前に進む人生
奈央に出し抜かれかけて以来、健は慎重――というより臆病――に行動するようにした。
健は、いつフェイントや罠などの工夫を、奈央が凝らすのかと不安を抱えながらも、逃げ延び、歳を重ねていった。
必死の練習と逃走の甲斐あって、健は陸上の実績で推薦を受け、高校・大学に進学していった。
「奈央。俺、就職が決まったんだけど、営業なんて勤まるか、不安だよ。どうかな? 俺、向いてると思う?」
「待って、待ってよ。なんで、就職とか言うの? お兄ちゃんだけ、なんで。わたしは、もうずっとこんなのなのにぃ。いい加減、交代してよ」
健は、人生について奈央に相談する体で、余裕を見せつけるようになっていた。
月日は更に過ぎていき、健は、土曜の夢で奈央に会う度に、新しい質問をしてやった。
「奈央。俺、今度、結婚するんだ。彼女を連れて行ったら、親とも和解できたよ。あの親父が、今まで邪険にして、済まなかったってさ。笑えるだろ。歳をとったもんだ。ああ、お前はいつまでも若いな。羨ましいよ」
「結婚、そう、おめでとう」
缶詰の消費期限を、遥にかに超えるほど長く続いていた奈央の執念も、二十年近い月日には勝てなくなっていった。
最近は、皆のタイムカードを五時に一人で押す、親切な総務部の社員がするように、淡々とした態度しか返ってこなくなっていた。
ただ、やはり心に燻るものがあるようだ。
「そうそう、今度、子供が生まれるんだ。で、名前なんだけど、男なら健次郎、女なら奈央にするつもりだ。両親の希望でね」
子供に、自分の名前を付けると知らされ、奈央は久しぶりに怒り狂った。
折れた手足を、以前より更に激しく動かして、奈央は健を追いかけてきた。
「お兄ちゃんは、お母さんとお父さんだけじゃなくて、名前まで取るの!」
「おお、久しぶりに鬼ごっこだな。そら、急げ」
無論、用意周到な健に死角はない。実家を離れ、都会暮らしをしているとはいえ、毎朝、会社まで一時間掛けて、徒歩で通勤している。現役を退いて衰えたとはいえ、陸上で鍛えた足は、まだまだ健在だ。
いつものように、健は完全に逃げ切って見せた。