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拾われ子猫

作者: 堂那灼風

 呼び鈴の電子音がふいに静寂を破った。

 雄志は気だるげに眼を開け、立ち上がった。部屋の中は薄暗く、至る所にごみが散乱している。足の踏み場もないほどだったが、構わず雄志は玄関へと向かい、ドアを開けた。

「初めまして。五木雄志君、だったね。私は松崎という」

 突然の来訪者は、黒いスーツに身を包んだ五十代と見える男だった。

「君のお父さんとともに働いていた。この度は、本当に残念だった。心からお悔やみ申し上げる」

 ああ、と雄志は納得とも溜息ともつかない呻き声を漏らした。

「どうぞ。散らかってますけど」

 雄志は憔悴した顔で招き入れた。松崎は無礼な物言いにも気を悪くした風はなく、それどころかより痛ましく感じたようだった。

「ではお言葉に甘えよう。お邪魔します」

 松崎が靴を脱ぐのを待って、雄志は彼を居間へと通した。雄志の自室ほどではないにせよ、そこもあまり変わらない散らかり具合だった。

 卓上のごみを脇にどけ、雄志は松崎に椅子を勧めた。松崎は応じながらも視線は部屋の中を観察している。鞄ごと捨て置かれた本やノートの類に気付くと、顔を曇らせた。

「すみませんね、汚くて。今、お茶でも淹れますんで」

 そう言うと、雄志はのろのろと台所へ向かう。しばらくして戻ってくると、湯気の立つ湯呑を二つ置き、自分も席に着いた。

「今日お邪魔したのは他でもない、君のお父さんについて報告するためだ」

 松崎は湯呑に手を付けることなく言った。深々と頭を下げ、続ける。

「本当に申し訳なかった。我々の考えが甘かったとしか言いようがない。不測の事態だったとはいえ、注意を怠っていた。だが君のお父さんは、決して無駄死にはしていない。それは誓って保証する」

 雄志は無感動な目つきで聞いている。

「何が起こったかは、先日手紙で報せたとおりで間違いない。今後の対応もこちらで何とかしよう。何か聞いておきたいことがあったら、何でも聞いてくれ。君の納得がいくまで答える所存だ」

 誠意のこもった態度であったが、雄志の反応は依然として冷たい。松崎がまっすぐ目を合わせると、ややあって雄志は茶を一口含んだ。

 唐突に、感情の見えない声で問うた。

「なぜ、オヤジは死ななければならなかったんでしょうか」

 その声はあまりに透明で、およそ人のものとは思えない虚無を感じさせるものだった。

 雄志は続ける。

「世界を変えるって、何だったんですか。わざわざ危険なところに飛び込んで行って。殺されるためですか。それで何が変わったんですか?」

 絶望が伝わってくる声で、雄志の言葉は流れ出していく。

「最期はどこの誰とも知れない奴の恨みを買って殺されて、そんな人生に何の意味があったって言うんですか」

 宙に留められた左手は、湯呑を握り締め白くなっている。徐々に堪え切れなくなってきたのか、その声も震え始めた。

「オヤジはなんで……」

 先細りに掠れさせながら、雄志は叫んでいた。松崎は黙して何も答えない。世界はまるで、雄志の悲痛な絶望に沈んでいるかのようだった。

「なんでこんなことに……」

 唇を噛み、雄志は俯く。重い音を立てて湯呑がテーブルを叩いた。

 眉間に皺を寄せ沈痛な面持ちで聞いていた松崎は、ゆっくりと口を開いた。

「雄志君、意味が無かったなんて言ってはいけない」

 言葉を慎重に選びながら、極めて穏やかに松崎は続ける。

「確かに、我々のやっていることは危険かも知れない。理解が得られないこともある。でもね、雄志君。世界を変える、なんて言うのは、そういうことなんだよ」

 物言わぬ石像のように雄志は沈黙している。松崎はそれでもなお、言葉を重ねる。

「君のお父さんがやろうとしていたことは、ある意味で、賭けだった」

 僅かに雄志が顔を上げた。輝きを失った瞳が松崎を映す。それに気付いてか、松崎は雄介に話を向けた。

「雄志君。君は世界を変えてみようと思うかね」

 二人の間に沈黙が落ちる。答えを急かすこともせず、松崎は雄志を待っている。二十秒ほどの後、雄志はぽつりと呟いた。

「無理です。……たかが人間一人にできるわけない」

 松崎はその答えを聞くと、一枚のメモを取り出した。それをテーブルの上に置き、席を立つ。

「本当に無理なのだろうか。君のその答えは、まさにお父さんの一生を否定するものだ。それは分かっているかい」

 雄志の席も通り過ぎ、背中越しに松崎は問いかける。

「絶対に諦めたくはない。私たちはそう思って今日までを生きてきた。もしかすると、君は世界を変えるということに対して誤解しているのかも知れないね」

「誤解……どういうことです」

 雄志は力無く問い返した。

「その通りの意味だよ。世界を変える、それは決して大き過ぎることじゃない。少なくとも君のお父さんはそう思っていた」

 松崎は雄志を見つめていた。無意識なのか、雄志は松崎の方を向いていた。その気配を感じ、松崎は雄志に語りかけるべく振り返ったのだ。

「よく考えてみて欲しい。君のお父さんは何をしようとしたのか。何をしてきたのかを。よりにもよってこんな別れだ。だが、彼の死で君まで駄目になってしまうのでは悲しすぎる。別れを乗り越えてくれ」

 深い悲しみを宿した瞳で、松崎は雄志を見据えた。

「せめて君には理解してほしい。彼の理想を。もしかするとそれこそ、彼が望んだ変革なのかも知れないよ」

 怪訝な顔をする雄志を残し、松崎は今度こそ背を向ける。

「そのメモに連絡先を書いておいた。何かあったら遠慮なく言ってくれ」

 そして松崎は去っていった。雄志の心には、去り際の不可解な言葉が残っていた。

 再び沈黙に包まれた部屋の中で、雄志は思考に耽っていた。言うまでもなく、彼を悩ませているのは松崎の言葉である。冷めきってしまった湯呑を弄びながら、雄志は混乱していた。

「どういうことなんだよ、オヤジ……」

 ごくごく小さなその呟きでさえ、孤独な空間に反響する。

 世界を変えるということは、決して大きなことではない。それが雄志には理解できなかった。世界とは途方もなく大きいもの。それを変えるなどと、蟻が津波を治めるようなものにしか思えなかったのだ。一体どうやって世界を変えようというのか。いや、そもそも何が『世界を変える』ということなのか。考えれば考えるほど泥沼に嵌っていくようだった。

 堂々廻りの思考を断ち、雄志はテーブルに突っ伏した。突然の訪問に始まって謎かけのような言葉だ。とうに雄志の処理能力を超えている。ただでさえ悲しみの淵に在った雄志は、これ以上考えることを放棄した。

 カーテンの向こうから雨音が聞こえ始めた。次第に強くなっていく音を聞きながら、いつしか雄志は眠りに落ちていた。……


 家が揺さぶられるような大音響に、雄志は目を覚ました。どうやら雷が落ちたらしい。眠い目を擦りながら時計を見ると、針は夕方四時を指そうとしていた。落雷を境に、雨も幾らか小降りになってきたようである。

「腹減ってきたな……」

 目を覚ませば、否が応でも頭は三日前に松崎が言った言葉を反芻してしまう。振り払うように、雄志はわざわざ口に出して言った。

 この三日間というもの、雄志は起きては悩み、眠りに落ちる生活を続けていた。長雨もあいまって外出もしていない。大学からも足が遠のいたままである。

 湯呑を持ったまま立ち上がり、雄志は台所へ向かう。しかし、ここ数日はまともな食事も摂っていない。目に付くインスタント食品や菓子を不規則に食べる生活であった。そのため冷蔵庫内の肉や野菜はあらかた消費期限を過ぎ、頼みの保存食品もほとんど底を突いているという状態だった。

 あちこち探し回ってはみたものの、食べられるものと言えば煮魚の缶詰が二つに飴が一袋であった。もともと週に一回は買い出しに行く習慣なので、大した量の貯蔵はない。今週は買い出しにも行っていないため、災害時の非常食を除けばこんなものである。

「行きたくねえな……」

 しかし、外に出なければ食料は無い。言ったところで仕方ないと思いながらも、今日の雄志は独り言をこぼさずにいられなかった。いくら気が滅入っているとはいえ、何故か食欲だけはあるのだ。未練がましく戸棚を漁っていたが、元より自分がしまっていない物があるはずない。仕方なく雄志は買い物に行くことにした。

 散らかり尽くした部屋の中から財布を探し当て、着っ放しで汚れていたトレーナーを着替えると、雄志は小雨の中を歩きだした。

 四、五日ぶりに吸う外の空気は湿っていた。暗い顔で歩く雄志の足下は濡れ、ぐずぐずと降り続く雨は鬱陶しいことこの上ない。空腹を我慢してでも家にいれば良かったと雄志は後悔した。

 さらに悪いのは道中の沈黙である。話し相手もいないため、頭は自然と思考を廻らす。考えたくない思いとは裏腹に、心に引っ掛かった言葉が雄志を引き留めるのだ。無理に独り言で気を紛らわせていたのも水の泡である。部屋に引き篭もったとしても、あの言葉は雄志を離してはくれないだろう。

「何なんだよあんたの理想って」

 雄志は苛立たしげに小石を蹴とばした。泥水が跳ねて靴を汚す。雄志の苛立ちは一層募るばかりであった。

「わかんねえ。世界を変えるなんて、一体何だってんだよ……」

 雄志は立ち止った。不意にこみ上げてくるものがあった。理想も何もわからなくとも、彼は雄志にとって唯一の『オヤジ』だったのだ。彼の理想を考えるということ、それは根本的に彼を想うことである。今ばかりは雨脚の弱さが恨めしかった。

「……ほんと、何がしたかったんだよ、オヤジ……」

 雨の住宅街なので幸いにも人通りは少ない。しかし、雄志にも外聞を憚る気持ちはあった。もはや買い物をするような気持は消え失せていたが、それでも雄志は懸命に歩き出そうとした。町の中心部にある商店街とは反対側へ、どうにか進路を採る。この町の西端は海に面した高台である。今日のような天気であれば、そこの公園にも人はいないはずだった。

 人目を憚りつつ歩くこと数分の後、雄志は気力を振り絞って高台の公園に辿り着いた。しかし、彼はすぐにこの選択を後悔する。今の雄志は海など見たくもないことに気付いたのである。その海原の先で、彼の『オヤジ』は露と消えたのだから。

「畜生、どうして、どうしてオヤジが……」

 雄志は岸壁に跪くと、傘も放り出して柵にもたれかかる。岬の公園なので柵の向こうは断崖、そして遥かな海が広がっている。見渡す限りの雄大な絶景も、今の雄志にとっては悲しみの種に過ぎなかった。それが二度と届かない『オヤジ』への距離に思われて仕方無かったのである。

「わかんねえ。俺にはわからないんだよオヤジ」

 降り止むかに見えた雨は勢いを増してきた。雨粒が雄志を容赦なく叩く。

「悔しいじゃねえか、なんで……」

 涙は後から後から溢れ出し、雨と混ざって滴り落ちる。訃報に際しても雄志はここまで泣きはしなかった。彼にとって、このとき初めて『オヤジ』の死が現実感を伴ったのかも知れない。『オヤジ』は二度と帰ってこない。『オヤジ』には二度と届かない。雄志は初めてそれを実感したのである。

「そこの人、何してらっしゃるんですか」

 声も枯れるばかりに泣き濡れる雄志の背後から、何者かが声を張り上げる。雄志はこの上もなく情けない姿を晒していたが、その精神は構う余裕もないほど摩耗していた。突如襲ってきた絶望と悲哀に打ちひしがれ、身投げも辞さない程に思い詰めていたのである。

 初め雄志は、そもそもその声が自分に向けられたものだとも気付かなかった。

「全身びしょ濡れじゃないですか。まだ寒いのに、風邪でも引いたらどうするんです」

 慌てて走り寄ってきたのは、雄志と同じくらいの年恰好をした若い女性だった。その手が肩に触れるに至って、ようやく雄志は自分に言っているのだと理解した。

「こんなに濡らして……死ぬつもりですか」

 我がことのように騒ぎ立てる女性を、雄志は妙に冷めた気分で見つめていた。感情も湧かない程に疲れきっていたと言った方が正しいかも知れない。とにかく、雄志には自分の状態などどうでもよかったのである。

「早くこっちに来てください、大変なことになりますよ」

 その女性は苦労して雄介を引き起こすと、少し下った先の東屋まで引っ張っていった。雄志も特に抵抗はせず、されるがままに伴われていった。東屋もあまり良い状態とは言えなかったが、それでも直接の雨は防げるようになっていた。やはり雄志は無気力なまま、女性の介抱を受けたのである。

 上着を脱がされ、ハンドタオルで申し訳程度に水気を拭くだけの簡素な処置ではあったが、それが終わるころには雄志も多少は我を取り戻していた。

「……すみません。世話をかけました」

 未だ気分は沈んだままであったが、一応の謝辞を述べるくらいには立ち直っている。そんな雄志の様子に居たたまれなくなったのか、女性が思わずといった風に問うた。

「どうしてあんなことを。本当に死ぬつもりかと思いました」

 対する雄志は黙り込む。恩人とは呼べるのかも知れないが、それでも事情を話す程に気分は良くなかった。

 そのとき、弱弱しい鳴き声が聞こえた。そこで雄志は、東屋にいるのが自分たちだけではないことに気付いたのである。

「……猫、ですか」

 それは段ボール箱に入れられた子猫だった。雨のせいで箱はふやけ、猫も凍えて弱っている。雄志に宛がったものとは違うタオルに包まれて震えていた。

「さっき拾ったんです。雨の中で死にかけてたから。……あなたみたいに」

 女性は最後に一言、からかうように付け加えた。雄志にしてみれば笑いごとではなかったが、特に言い返す気もない。それでしばし、会話を続ける。

「物好きな人ですね。どの辺りに住んでるんですか」

 わざわざ捨て猫を拾うくらいなのだからこの町の住人だろう、そう当たりを付けて発した雄志の言葉である。しかしその予想はすぐさま裏切られた。

「えっと私、ここの人じゃないんですよ。旅行でこの岬を見に来て。雨は残念ですけど、折角だから見ていこうって来てみたら、この子がいたんです」

 どことなくばつが悪そうに女性は言った。

「やっぱり変わってますよね。昔からよく言われるんですよ」

 女性は困ったように笑う。そう言われたところでどう返したら良いものか、雄志は分からなかった。

「じゃあ、よくこんなことするんですか。どうして」

 困った挙句に雄志はそんなことを質問していた。なんの捻りもない、純粋で不躾な質問である。その質問にも気を悪くした風は無く、女性は答える。

「放っておけないから、かな。やっぱり助けられるものなら助かって欲しいじゃないですか。そう、思いませんか」

 逆にそう問われても、雄志はすぐに返答できなかった。確かにその思いは理解できる。しかし行動に移すとなると別問題だ。安易に同意しても良いものか、雄志は判じかねた。

「分かりますけど、それで拾う人なんてそうそういませんよ」

 言うに事欠いてあまりに配慮の無いことを言う雄志である。

「しかも旅行先で、ですよね。俺を助けてくれたことにも感謝しますけど、あなたみたいな人に会ったのは初めてです」

「そこまで変でしょうか」

 女性は少し悲しそうに聞き返す。抱きかかえた子猫に気遣わしげな視線を送る。

「変、と言うか珍しいですよ。あなたみたいに自分の都合を放ってまで猫を助けるような人を俺は知らない。さっきだって、結局あなたもかなり濡れたじゃないですか」

 雄志は多少の罪悪感を覚えながら言う。冷静に考えてみれば、見ず知らずの自分が馬鹿やっているのを止めるために、雨に当たらせてしまったのだ。彼女の弁を借りるなら、風邪をひかせてしまうところだったのである。

「私、思うんですけど」

 子猫を撫でてやりながら女性は語る。

「この子たちにも人生を楽しむ権利はあるんですよ。もし捨てられたまま死んじゃったりしたら、きっと飼い主を恨んで、拾ってくれなかった人を恨んで、生まれてきたことを後悔しながら死んでいくと思うんです」

 女性の睫毛が悲しそうに下を向く。子猫を撫でる手は止めないまま、言葉を継いだ。

「それって一番、悲しいことじゃないですか」

 雄志は言葉を挟むこともできないまま、女性の話に耳を傾ける。

「だから私は、そんな猫たちを放っておけないんです。誰からも見捨てられたまま死んでしまうより、せめて私だけでもこの子たちを愛してあげたいんですよ」

 仄かに表情を和らげ、女性は続ける。

「そうしたら、この子たちも少しくらい、生まれて良かった、って思えるんじゃないかなって。ただ捨てられて死んでいくより、その方がずっと素敵だろうなって」

 先ほどまで震えていた子猫は、女性の腕の中で安らいでいる。雨の降り続く寒空の下であっても、その姿だけは祝福されたように暖かかった。

「でも、あなた一人で助けられる猫なんてたかが知れてる。それでも続けるんですか」

 その優しい理想に、どういうわけか雄志は反発を覚えた。一人でできることには限界がある。その一般論によるものか、それとも別の理由があるのか、雄志には分からなかったけれども。

「続けると思います。私が助けられる子は限られてますけど、それでも何もやらないよりは良いと思うから。それに、何より私がそうしたいんです」

 慈しみ深く、而して芯の強い言葉だった。

「もしかしたら、私に倣って同じようにしてくれる人も現れるかもしれませんよ」

 強さから一転、今度は楽しそうに女性は言う。その声は諦め、嘆きといった暗い物の一切ない、希望に満ちた響きだった。

「まあそれでも、無駄なことだってよく言われるんですけどね」

 雄志の中で閃光が走った。ここに至って気付いたのである。己が女性に対して何故か抱いていた反発、その正体に。

 だからこそ雄志は、一番初めの問いに答えることにした。

「俺が何をしていたのか、ってさっき聞きましたよね」

 出し抜けに語り始めた雄志に、女性はきょとんとした表情をうかべた。ややあって自分の問いに対する回答だと気付いたのか、子猫を抱き直すと雄志を見つめる。

「俺のオヤジが死んだんです。オヤジって言っても養父なんですけどね。昔、家族がみんな死んじゃって。色々あって引き取ってくれたんです」

 他人には滅多に話さない昔話である。雄志の友人には、親子に血縁が無いことを知らない者も少なくない。

「そのオヤジは物好きな男で、……俺を引き取るような奴ですからね。その仕事も、やっぱりへんてこりんでした」

 昔を思い出しているのか、雄志の表情に微笑が混じる。

「俺が昔、オヤジは何やってるんだ、って聞いたときです。何て答えたと思いますか」

 懐かしむように柔らかな表情で、雄志は女性に問いかける。女性は首を傾げて見せた。

「オヤジは、俺は正義のヒーローだ、なんて言ったんですよ。でも変な話、俺にとっても違和感のある答えじゃなかったんですよね」

 遠い目をして雄志は話す。

「大好きだったんですね、お父さんのこと」

 女性も穏やかに相槌をうつ。

「はい。身寄りのない俺を引き取ってくれた『ヒーロー』でしたから。それにオヤジは、よく海外出張で家を空ける人でした。人望はある人だったから、俺が小さい頃は近所の人たちも面倒を見てくれて。あまり家にいないオヤジでしたけど、そのせいで余計にヒーローっぽかったのかも知れません」

 雨脚が弱まり、寒さも幾らか和らいできた。子猫が女性の腕の中で身動ぎする。

「後になって詳しく聞けば、オヤジの仕事は途上国に学校を作る手伝いだったらしいんですよ。仲間たちと一緒に世界中飛びまわって、建築やら教育やらを教えてたそうです」

 雄志は無意識のうちに明るくなってきた表情で続ける。思い出を語っているにも関わらず悲しみがこみ上げてこないのが不思議だった。

「俺の養育費もオヤジの仲間たちが助けてくれてたみたいで。とにかく子供を助けることに情熱をかけてる人たちでした」

 女性は一言も挟まず、静かに聞き入っている。子猫もまた眠りに落ちたようだ。

「でも、オヤジは死んでしまった。現地にも反対派ってのはいるらしくて。つい一週間前でした」

 自分でも驚いたことに、雄志は苦笑を浮かべて話ができていた。

「俺は昔から思ってたんです。オヤジたちのやってることは確かに立派かも知れない。でも、ほんの一部の子供の為に働いたって、結局は大した意味もないんじゃないかって」

 雄志は一つ大きく息を吐いた。

「これまで必死に頑張って、その結果がこれです。助けるはずだった現地人に殺される。俺はやっぱり、オヤジたちの行為に意味は無いって思った」

 握った右拳を左手で包み、雄志は女性の目を見る。

「でも、あなたは違うんですよね」

 女性は静かに頷いた。子猫が幸せそうに鼻を擦る。

「俺、何故かあなたの言う理想がいちいち気に食わなかったんです。でも気付きました。さっき、あなたみたいな人は初めてだ、って言いましたよね。あれ間違いです」

 雄志は静かに目を閉じた。女性は何も言わず、雄志の言葉を待っている。

「俺はあなたに、オヤジを重ねていたみたいだ」

 雄志はこの数日間で初めて、笑顔を浮かべていた。

「さっき、急にオヤジの死に耐えきれなくなって。それで人目の無い処に来たんです。そしたらあなたに拾われて」

 二人の間にささやかな笑いが起きる。雨はもうほとんど降っていない。黒雲も薄まってきたようである。

「そうだったんですか。もう、悲しくないんですか」

 女性は穏やかに問う。

「悲しいです。それに、悔しい。だけどもう、それだけじゃない気がします」

「そう、良かった」

 女性は蓮華のように微笑んだ。

 少し気恥ずかしくなったのか、雄志は居心地悪そうに顔を逸らす。

「すみません、こんな話」

 それでも女性は至って自然に答える。

「良いんですよ。聞いたのはこっちですし」

 しばらくの沈黙ののち、雄志が口を開いた。

「俺はこれからも悩むと思います。オヤジの人生に、意味があったのか」

 対して女性は優しく答えた。

「あなたがいるじゃないですか」

 そう言って、笑いかけた。


 案の定、風邪を引いていた。雄志が、ではなく女性の方が、である。

「これ、夕食の分の薬です」

「何から何まですみません……」

「それは言わない約束ですよ」

 あの夕方の帰り際のこと、子猫を抱えて立ち去ろうとする女性がくしゃみをした。念のため確かめてみたところ熱を出していたのだが、あいにく宿泊費に余裕が無いと言う。助けられた手前見捨てることもできないでいたところ、どういうわけかこうなった。

 理由として第一には子猫の存在があるのだが、女性の希望もあって雄志の自宅である五木邸の一室が宛がわれているのである。もっともその希望というのも、貸すほどの余裕が無い雄志の経済状態を慮ってのものかも知れなかった。

 女性は、天嶺ほのかと名乗った。

 その後の数時間は大わらわであった。割合綺麗な空き部屋を掃除し、布団を敷く。散らかり尽くした居間を片付ける。台所の生ゴミをまとめ、放置していた食器を洗う。十日近い倦怠のつけが一気に回ってきた形である。

 加えてほのかは病人なので放っておくわけにもいかず、仕事の合間を縫っては様子を見なければならない。薬を飲ませ、眠りに就いたのを確認してから作業を始めたが、一通りの整理を終えた時、既に時刻は七時に差しかかろうとしていた。本来は空腹に耐えかねて買い出しに行くはずだったのだから、いい加減に雄志の腹も我慢の限界である。

 ほのかの部屋を訪れるのはこれでもう三度目だが、未だ目を覚ます様子は無い。枕元に書置きを残し、雄志は夕飯の買い出しに向かった。体を動かしたのも久々であれば、まともな食事も久々である。疲れ果ててはいたものの、雄志は足取りも軽く近所のスーパーマーケットへ向かったのだった。

 しかし、この買い物がまた難儀であった。思い返せば、自分には看病された経験こそあれ、看病した経験など無い。雄志は一人暮らしなので炊事洗濯は人並みにできるが、いざ看病という段になって何を用意すればいいものやら戸惑ってしまうのである。

 幸いにも米はある。看病の定石と言えばやはり粥であろう。そう思い立ち、雄志は粥に入れる具をどうするか、それを考え始めた。粥と言えば梅干しか、しかしそれでは味気ない。ならば栄養もある卵を入れることにして味付けはどうする。そもそも出汁には何を使うべきか。昆布、それとも鰹節、思えば弱っている子猫にも何か食べさせなければならない。牛乳は良くないと聞いたことがあるが、猫缶で良いものか。……

 気付けば雄志は時間も忘れて買い物に没頭していた。彼自身気付いてはいないが、買い物というよりも誰かの為に献立を考える、その過程を楽しんでいるようだった。

 結局のところ、雄志が帰途に就いたのは一時間も経ってからのことだった。薬が効いているのか、出発の時点では目を覚ましそうになかったほのかであったが、一時間も経てば容体が気にかかる。居間には子猫を残したままだ。手に食い込む買い物袋を握り直すと、雄志は急ぎ足で自宅へ戻った。

 外気は昼間の湿気を残してひんやりしていたが、一歩玄関に入れば一変した。冬は抜けたと言えども、まだ寒さの残る季節である。道すがらかじかんでしまった指先がほぐれると同時に、雄志は心まで和むのを感じた。廊下の奥から、お帰りなさいの声がする。

 懐かしさに似た安心感を抱きながら、雄志はほのかの無事に安堵した。目を覚ましてはいるようだが、大人しく床に就いているらしい。扉越しに雄介は声を掛けた。

「調子はどうです。今から粥でもつくりますから、待っていてください」

 手を洗うと、雄志は手早く調理を進めていく。流石に手慣れたものであった。鼻唄交じりに鍋を扱う姿からは、隠しきれない高揚が見て取れる。

 うっかり作りすぎてしまった粥を平らげ、ほのかを再び寝かしつけた頃には十時近くなっていた。子猫もそれまでには暖かな居間で眠りに就いていた。

 最後の仕上げと、雄志は風呂を沸かした。この数日はほとんど烏の行水だったので、きちんと入浴するのも久しぶりのことであった。

 湯船に浸かると、雄志は大きく脚を伸ばした。大の男が体を伸ばしても窮屈さを感じない浴槽は、この家の自慢の一つだ。そして雄志にとっても、かつて『オヤジ』と共に入った想い出の風呂であった。二人で入ると少し手狭に感じた湯船。一人で入るようになってからは広さを持て余し、今やその湯船は余裕を持って雄介を包みこむ大きさになった。首まで湯の中に沈めていると、湯気の向こうから今でも『オヤジ』が語りかけてくるような心地がした。

「――ありがとうな、オヤジ」

 一度ならず二度までも、自分は助けられて、こうして安穏としている。感謝を囁くと、雄志は溶け出していくような疲労に身を任せた。湯けむりの合間に、ささやかな寝息を立て始めた。

 うたた寝から覚めると、雄志は自室を整えるのもそこそこに眠りに就いた。予期せぬ同居人の登場に、疲れが溜まっていたのもある。そもそも時間ならいくらでもあるのだし、自分の部屋など後回しで構わない、雄志はそう思っていた。かくして波乱の一日は終わりを迎え、二人と一匹の日々が始まりを告げたのだった。……


「本当にすみません。……ミイラ取りがミイラに」

「叩き出しましょうか」

 こんなやりとりも三日目である。ほのかの熱も大分下がってきたが、未だ本調子ではないため寝込んだままである。

「そうだ雄志さん、少し前に松崎さんって方からお電話がありましたよ」

「ああ、例の件ですね。わかりました」

 例の件とは、話は二日前にさかのぼる。

 ほのかの為に部屋を整え寝かせた後で、雄志は松崎に連絡を取ったのである。

「松崎さん、五木雄志です」

「……雄志君か」

 松崎の声は緊張を孕んでいた。

「ありがとうございました。俺、オヤジの理想も少しは分かった気がします」

 電話の向こうで、松崎が安堵するのが感じられた。

「……そうか。良かった。……本当に良かった」

 その声が湿っぽかったのは、雄志の聞き間違いではないはずだ。そしてその席で、松崎から一つの連絡があった。

「雄志君。一つ君に贈るものがある」

 予期していなかった報告に、雄志はその中身を訊き返した。

「彼の遺品がまだ残っていてね。書類に紛れていたんだ。生真面目な彼らしいよ」

 松崎は思い出を懐かしむように苦笑した。そしてその遺品の内容は、雄志には福音じみて聞こえたのだった。

 そして二日後の今日、五木邸に宛てて再度の連絡が取られた次第である。

「今日発送した、って仰ってましたけど、何のことですか」

 話の飲み込めていないほのかは首を傾げて訊ねてくる。雄志は答えた。

「手紙です。オヤジ宛てに、世界の子供たちからの」

 雄志は晴れ晴れとした笑顔で言う。

「生前届いてた分を、団体の書類としてまとめてたらしいんです。変なところで生真面目な人ですから」

 笑い合う二人の間を子猫が走り抜ける。この子猫も三日間で随分と元気になっていた。

 と、その和やかな雰囲気を打ち砕く衝撃の告白が雄志を襲う。

「でも松崎さん、最初は二回も電話を切っちゃったんですよ」

 この段になってもまだ、雄志は自分の失策に気付かない。

「……間違い電話だと思ったらしくて」

 遅まきながら雄志は理解した。最大の失態であった。

「俺ちょっと松崎さんと話してきます」

 動揺を隠しもせずに雄志は廊下に出た。番号を打つのももどかしく松崎を呼び出す。数回の呼び出し音の後、幸いにも松崎はすぐ電話を取った。

「松崎さん、俺です。雄志です。今日のことで少し話が」

 あまりの慌てぶりを松崎は苦笑を以て迎えた。

「ああ、昼間の件かい。いやはや男子三日会わざればと言うが。本当に三日でな……」

 面白がっている松崎の口調にも気付かず、雄志は捲くし立てる。

「違うんです、そうではなくて。彼女は俺のせいで風邪をひいてしまいまして――」

 慌てるあまり周りが見えなくなっている雄志を制し、松崎は言った。

「分かっている。話は聞いたよ。だからこそじゃないか」

 雄志は話に付いて行けず、呆気にとられている。

「三日。私が君と会って、たったの三日だ。君は見事に別れを乗り越えてしまった。実に立派じゃないか」

 雄志も頭を冷やし、松崎の言っていることを理解し始めた。

「……俺一人じゃ無理でした。冗談じゃなくて、何かの拍子に自殺してもおかしくなかった」

 二日前、雨の降る岬での出来事を思い出す。雄志はまさに瀬戸際に立っていた。

「彼女が俺を助けてくれたから、俺はこうしていられるんです」

 ほのかと交わした言葉の数々を思い起こす。無謀な夢物語に見えた『オヤジ』の理想、その思いに気付かせてくれた言葉たちだ。

「オヤジが助けてくれたように、彼女は俺を助けてくれた。だから俺はオヤジの夢も理解できたんです」

 一言ひとこと噛み締めるように、雄志は言う。

「オヤジは死んだ、もういない。だけど、俺はオヤジの息子です」

 松崎は雄志の思いを受け止めるように沈黙を守っている。雄志は最後の一言を伝えた。

「だからオヤジは、本当に世界を変えたんだと思います」

 満足げな沈黙を置き、松崎は口を開いた。

「雄志君、余計な御世話だとは思うが……君は五木の息子であって、五木になる必要はない。君は彼ではなく、君自身の道を生きろ。それが――」

 雄志は、松崎の最後の言葉に重ねて言った。

「オヤジの造りたかった世界、ですよね」

 受話器の向こうから、松崎の微笑が漏れ聞こえてきた。

「ああ、その通りだ」

 そして、どちらからともなく電話を切った。これ以上の言葉を重ねる必要は無かった。

 雄志はゆったりした足取りで部屋に戻る。扉を開くと、出迎え代わりに子猫が跳びついてきた。もはや凍えて震えていた影は微塵もない。

「男子三分会わざれば、ってやつですね」

「言いませんよそんなこと」

 微笑むほのかと二人して笑い合う。子猫も一緒に一声鳴いた。

「そうそう、さっき雨が上がって、……見てください」

 そう言うとほのかはカーテンを開けた。夕刻の斜陽が部屋に射す。

 指し示す紅の空に、虹が一筋架かっていた。




2009年頃執筆。

かなり時間をかけた覚えがあります。

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