る勢いで突っ込もうとするニックを、ナオルがガッシリと掴んで止める。そのままジタバタするニックをナオルが羽交い締めにし続けると、程なくして扉が開き、やり遂げた顔の老婆がその姿を現した。
「はぁー。産まれたよニック。ほら入んな」
「あ、ああ」
さっきまでの勢いは何処へやら、いざ扉が開かれるとニックは恐る恐るその奥へと踏み込んでいく。見慣れた部屋には見慣れない桶や血まみれの布などが散乱し、そうしてベッドの上には……
「マイン……その子が!?」
「ええ、そうよ。アタシとニックの赤ちゃん」
疲れ切った、だが幸せそうな笑顔を浮かべるマインの腕に、元気よく声をあげる赤ん坊がいる。顔はしわくちゃで触れれば壊れてしまいそうなほど小さく、だが精一杯の声で泣く赤ん坊。それを見た瞬間、ニックの目からはほろりと涙がこぼれ落ちた。
「ああ、俺達の子か……ありがとう。ありがとう……」
頑張ってくれた妻への感謝。産まれてきてくれた子供への感謝。止めどなく溢れる感謝の気持ちが、言葉となってこぼれていく。そんなニックを見て、マインもまたその目にうっすらと涙を浮かべた。
「もうっ! そんなに泣かないでよ。アタシまで涙が出ちゃう。せっかく産まれたこの子の顔が見えなくなっちゃうわ」
「わ、悪い。でも、何か俺感動しちゃって……」
「ハイハイ。続きは二人っきりになったらにしておくれ」
完全に二人の世界に入っていたニック達に、サンが苦笑交じりに言う。そこでやっと我に返ると、二人とも顔を真っ赤にし、ニックは少しだけマインから体を離した。
「見りゃわかると思うけど、母子ともに健康だよ。子供の手に妙なアザみたいなのがあるのがちょっと気になるけど、触っても痛がったりするわけじゃないから、そこは様子を見るしかないね。流石に産まれたばっかりの赤ん坊にそれ以上の検査はできないからね」
「アザ?」
言われてニックが目をこらすと、確かに子供の左手の甲に妙な青い模様のようなものが見える。その正体が知れるのは、もうしばらく先の事だった――
『命の誕生か。我は立ち会ったことは無いが、尊いものなのだろうな』
「そりゃあそうだ! あの喜びを、感動を! 儂は一瞬たりとも忘れたことは無い。マインと出会ってからの日々は常に至上の幸福であったが、それでもあえて一番を選べと言われたら、あの瞬間であろうなぁ」
若干ながらも酔いが回り、上機嫌にニックが笑う。楽しげな表情で酒を呷り……寂しげな表情で酒瓶をテーブルに置く。
「そう、正にその時が頂点であった。フレイが産まれてからしばらくすると、マインの体調が少しずつ悪くなっていったのだ……」
「ゴメンね、ニック」
「気にするな。ほら、それよりもっと食べるか?」
フレイが産まれて二ヶ月。突然ふらりと倒れたマインに、ニックは奮発して買ってきたダイアードボアの肉を使った煮込みを食べさせていた。
「流石にもういいわよ。これ以上食べたら太っちゃいそう」
「太るくらいなんてことないだろ! むしろ多少太った方がいいんじゃないのか?」
「そうでもないわよ。いくら子供を産んで痩せたからって、むやみに太ればいいってものじゃないわ。お婆ちゃんだって薬師のおじさんだってそう言ってたでしょ?」
「むぅ、まあそうだけどさ」
マインが倒れた時、ニックはそれこそ大慌てで村へと走り、サンやナオルの父などに助けを求めて話を聞いていた。
「まあ、体にはどこも異常は無かったって言うし、ちょっと疲れただけよ。何せフレイったら元気いっぱいなんだもの。誰に似たのかしら?」
「そりゃ勿論、マインにだろ? あの暴れっぷりは子供の頃のマインにそっくりだ!」
「何よそれ! ふふっ、まあいいわ。元気に育ってくれるなら、それが一番だもの」
「そうだな。っと、我等のお姫様がお呼びだ。ちょっと行ってくるから、マインはゆっくり休んでいてくれ」
「うん。お願いねニック」
元気なマインの鳴き声に呼ばれ、ニックは部屋を後にする。その背中を笑顔で見送ると、マインは軽い吐き気を無理矢理押さえ込んで短く息を吐いた。
「はぁ。早く元気にならなきゃ。ニック一人じゃ掃除も洗濯も心配だもの。料理も今ひとつ味がしなかったし……ふふっ、フレイが大きくなったら、一緒にお料理とかしたいなぁ。フレイの手料理を食べたら、ニックはどんな顔するかしら? 楽しみ楽しみ。楽しみだから……しっかり休まないとね」
幸せな未来を夢想して、マインはゆっくりと瞳を閉じる。だがそんな願いとは裏腹に、マインの体調は少しずつ悪くなっていった。
もしそれが病や呪いなど明確な原因があったなら、ニックは全力でそれを取り除いたことだろう。だがどれほど調べてもマインの体には異常が見つからず、それ故に出来ることは高価な回復薬を使って一時的に体力を回復することだけ。そしてそれとて単なる木こりでしかないニックの稼ぎでは、すぐに限界が来る。
最後の頼みの綱として、ニックは人生で初めての借金をして、町から回復魔法を使える神官を呼んだ。その効果は流石に納めたお布施に見合うもので、ここひと月ほど寝たきりだったマインが自力で立ち上がれるほどに回復した。
喜び合うニックとマイン。胸に我が子を抱きうれし涙を流す家族に、やってきた神官もまた思わず顔をほころばせる。だが母の胸に抱かれた子供の手にそれを見つけたことで、その態度が一変した。
「し、失礼! ちょっとその子供の手を見せていただいても宜しいか?」
「え? ええ、別にいいですけど?」
突然真剣な表情になった神官に戸惑いつつも、マインはフレイを抱いたままで体を神官の方に向ける。すると神官は真剣な表情でフレイの手を取り、それから何か魔法を発動させ……
「これは……まさか!? ご主人、ちょっといいですか?」
「ん? ああ。悪いマイン。ちょっと行ってくる」
「はーい。行ってらっしゃい」
不意に神官の男に手を引かれ、ニックはそのままマインとフレイを残して自分の家を出る。そのまま家の裏手、人気の無いところまでやってくると、神官の男が注意深く周囲を見回してから、おもむろにそれを口にした。
「ニックさん……貴方の娘さんは、おそらく『勇者』です」