一つの終わり
時間は更に流れ、健は会社を定年退職した。
最後の勤めを終え、帰宅すると、健は、愛する妻に優しく語り掛けた。
「時間もできたし、これからは、旅行でもどうだい?」
「ええ、実は、行きたいところは沢山あるんです。お金が、たっぷり掛かりますね」
妻は、少しの茶目っ気を入れて、柔和に笑った。
昔と変わらない、妻の笑顔。健も、二人の子供も、三人の孫たちも魅了する笑顔だ。
「ははは、じゃあ、週に三度の嘱託、受けておいて正解だったね。収入は、かなり減るけど、老後の浪費には、充分に備えないといけない」
健も軽口を返し、笑った。幸せを噛み締めつつも、厳しい納期を抱えた零細企業の社長のように、頭の片隅で、チラつく影があった。
まだ小学一年生から進級できず、土曜の悪夢に囚われている、妹の奈央だ。
奈央は、土曜の夜に、夢に変わらず現れている。衰えたとはいえ、手足を怪我した小学一年生女子に負けるほど、健は柔い体をしていない。油断さえしなければ、大丈夫だ。
若いころと違い、今となっては奈央を哀れに思わぬではない。しかし、今更、いや、今であろうとなかろうと、交代など金輪際できるわけがない。人生は、まだまだ、これからなんだ。
「観光ついでに、登山なんかも、いいかもしれないね」
「また、体力作りですか? 貴方の健康マニア振りも、変わりませんね」
上品に笑う妻の顔を、少し複雑な気持ちで見ながら、健は改めて決意する。捕まって、堪るものか、と。
健の、悠々自適な老後生活が始まった週にも、越えるべき土曜日の夜は、やってきた。