ストーム・クロス・カラミティ
空が轟き、霞んだ景色に大粒の雨が降り注ぐ。ホテル・ロイヤル・ポートを出たアンタレスは黒幕の要求に従い、カナガワ・川崎区の工業地帯へと向かっていた。
スニーキングウェアが水滴を弾く。そびえたつ鉄塔、並び立つ倉庫と工場の群れ、瞬く間に通り過ぎる。黒いバイクがうなりをあげ、曇天を切り裂くように疾走した。
鋭角的なカウル、各所に内蔵された光学センサーが紅色に瞬く。カーボンナノチューブで形成されたタイヤがアスファルトを噛み締め、ヴェネーノと同じタキオンジェネレーターが爆発的出力をもたらす。ボークスと名付けられたそれは、まさしく地獄の妖犬そのものだった。
昨夜このバイクに乗っていたシラヌイは、バックアップのために別の場所にいる。アンタレスは装着したインカムで彼女に呼びかけた。
「こちらアンタレス。間もなく目標地点に到着する」
『了解です。こちらは社長に連絡し、自衛隊特殊作戦群との協同体勢が整ったところです。今から溝口さんたちと合流し、そちらへ向かいます』
「やけに早いな。WHOからの承認がもう下りたのか?」
『それが、社長があらかじめ手はずを整えてくれていたみたいなんです。承認はすでに下りていて、特殊作戦群も出撃準備に入っている。君たちの健闘を祈る、とのことでした』
「エルタニンがか? なるほどな」
アンタレスは理解した。エルタニンもまた、この事態を予見し、チェックメイトに向けて動き出したのだと。
スターライト・バレットの社長であるエルタニンは大胆不敵な策略家だった。あらゆる角度から可能性を算出し、何十手先もの未来を見通す。それでいて勝ち筋を掴むまで動かない、慎重さも兼ね備えている。その彼女が動いた。すなわち、事件は終盤へと差し掛かった。
オープニング。本に書かれたようなセオリーで攻める。エステというポーンを展開し、情報収集と破壊工作を行う。アルター=ナイトによって盤面を制圧し、ペースを掴む。
中盤。奇術師のように意表を突く。エステ、アンタレスによる潜入ミッション。ビショップ=ガルーダ&シラヌイによる側面からの攻撃で敵の手を潰す。
終盤。機械のように計算高く、冷酷に。ルーク=自衛隊特殊作戦群によるバックアップ。切り札であるクイーン=アンタレスが敵を追い詰め、勝利する。
アンタレスと特殊作戦群の隊長である溝口は、かつてニホンで発生したテクノカラミティ以来の付き合いだ。互いに協力し合い、今でも交流は続いている。スターライト・バレットからの要請があれば、好意的に動いてくれた。
彼らが不足の事態に備えることで、アンタレスは黒いキングに全力を尽くすことができる。あとは仲間を信じ、駆け抜けるだけだ。
白いクイーンの使命を背負った、ひとりの人間として。
ヘルメットのナビゲーションシステムが目的地への到着を告げた。赤錆にまみれた巨大な建物が目の前に広がる。どんよりとした重圧があたりを漂い、湿った空気が体中に纏わりつく。陰鬱で禍々しく、負に満ち溢れている。
神河コーポレーション・カワサキ倉庫。ここが終点であり、決戦の場だった。
「シラヌイ、現場に到着した。分かっていると思うが、今一番重要なのはテロの被害を拡大させないことだ。俺から一時間経っても連絡がなかった場合は、迷わず突入して制圧しろ。俺とエステには構うな」
「アンタレスさん」
彼の言葉にシラヌイは沈黙する。アンタレスが人命確保を最優先するのは分かりきっていた。一帯は過疎地だが、周囲百メートル圏内には住宅地が存在する。生体兵器が暴れだせば、住人の命が危険に晒される可能性があった。
だが、シラヌイにも譲れないものがある。
「命令、了解しました。では周囲を包囲監視し、アンタレスさんが目標を鎮圧、エステさんを救助した後、速やかに突入して制圧行動を開始します」
「……シラヌイ、お前」
「だから、早く戻ってきてください。エステさんに言いたいこともありますし」
シラヌイはアンタレスの強さと優しさを信じていた。もっと、自分自身を大事にして欲しい。そう言いたい気持ちを抑え、部下として、弟子としてアンタレスを想い、応えようとする。シラヌイがアンタレスを慕う気持ちは、彼が仲間に向けるそれと同じくらい、大きなものだから。
「分かった。そこまで言われたら、しくじる訳にはいかないな。一時間以内に目標を制圧する。その間、外のことは頼んだぞ!」
「了解! 全力を尽くします。ご武運を」
「お前もな」
アンタレスの胸が熱くたぎる。自分の力を信じ、生還を疑わないシラヌイの気持ちが嬉しかった。前を向く。カワサキ倉庫を見つめ、覚悟を決める。エステを救い出し、テクノカラミティを終息させるために。
ヘルメットを脱ぎ、バイクのハンドルにかける。後部のマルチラックからトランクを下ろす。熱を帯びたボディに手を当て、労をねぎらうように軽くさすった。
「じゃあ行ってくる。また、後でな」
稲光。つぶやきが土砂降りとなった雨に流される。もう後戻りは出来ない。激流に身を委ね、乗り越える。
アンタレスは一瞬だけ微笑むと、きびすを返して倉庫へと向かった。
その背中を見送るボークスは何も答えなかった。
鉄製の扉の前に立つ。白い塗装がはげ、錆が所々に付着している。だが取り付けられている電子ロックシステムは最新式のもので、押しても引いても開きそうになかった。
(ここだけ新しくなっているということは、ここが今も使われているということだな。おそらくは、あまり知られたくないような目的で)
神河コーポレーションという企業そのものは存在する。主に海上輸送事業を営んでおり、日本で五本の指に入るほどの実績を誇る。ただしカワサキの倉庫は数年前に引き払われ、今は使われていないはずだった。
それを何者かが不法に占拠し、利用している。罠が張り巡らされている可能性は十二分に考えられた。そしてもうひとつ、アンタレスは敵について、ある確信を抱いていた。
(奴は、俺の能力に気づいている)
アンタレスの持つ力。意識を電波に変換し、自在に操る。わざわざ招いておきながらロックを作動させていることからも、それはうかがえる。彼を試すつもりなのか? だが敵にいかなる意図があろうとも、アンタレスに立ち止まるという選択肢はなかった。
意識を電子ロックに集中し、脳内からセキュリティーシステムへアクセスする。脳内の黒いディスプレイに回線が投影され、いくつもの光の筋が行き交う。それぞれがひとつの地点に集約し、脈動していた。完全なスタンドアローンシステム、外部に接続されいる様子はない。
幾多の回線の合流点、システム中枢に意識を集中させ、念じた。
(開け!)
アンタレスの神経パルスがシステムを掌握し、目の前の電子ロックが解除された。甲高い音ともに扉が軋み、中の空気が外に漏れ出してくる。側面の壁に張り付く。右手でワルサーP99を構え、左手でトランクを掴んだ。気配は感じない。そのまま一気に突入した。
(暗いな。奇襲にはうってつけだが、どう出てくる?)
クリアリング。高い天井に取り付けられた、わずかな照明を頼りに進む。ブーツの音がむなしく響き、無造作に積まれたコンテナが不気味にアンタレスのことを見下ろしている。そんな虚無の中に、充満しているにおいがあった。
(これは火薬、それにアヴィスーツ用オイルのにおいか? なるほど、連中はここに武器を溜め込んでいたというわけか)
戦場で嗅ぎ慣れた刺激臭。それがコンテナからかすかに漏れている。張られたラベルには海外に紛争地帯における、自衛隊派遣区域の地名が書かれていた。ダミーの倉庫に、これらの品が置かれている理由はひとつしかない。
本来送られるはずの物資を横領し、隠していた。そしてここから一部の品が持ち出され、ロイヤル・ポートで使用された。開け放たれたコンテナには、89式自動小銃や9ミリ機関けん銃、対生体兵器用地雷、19式特殊作戦服が所狭しと並べられている。
こんなことが出来るのは、今回の事件を引き起こした安中しかいない。
(だが安中はもう死んだ。本物も、偽者も。わざわざこの場所をバラしたということは、ここも用済みというわけか)
コーヒーにミルクが溶けていくように、事実が渦を巻いて混ざり合っていく。中東でのラボ襲撃に、日本での闇オークション。別の出来事に思えたそれらが、一杯のカフェオレに仕上がっていく。元凶たる安中も、カップに注がれた材料に過ぎなかった。ほくそ笑み、陰謀のカップを混ぜ合わせた黒幕が、この先にいる。
さらに奥へ進む。コンテナの隙間を縫うように光の筋が見えてきた。ワルサーのグリップを握り締め、神経を研ぎ澄ませる。
敵は、もうすぐそこにいる。
そしてコンテナの山を越えた先にあったのは、異様な光景だった。
(何だ、これは)
粉々にひしゃげたコンテナが四方八方に飛び散り、銃やアヴィスーツのパーツがブチ撒けられていた。瞳のない19式のヘルメットが天井を見つめ、椀部パーツがだらしなく垂れ下がっている。まるで引っくり返されたおもちゃ箱のように、無秩序で混沌とした有様だった。
真ん中の開かれた空間には、大中小、三つのカプセルがあった。六メートルほどのものがひとつと四メートル近くのものがひとつ。最も小さい二メートルほどのものは、ちょうど成人男性ひとりがすっぽりと納まるほどのスペースがある。すでに中身はないが、レジナルドのラボにあった培養ケースと同じ形状をしていた。
その周囲をゆらゆらと影が揺れている。液体が滴り落ち、床にへばりつく。アンタレスは上を見て、絶句した。
鎖でがんじがらめにされ、天井高くに吊るされたエステがいた。体中が白い粘液で覆われ、べっとりと濡れている。はだけた胸元が上下に動く。呼吸はしているようだが意識はなく、状態の判別が難しかった。
「エステ……」
彼女を見上げ、アンタレスは呆然と立ち尽くす。見るに耐えない有様に、自分の不甲斐なさと怒りが湧き上がる。それをぶつけるかのように、目の前の暗闇に銃を突きつけた。
「遊びは終わりだ、レジナルド! 投降するなら今しかないぞ?」
「おや、流石に気づいたようだね? ま、それぐらいじゃないと話にならないけどね」
アンタレスの要求に、男の笑い声が応えた。闇の中から蛇柄のスーツを纏った青年が姿を現す。ブロンドの髪、ハンサムな顔に無邪気な笑みをたたえ、愉快そうにアンタレスを見つめている。レジナルド・クリスティン。二週間前、エステに殺されたはずの人間がそこにいた。
「でも、ここはもっと驚くところなんじゃないかな? エステ君が殺したはずの僕がピンピンしてるんだからね」
「違うな。エステが殺したのはお前のクローン、身代わりだ。安中がクローンだったと聞いたとき、全部分かった。お前は動物だけでなく、ヒトクローンの生成にも手を染めていたんだ。そして死んだと思わせて、今回のテクノカラミティを引き起こした。ケンタウロスをダシにして、俺やエステを誘い込むために」
「どうかな? ヒトクローンなんて他の連中も造れる。ひょっとしたら、今ここにいる僕も、他の誰かの差し金かも?」
「人工妖精。お前の作品。あれの存在はお前とエステしか知らなかったはずだ。それをわざわざラボから持ち出して、俺たちに見せつけた。それが何よりの証拠だ。知らしめたかったんだろ? お前の存在と、お前自身の芸術の素晴らしさを。確かに、あんなものはお前にしか造れないし、できないだろうな。あんな、禍々しくて残酷な、命を弄んで楽しむような所業はな!」
アンタレスがレジナルドを睨む。ただの獲物以上としての感情、冷たく煮えたぎった憎悪が溢れ出す。個人の楽しみだけで命を奪い、いじくりまわし、芸術と称して醜悪な存在へと生まれ変わらせる。アンタレスにはそれが許せなかった。
怒りの奔流を正面から浴び、レジナルドが呆然とした様子でうつむく。肩を震わせ、何かを堪え、盛大に噴き出した。
「素晴らしい! 流石だよアンタレス! やはり君はおもしろい人間だ! 僕の芸術を正しく理解し、評価してくれた。僕はその言葉が聞きたかったんだ!」
「何?」
手を叩き、喜びに満ち溢れるレジナルドが、アンタレスには分からない。得体の知れない狂気が、怒りとぶつかりせめぎ合う。
「まさしく、僕の表現したいことを言ってくれた。大抵の凡人どもは作品の上辺でしか物事を判断しない。オクトパスやケンタウロスを強大な兵器としてしか認識しないし、あの妖精たちもきっと気味が悪いとか、イカレてるとしか思わないだろうね」
「それは事実だ。変わりようのない」
「いやいや、だからこそ美しく、興味深いんだよ! 人間は他の生命の生殺与奪を握るばかりか、自由に作り変えることが出来る。その素晴らしさを伝えたいんだよ。イカレてる? そう、確かにイカレてる。だがそれは自分たち人間の行為そのものを否定するのと同じことさ。医療と称してメスを握り、時には人体構造そのものに手を加えるじゃないか。DNAをいじくって、思い通りの子供を生ませたりしてね。それも分からず、人間は自分たちが認められない行為は頑なに拒む。本当に醜いのは、そういう行為だっていうのにさ」
「醜かろうが素晴らしかろうが、お前の行為は認められない。奪われたものは二度と還らない。人を助けるならまだしも、自分の欲望のためだけに、他の生命を作り変える権利は誰にもない」
「そうかい? でも、君はそうして生まれ変わったんだろ? そして女神の祝福を受けた。電波を操るという力を得てね」
アンタレスの鼓動が一瞬止まる。何故、レジナルドが知っている? アンタレスの動揺を見て、レジナルドが愉快そうに笑う。
「言っただろ。君の事はいろいろ聞いているって。過去に遭遇したウイルステロで、民間人の命と引き換えに君は死んだ。だが、研究中だったナノマシンによって君は蘇った。驚異的な治癒能力と意思を電波に変える力を持ってね。だから規格外の紅いアヴィスーツを操れるし、昨日のホテルでスマホに細工もできた。ここの電子ロックも瞬く間に解除できたんだ。凄腕のハッカーでも、一日近くもかかるセキュリティーを、お茶の子さいさいで突破できた。違うかい?」
反応できなかった。レジナルドはどこまで知っているのか? アンタレスの力の正体、それ以前に力を得た経緯まで知る者は数えるほどしかいない。当時のCIA時代の同僚ですら知らない事実を、目の前の男は淀みなく言ってのけた。
一体誰が? 湧き上がる疑惑に飲み込まれまいと、アンタレスは銃のグリップを強く握る。
「それはお前に話を吹き込んだ奴に聞いてみることだな。俺が自分の口からそれを言う必要はない」
「確かにね。でも僕も気軽に質問できる立場になくってね。あまり深くは教えてもらってないんだ。それでも、君に興味を抱くには十分すぎるぐらいだったけど」
「その好奇心が、自分自身を追い詰めることになってもか?」
「勿論さ。君は人間によって体を作り変えられながらも、人の心と体を保ってる。そこいらのバイオウェポンとは違ってね。いや、それどころか人を超え、より高位の存在になろうとしている。そんな素晴らしい逸材と、僕の技術が競い合えるんだ。これで興奮しないほうがおかしいよ。それに君を倒した後のエステ君も見てみたいしね。絶望に美しい顔を歪めるのか? それとも君を見限って僕に身を委ねるか? 本当に楽しみだよ」
レジナルドは腕を広げ、悦に浸る。不安や恐れはない。熟成させたワインをグラスに注ぐかのように、このひと時を待ち望んでいるように思えた。その頭に、ワルサーの銃口が突きつけられた。
「なるほどな。なら決着をつけよう。お前にエステは渡さない。ついでに、お前に俺のことを話した奴についても話してもらうぞ。あまり陰口を叩かれるのは好きじゃない」
「オーケーオーケー。僕だけ君のことを知っているのも不公平だ。もしも勝てたなら、君の質問になんでも答えてあげよう。だけどその前に、君にどうしても聞きたいことがあるんだ」
これまで無邪気に振舞っていたレジナルドの口角が吊り上げる。アンタレスを嘗め回すように見つめ、悪魔を思わせる冷酷な笑みを浮かべ、告げた。
「化け物に変わった自分の母親を撃ち殺した気分は、どんなだったんだい?」
レジナルドのこめかみに銃弾が殺到し、コンテナから飛び出した白い影がそれを防いだ。