捕獲
健が個室を得た初めての夜、夢を見た。いや。見ている。今、健の意識は、奈央のいなくなった山の斜面にあった。
辺りは暗く、明かりと言えば、手に持った懐中電灯と、遠くから聞こえてくる祭囃子の方向で淡く光る、提灯くらいのものだ。あとは、綺麗なだけの星空だが、少し木々の間に入れば、見えなくなる程度のものだった。
あの日の夜だ。夢の中で、健はハッキリと認識した。
「お兄ちゃん?」
山の斜面から、不意に、奈央の声で、健は話し掛けられた。反射的に懐中電灯を声の下方へ向ける。頭から流血し、右手と左足が、曲がってはいけない角度で拉げている。最後に見た通りの奈央が、照らし出されていた。
「な、奈央」
叫び出しそうになった健だったが、驚きと喉の過度な渇きによって、なされなかった。妹の名を、絞り出すような声で、口に出しただけだった。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
恐怖で硬直する健に、頭の血を振り捲きながら、壊れたからくり人形のようなぎこちない動作で奈央がやってくる。懐中電灯に照らされた奈央の顔は、血と泥で斑となっていた。
垂れ下がった前髪の隙間からは、精気のない目が覗き、健を真っ直ぐに見据えている。差し出された両手の指は折れ曲がり、剥がれかけた爪の間には、土が詰まっていた。
「うわああああ」
奈央の惨状を心配せずに、健は本能的な恐怖に支配された。健は恐れおののき、叫び声を上げ、走った。
どこへ向かう? 健は、先行しすぎる上半身のせいで、何度か転びながら、考えた。
腕を振り回すのに忙しく、頭は中々回らなかったが、一つ思いついた。祭りの会場に行けば、大人たちがいるはずだ。
砂利を踏み、雑草や泥濘んだ土に足を取られつつ、健は山道を走った。
「お兄ちゃん。待って」
後ろから、引きずるような足音と共に、奈央が追いかけてくる。健は、口に羽虫が入り込むのも構わず、叫び声を上げて更に走った。
走り回っている間に、祭りの会場に着いていた。
「誰か、誰かいない。助けて、奈央が」
健は叫ぶのを止め、祭りの会場を見渡した。祭囃子の笛と太鼓が鳴り響き、提灯と出店の明かりは煌々と灯っているが、人影は見られなかった。
「酒屋のおじさん。皆、どこ! 助けて!」
今にも盛り上がる声が聞こえてきそうなプレハブ小屋に入った。
ビールや日本酒の瓶、つまみの寿司や煮物が散乱しているが、人影は見えない。神社にも社務所にも、誰もいなかった。
今更ながら、何が起こっているのかと、健は理解に努めようとした。首の部品が壊れた玩具のように、健は首を左右に動かして、状況を把握しようとした。
だが、焦りばかりが先行して、涙と恐怖感で歪んだ視界では、なにもわからなかった。
「誰か! 助けて、誰か、いるんでしょう! 神様は、どうした? 神社じゃないか!」
誰もいないと知りながら、神社、社務所、プレハブ小屋、出店を、順番に巡る。何度か回ったところで、不意に肩を叩かれた。誰かいたのだ。
「酒屋のおじさん?」
「捕まえた」
一縷の望みを抱いて、振り返る。かなり距離を稼いだと思っていた奈央が、健の肩に、折れ曲がった指を置いて、笑っていた。
逡巡している間に、追いつかれたようだ。
「奈央」
幼い子供の笑みを浮かべているはずの奈央の目は、やはり精気がない。健は、以前ドラマで見た、役者を思い出した。
上司に見捨てられ、会社を去る羽目になった会社員役の役者は、長身と薄い唇が印象的だった。
なにより、目が凄かった。使い捨てにされる下っ端が見せる、虚無的な暗さは、小学校中学年の健にも、いい演技をすると、感心したほどだ。
「離せよ。お前は、もう死んだんだ。お陰で俺は、離れに個室だ」
健は、訳の分からない言葉を出し、肩に置かれた折れ曲がった指に手を添えた。
「捕まえたよ。次は、お兄ちゃんの番だね」
奈央の、演技ではありえない暗さの目に吸い寄せられ、健は意識を失った。