発端
夏休みが始まり、授業から解放されても、小学三年生の井上健は、不機嫌だった。
友人との約束をキャンセルして、妹の奈央を、夏祭りに連れていく羽目になったからだ。
「さっさとこいよ。祭りが終わっちゃうだろう」
月の出ていない暗い山道を、懐中電灯で照らしながら、健は不機嫌な声で、後ろを歩く奈央に、急ぐよう促した。
奈央は、まだ六歳で、歩幅が小さい。その上注意力散漫ときている。元気よく鳴く蝉やら、毒々しい色のキノコやらに興味を示しては、立ち止まったり、触ろうとしたりした。
お陰で、カメに比べればかなり迅速といった程度の速さでしか進めていない。目的地の神社に辿り着くまで、永遠に近い時間がかかりそうだった。
「うん。でも、蛍がいるの」
「蛍? 知らねえよ。さっさと歩け。奈央が遅いせいで、全然着かないじゃないか」
自分の命令と、奈央の「うん、でも」の関係なさに、健は強い苛立ちを覚えた。
健たち兄妹が家を出たのは、五時頃だ。今はまだ六時前、祭りの終わりの十一時だから、まだまだ時間はある。分かった上での、嫌味だった。
「蛍取ったら行くー」
人の話を聞かない奴めと、健は振り返りざまに、懐中電灯を浴びせた。すると、山の斜面を転がり落ちる奈央の姿が見えた。
「クソッ、馬鹿野郎!」
奈央が、斜面を転がって行く。数秒後、鈍い音がして止まった。
健は、転がった奈央が怪我をしているかどうかよりも、親の叱責が、まず気になった。
だが、かつて自分が同じ経験をした際の情景を思い出すと、真夏の暑さからだけが原因ではない汗が、背中を伝う感触を覚えた。
「お兄ちゃん。痛いよ」
山の斜面で、か細い声を上げ、助けを求めている。右手と左足が、肘と膝を支点として、常ならぬ方向へ曲がっていた。
もし、奈央のボキャブラリーが豊富であったなら「痛い」では済まない曲がり方だった。
懐中電灯で、声がしたほうを照らす。たちまち、羽虫が集まってくるが、鬱陶しさを感じられないほど衝撃を受けている健は、気にせず近づいて行く。
照らし出された奈央の頭は、赤黒く染まっている。打っているなと、小学生の健でも、危ないと理解できる、血の量だった。
奈央の世話を委託する癖に、なにかあれば叱る両親だ。手足が折れたとあっては、殴られるくらいはされるだろう。頭まで怪我をしていれば、蹴りも加わるかもしれなかった。
冗談じゃない。健は、途方に暮れるのをやめ、理不尽さに怒りを覚え始めていた。
俺に、六歳の奈央を預けた両親と、暗い山道を走って、勝に斜面を転がった奈央が悪いんだ。俺が怒られる理由なんて全然ない。なにも悪いところなどないのだから。
なら、責任を取らされないようにしても、罰は当たらないはずだ。
「お兄ちゃん……」
懐中電灯に照らされた真っ赤な顔には、痛みよりも、不安の成分が多かった。
恐怖と興奮による作用で、奈央はまだ、自分の体に起こった、深刻な変化について理解できていないようだ。
「待ってろ、大人を呼んでくるからな」
健は、心のこもらない声で奈央に話し掛けると、山道を取って返した。
時間を稼ぐために、ゆっくりと歩く間、健は一度も振り返らなかった。しばらく、居場所を知っている奈央を、探すフリをしてから、健は祭り会場へ向かった。
祭り会場までの移動時間は、三十分と掛からなかったはずだった。しかし、健がこれからについて考えながら歩いていたせいか、何時間にも感じた。
蝉の鳴き声が邪魔をして、考えが纏まらないまま、祭りの会場に着いてしまった
神社の境内横に建てられているプレハブ小屋で、大人が集まって、酒盛りをしていた。
日本酒とビールの瓶が、テーブルの上に林立している。噎せ返るような酒の匂いに、頭を熱くしながら、健は、どこの誰に話せば、自分の嘘を、話を信じてくれるのか、考えた。
まるでわからなかったので、一番近い男に、地元唯一の酒屋に、声を掛けた。
「あの、奈央は来てませんか?」
話し掛ける寸前、健の心臓は、坂道で友人たちと競争した時のように、脈動した。
喉は、毎年のように流行る性質の悪い風邪を引いた時のように、渇き、引き攣っている。短い髪の毛は、健の汗を引き受けきれずに、出の悪い小便のように、額に垂れ流していた。
緊張を悟られないように、平静を装えと、言い聞かせた。それでも、若干ながら声は震え、目は、出店の金魚よりは、幾分か元気に泳いでいると、自覚できた。
果たして酒屋の店主を騙せただろうか?
「奈央ちゃんは来てないけど、どうした?」
率先して酒を飲んでいたらしい酒屋の店主は、ボンヤリとした目で答えただけだった。
健は、自分の態度に、違和感を抱かずに応対してくれた酒屋の店主に感謝した。同時に、子供の嘘を見抜けないのかと、軽蔑もした。
見破ってくれれば、素直に奈央の居場所を言えたのに、これで、隠すしかなくなってしまったではないか。酒屋の店主に対する健の軽蔑に、怒りが加わった。
「……祭りに連れていく途中、はぐれたんです。ちょっと目を離したら、いなくなってて、しばらく探したんですけど、見つからないから、一人でこっちに来たのかな、って」
怒りで心の平静さを取り戻した健は、内心を悟られぬよう、気をつかいながら尋ねた。
「親御さんに連絡は? ああ、井上さんは、今日は東京に行ってるんだっけか」
「はい、それで、俺が奈央を祭りに連れて行ってやれって言われてて……」
「ふむ。ちょっと心配だな。若い衆を何人か連れて、探すの手伝ってやるよ。おーい、ちょっと聞いてくれ」
酒屋の店主が、奈央の行方不明を説明すると、五名ばかり、中年以上の若い衆が、捜索参加に手を上げた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
迷惑なような、ありがたいような気分のまま、健は頭を下げた。
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